そういちコラム

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「論文入門」というより「学問全般への入門」・小熊英二『基礎からわかる論文の書き方』

このあいだ小熊英二『基礎からわかる論文の書き方』(講談社現代新書、2022年)を読みました。

本書の話をする前に、著者の小熊英二さん(1962~)について。それが本書を語るうえで大事なのです。ご存じの方も再確認ということで。

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小熊さんは著名な社会学者で慶応義塾大学教授。東京大学の農学部を卒業後、岩波書店に数年勤務しましたが、東大の社会科学系の大学院に入りなおして博士号を取得。

大学院在学中に、修士論文を書籍化した『単一民族神話の起源』(1995年)が出版され、評判となる。

その後は博士論文にもとづく『〈日本人〉の境界』(1998年)や、『〈民主〉と〈愛国〉』(2002年)、『1968(上・下)』(2009年)などを著す。これらの代表作はいずれも、近現代の日本の社会・思想を扱った学術的な大著です。このほかにも、話題になったいくつもの著作がある。

それらの仕事は高い評価を得ていますが、有名なだけに批判もそれなりにある。小熊さんの主著はどれも、膨大な文献・資料を駆使した、分厚い本。その迫力に圧倒される人もいれば、「冗長だ」という人もいる。

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私は、小熊さんの主著のうち『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)の1冊だけ、十数年前に読んで、今も本棚にあります。960ページもある本です。

この本は、数多くの昭和の知識人の著作・発言を取り上げて分析し、戦後思想における「民主」と「愛国」の共存やつながりなどを論じています。

「民主」と「愛国」は鋭く対立すると思われがちだが、じつは高度成長期以前にはそうでもなかった、というのです。

それを、ふつうは1冊の本では扱わないような幅広い分野をカバーして述べている。

私の知識では、この本をきちんと論評することはできません。ただ、この本を「冗長」とは思わなかった。学術的著作であっても一般読者に伝わる書き方、問題意識の明確さなども特徴だと感じました。

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つまり小熊さんは「若い頃から旺盛に活動する、人文・社会系の著名な学者」だということです。

そして学者のなかでも、とくに幅広い分野の知識を、これまでの研究で身につけてきた。基本はアカデミズムの人ですが、一般読者や社会に発信することもできる。

また、大学時代は理系の専攻(農学部)だったことも重要。そして大学では論文の書き方などを指導する「アカデミック・ライティング」の講座も担当しているとのこと。

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そういう学者が「論文入門」の新書を書いた。470ページ余りの、新書としてはやはり分厚い本です。

この本はいわゆる「論文の書き方」の本ではありません。

狭い意味での「書き方」が述べられているのは、最後の3~4割です。「第9章 構成と文章」「第10章 注記と要約」「第11章 校正と仕上げ」という最後の3章などはそうです。

ではあとの3分の2は何かというと、まず最初の3割は「論文とは何か」「科学・学問とは何か」という、そもそもの話です。

「第1章 論文とは何か」「第2章 科学と論文」「第3章 主題と対象」という最初の3章がこれにあたる。

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第1章では《論文とは、読者に自分の主張を述べ、それを論証し、説得する型式》の発達したものだ、という定義から始まって、そのような形式は古代ギリシアから唱えられていたことが、アリストテレスの『弁論術』などから述べられる。

そしてその基本が現代のアメリカでは「序論・本論・結論」の型式として教えられることなどが説明される。

また、これとは異なる型式として、古代ギリシア以来の「弁証法」という方法や、弁証法にもとづいたフランス式の論文のあり方などにも触れている。

そして、第2章の「科学とは」というテーマに入る。論文が論証や説得を行うものなら《学術論文について説明するには、科学というものについて述べる必要があります》とのこと。

それは《科学も説得や対話の技法として、発達した面があり》、《そのため、説得の技法としての論文と、科学は相性がよい》からであると。

では科学とは何か。本書ではその議論を、科学以外の学問も含む「学」一般とは何か、というところからはじめます。

「学」とは、前提となる公理を共有して、根拠と論拠を積み上げるものだ。そしてこのような「学」のあり方に、公開と追検証(ほかの研究者が実験的に検証できること)が結びついて、近代科学が生まれた……

