そういちコラム

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ル・コルビュジエ・「無名の若者が巨匠になるまで」の典型

ル・コルビュジエ(1887~1965)は、20世紀を代表する建築家です。なお、ル・コルビュジエはペンネームで、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレといいます。10月6日は、彼の誕生日。

彼は、数々の邸宅や公共建築のほか、大風呂敷な都市計画などで知られています。積極的に文章を書き、講演をして、世界中から(日本からも)弟子が集まりました。カリスマ性のある巨匠らしい巨匠でした。

2016年には、彼の一連の作品(上野の国立西洋美術館を含む)が世界遺産となっています。

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そんな巨匠も、当然ですが最初は無名の若者です。

スイスの田舎町(フランス系住民が主流の地方)で時計の装飾加工の職人の子として生まれ、地元の美術学校で彫金を学び、時計の装飾の仕事をめざしました。

しかし17歳のとき、美術学校の恩師の紹介で地元の住宅建設の仕事に助手として参加し、建築を志すように。彼はこの恩師から文化・芸術の新しい潮流について教わり、影響を受けています。

その後20歳のときには建築の仕事で貯めたお金で、長い旅へ。ヨーロッパ各地の建築を見て、建築家たちを訪ねました。著名な建築家の事務所で何か月かアルバイトをしたこともあります。

旅から戻ると彼は22歳のときに、地元で事務所を構え、住宅設計の仕事を始めます。そして、1年ほどギリシャなどをめぐる旅をしたほかは、8年のあいだ地元で活動して数件の住宅を設計したのでした。

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そして30歳のときには一旗あげようと、パリへ。地元で多少の実績を積み、そのまま故郷にいればやっていけるはずでしたが、広い世界で活躍したかったのです。

でも、田舎で数件の家を建てただけの若い建築家が、パリで仕事を得るのは容易ではありません。たとえば「給水塔の設計」のような地味な仕事で食いつないだのですが、苦しい生活が続きました。

仕事が来ない中、33歳のとき、仲間と文化・芸術の雑誌を創刊。彼ともうひとりの仲間が記事のほとんどを書く、手作り感覚の雑誌でした。「ル・コルビュジエ」のペンネームは、この雑誌の頃からのもの。

彼はこの雑誌で、自分の先鋭的な建築論・芸術論を展開しました。これが一部で評判となり、「最先端」好きの一部の金持ちから住宅の仕事が入るように。

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そして40代前半には、サヴォア邸(1931)のような代表作のひとつも誕生しました。その頃から「一流」と認められ、公共建築も手がけるようになっていきました。

その後、第二次世界大戦(1939~45)の厳しい時代を経て、戦後の60歳~70歳代の時期には、大きな傑作をいくつも残しました。集合住宅・マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952)、ロンシャンの礼拝堂(1955)、ラ・トゥーレット修道院(1959)――こうした仕事で彼は、20世紀を代表する巨匠になったのです。

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以上のル・コルビュジエの成長過程をまとめると、こうです。

時計装飾の職人をめざす田舎の少年 → 恩師の導きで建築の仕事を体験 → 海外を放浪 → 建築事務所でバイト → 田舎の若い建築家 → 大都会で開業するが仕事なし → 自分でつくった雑誌で情報発信して仕事が来るように → 先端的な建築家として頭角をあらわす → 一流の建築家として認められる → 世界的な名声の確立 → 20世紀の偉大な巨匠

このように「無名の若者がだんだんと成長し、大きくなる」プロセスを、彼の人生は典型的に示しています。

彼にかぎらず、成功して「巨匠」になった建築家の人生は、概してこういうプロセスをたどるものです。

ここでは立ち入りませんが、たとえば安藤忠雄さんもそうです。安藤さんの歩みは、ル・コルビュジエと重なるところが多々あります。

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建築家は依頼者あっての仕事です。若手のうちには大きな依頼は来ません。

実績を積むにつれて仕事のスケールが大きくなり、キャリアのピークは人生の後半以降になるのが一般的です。その過程が、建築作品によって視覚的に示されます。

このあたりが、若いときの仕事が主要な業績であることが多い科学者とはちがうわけです。作家や芸術家でも、若い頃の作品のほうが有名な場合は少なくありません。

「人は、一歩一歩成長する」ということをみるには、巨匠建築家の人生が参考になります。

(ジャンジェ『ル・コルビュジエ』創元社などによる)

 

 

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