そういちコラム

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ボーア研究所のコペンハーゲン精神(わけへだてのない協力・自由な討議・ゆとりとユーモア)

「量子力学」の建設者、ニールス・ボーア(1885~1962、デンマーク)は、アインシュタインと並んで、20世紀を代表する物理学者だといわれます。

でも「量子力学とは何か」をきちんと説明する能力が私にはありません。とりあえず「現代物理学の重要な領域で、原子や素粒子などの、極小の世界の状態を説明する科学」というくらいのイメージで、以下読んでいただければ。

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ボーアとアインシュタインはどちらも20世紀物理学の巨人ということですが、アインシュタインのほうがジャーナリズムでの扱いなどから一般には名前が知られています。

でも、ボーアのほうがアインシュタインよりもはるかにまさっていることがあります。それは、多くの弟子を育てたことです。

アインシュタインは、ほとんど弟子をとりませんでした。

一方、彼が所長をつとめるコペンハーゲン(デンマーク)の「ボーア研究所」には、世界中から物理学者が集まりました(日本人も行っています)。そして、ボーアを中心にワイワイ議論しながら研究を進めました。そうして多くの人材が育っていったのです。

20世紀なかばには、世界のおもな原子物理学者の何割かは「ボーアの弟子か孫弟子」という状況になっていました。

「大家」には、自分の仕事を進めるだけでなく、このように弟子を育てる義務があるのではないでしょうか。ボーアは、その義務をみごとに果たした人といえます。

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そして、ボーア研究所に集まる人たちのあいだでは「コペンハーゲン精神」というものが共有されていました。

それは「創造的な研究の場における精神」とでもいうべきもので、要約するとつぎの事柄から成っている。(吉原賢二『科学に魅せられた日本人』岩波ジュニア新書などによる)

①わけへだてのない協力の精神
②型にはまらない自由な討議
③ゆとりとユーモアのある探究

これは具体的にはどんな様子なのか? 

1920年代にボーア研究所に在籍した日本人の物理学者(堀健夫、京大物理学科を1923年に卒業)は、ボーア研究所での日々をふり返って、こう述べています。

《コペンハーゲン・スピリットというふうな名前もついているボーア研究所の雰囲気というものは、まことに我々の驚嘆に値するもので、日本における雰囲気とは全く違っておりました》

そして、こんな様子を述べています。

とにかくコロキウム(討論会)が、頻繁に行われる。日程が決まっているわけではなく、誰かが討論の材料を持ってくると、すぐにボーア先生自身が各研究室をまわって『今から集まれ』と招集して始まったりする」

コロキウムの議論の活発なことといったら、それこそ本当に日本では経験できない活発さ。お互いがじつに無遠慮に質疑応答を行っている。ボーア先生をはじめ、世界のそうそうたる科学者たちが、そんな議論をしている」

ボーア先生は知識や趣味の豊富な人だった。物理学以外の話もいっぱいした。例えばツタンカーメンの王墓の話を(考古学者の本を読んだ受け売りで)、延々と語っていることもあった。それが面白かった」

ボーア先生からは、いろんな遊びもみせていただいた。例えばハンカチの両方を持って、これを離さないで結ぶことができるか?という問題を出し、先生はこういうふうにしてやるんだと実演して、みんながあっと驚くとか。ほかにもいろんな遊びをした」(西尾成子『現代物理学の父 ニールス・ボーア』中公新書)

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たしかに創造的で楽しそうですね。

仁科芳雄(1890~1951)という物理学者(昭和の戦前から戦後まもなくの時期の日本の物理学のリーダー)も、1920年代にボーア研究所に派遣されているのですが、2年の滞在の予定だったところを5年に延長しています。

派遣元の日本の研究機関(理化学研究所)が費用を出してくれるのは2年間だけだったので、後半の3年間は自費での滞在です。

それだけ研究者として「有意義で居心地が良い」と感じたのでしょう。

ただし、自費での滞在になってから、ボーアのとりなしでデンマーク政府から仁科に奨学金が出ています(本当にいい先生)。(『科学に魅せられた日本人』)

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さて、近年の日本の科学者たち(とくに若手)は、厳しい環境に置かれていると聞きます。そのような報道・レポート・著書がいろいろあります。

そういう厳しさのなかにある科学者からみれば、コペンハーゲン精神なんて、まさに「夢物語」「ファンタジー」「お花畑」なのでしょう。

でも、それではやはりいけないはずです。

ボーア研究所に集まったような世界レベルのエリート科学者じゃなくても、コペンハーゲン精神的なものは、人が創造的な仕事をするうえで大事なことでしょう。

なにしろ「わけへだてのない協力の精神」「型にはまらない自由な討議」「ゆとりとユーモアのある探究」です。

これは、多少とも創造的であろうとするなら、大事であるにきまっていると思います。

でも、日本にかぎらず、世の中の多数派の組織はコペンハーゲン精神とは対極の精神で日々運営されているのでしょう。

つまり「上下関係に(ものすごく)こだわる」「形式・前例・建前に縛られた、忖度に満ちた言動」「組織のエゴや、個人レベルの利己主義」が、場合によって濃淡はありますが、私たちの組織ではしばしば力を持っている。

もちろん「ゆとりとユーモア」なんて思いもよらない……

なお、すべての組織がコペンハーゲン精神でないといけない、などということはありません。この精神になじまない活動も、社会にはいろいろあるでしょう。でも、先進国ほど、この精神は大事になるはずです。

また、創造的であることが求められる組織でコペンハーゲン精神的なものを大切にして日々活動している人も、世の中にはいるとは思います。でもその人たちは、自分たちが圧倒的な少数派だと感じているはずです。

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なぜ、コペンハーゲン精神はないがしろにされるのか? ここではとても論じきれません。いや、私もじつはよくわかりません。

しかし、この世界には例外的ではあっても、コペンハーゲン精神がかなり実現している場もあるはずです。そういう場を多くつくった社会や組織は、ほかの集団よりも多くの創造的・生産的活動を積み重ねて発展しているでしょう。

そして、そういう社会・組織では「コペンハーゲン精神」なんてわざわざ言わないはずです。

でも、どうして「コペンハーゲン精神」が私たちにはなかなかできないんでしょうね? これは宿題にしておきます。人類の課題といってもいいでしょう。

ボーア

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