そしてこのような展開のなかに、またアリストテレスが出てきます。アリストテレスも上記の「学とは」に近い見解であると。

このほか、数学・幾何学はどういう学問か、科学研究におけるねつ造の問題、自然科学の論文の典型である「IMRAD(①導入②資料と方法③結果④考察)」という型式、その型式の人文・社会科学への影響、学問分野による論文型式のちがい等々が述べられます。

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続く第3章は、論文の書き方の根底となる「主題と対象」という概念について。

著者によれば「主題は抽象的な問い、対象は具体的に調査できるもの」である。

そして、実証性のある論文は「見たり聞いたりできる対象」を通して、「見たり聞いたりできない主題(法則性など)」を探究していくものだと。

しかし、この「主題と対象」ということがわかっていない人が多いと、著者は言います。それは「学問研究とは何かがわかっていない」ということなのでしょう。

そして、この第3章ではさまざまな「主題と対象の設定事例」をあげて、具体的に説明しています。

さらに、「答えの出る問いを立てる」「手に負える問いを立てる」「データアクセスのある(具体的に調べることのできる)対象を選ぶ」ということを、アドバイスとして強調しています。

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ここまで(第3章のおわりまで)で、およそ140ページ。

そして次の第4章からようやく、論文を書く具体的な準備作業に入ります。先行研究や資料の探し方、インターネットの使い方、いろんな方法を組み合わせる「調査設計(リサーチ・デザイン)」について……

しかし、そうした準備作業でも重要なのは、結局は学問における基礎的な概念だと、著者は考えているようです。

第5章以下でもこんな感じです――「因果推論」「変数の制御」の概念、「仮説検証型」と「仮説生成型」という研究の2つのあり方、「学問体系のちがいは前提のちがいである」といった「学とは何か」、量的調査と質的調査、「数値化」にも主観が入る、「量的」と「質的」の境界は厳密ではない、など。

こうした基礎が、具体的な事例やさまざまな分野の著作を典拠として説明されます。

そして、やっと329ページで「第8章 研究計画書とプレゼンテーション」という、いかにも「論文入門」という感じの章にたどりつき、その後「第9章 構成と文章」以下の「書き方」の本論の話に入っていく。

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どうでしょうか。ふつうに思い描くハウ・ツー的な「論文入門」とはかなりちがうのではないでしょうか。

この本は「論文入門」というよりも「学問全般への入門」です。著者の本職である人文・社会系の学問だけでなく、自然科学も含む学問全般の基礎を語っているのです。

そして、「だからダメ・もの足りない」ということではない。それこそが、類書にはない本書の魅力です。

私の要約だと無味乾燥になってしまいますが、本書での小熊さんの語り口はもっと生き生きとしてわかりやすいです。すぐれた講義のような感じです。

この本を読むと、その論旨や事例、引用されている内容などから、幅広い学問全般の基礎を垣間見ることができるでしょう。

とくに、この本には典拠などを示した数多くの注があるのですが、これは読書案内として使えます。「学問研究の世界に入門するための読書案内」です。

本書で小熊さんは「論文などの注をよく読むことは大事」と言っていますが、それはまさにこの本にもあてはまります。

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それにしても、「自然科学と人文・社会科学の両者を含む、学問全般の入門的な本」なんて、専門分化のすすんだ現代では、無謀な試みだといえるはず。

でも小熊さんという人はそれを書いた。若い頃からぼう大な読書を重ね、ふつうの研究者では手を出さないような幅広い領域を扱う研究を行い、成果をあげてきた人ならではのことだと思います。

またご自身も述べているように、小熊さんが大学は理系の専攻だったことも、このような本を書く基礎となっている。

現代の学者で、本書のカバーする範囲を、本書のようなレベルで系統的に書ける人はなかなかいないでしょう。

小熊さんの考えに賛同できないという人でも(私だって本書のすべてに賛同するわけではない)、少なくとも学問を考える参考資料として、読む価値はおおいにあると思います。

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