そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

この30年余りの「失敗」「まちがい」を再点検しよう・日経平均の最高値更新

先週2月22日、日経平均株価は3万9098円の終値で、1989年末のバブル経済時代の最高値を更新しました。一応これは画期的なことといえると思います。

でも、1990年頃と比較してアメリカの株価(ダウ平均)は13~14倍になっているのに、日本は1990年頃の株価を30年余りかけてようやく回復したということです。

また、1989年末時点で、日本の株式の時価総額は、世界の37%を占めていましたが、今は6%に過ぎません。これは、1990年代には日本のGDPは世界のGDPの15%前後を占めていたのに、2022年現在では(ドル建てで)4%台にまで落ち込んだのと重なります。ただし、株式時価総額のシェアの低下(30数%→6%)は、GDPのシェア低下以上に激しかったといえるでしょう。

「最高値更新」の翌朝の2月23日の日経新聞の朝刊1面は、高揚感にあふれていました。

「日経平均 最高値」「34年ぶり」「海外勢、企業を再評価」といった見出しからは、日経新聞の「株式市場を、日本経済を盛り上げたい」という想いや「使命感」が伝わってきます。

1面の論説(日経の株式市場担当のグループ長による)は、「最高値更新は…日本株を買わない日本人の行動が変わる契機になる」「もはや『バブル後』ではない。国民が株価の恩恵を享受する、国民が主役の株式市場をつくるときだ」と宣言していました。

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「国民が主役の株式市場」という理念そのものについては、私には違和感はありません。

私そういちは20数年前から自分なりに株式(日本株を中心とするファンドなど)を買ってきて、紆余曲折はありましたが、そこで得た利益が自分の生活や人生をより充実したものにしてきたと感じているからです。

しかし、この日(2月23日)の日経新聞には、「この30年余りの日本経済、日本の株式市場の失敗をふり返り、反省する」という視点があまりに弱いです。そこには強く違和感をおぼえます。

回復してきたといっても、株価は34年前の水準なのです。これは「その間の日本経済は、大失敗を続けてきた」ということです。

ただし、この日の日経新聞の1面には「改革持続 焦点に」という「これまでのあり方ではいけない」という認識を示す見出しもありました。また、1面の記事本文や論説のなかには、この30年の日本企業のあり方に対する「反省」が前提となっている文言もみられます。

「株高の底流には日本企業が守りから攻めの経営に転じ…」〔そういち注:長い間「守りの経営」だったということ〕
「人材投資を抑えてきた日本企業」〔とくに賃金を上げてこなかった、賃上げが必要〕など……

また、「日本株をこの水準にまで押し上げてきたのは日本人ではない、外国人だ」と明確に述べ、今回の株価上昇の一定の限界も指摘しています(外国、とくに近年の中国からの投資の影響については日経新聞でもくり返し論じている)。

しかし、本来は2面か3面あたりに「失われた30年の反省」についての、まとまった論説が必要だと思いますが、それはありませんでした。

日経は「ニッポン株式会社の社内報」などともいわれた新聞です。「ニッポン株式会社」としてこの機会にきちんと反省・総括しないと、「改革持続」などできないのではないと心配になります。

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「私なりに、この30年余りの日本経済について総括をしよう」という想いから、最近手にした本があります。

経済学者・小林慶一郎さんの『日本の経済政策「失われた30年」をいかに克服するか』(中公新書)という、先月に出たばかりの本。

この本は、1990年のバブル崩壊以降の、最近までの日本の経済政策について時系列で論じています。

当初、教科書的な概説をイメージして手にとったのですが、小林さんもあとがきで述べているように、本書は、学者らしく議論の正確性には気を配りながらも、かなり踏み込んだ、自分の立場や主張を明確にした内容になっています。

そのことによって(小林説の立場で事実を捉えかえすことによって)この30年余りの日本経済で「何が起こったか」が、より明確になっていくように感じます。

そして、小林さんの見方に賛成できない読者でも、「この立場からはこうみえる」「こういう見方もある」ということを、明確に知ることができます。

ただし、私は本書の見解にかなり納得できました。この本は「バブル崩壊以降のいくつかの局面で、日本の経済政策は大きな失敗を重ねてきた」という視点が明確だからです。その点に共感できました。そして、それがどういう「失敗」であったのかを、2010年代以降の世界の(≒欧米の)経済学の新しい研究をふまえながら論じています。

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まず、小林さんは1990年代を通じてバブル崩壊後の、結局100兆円にものぼった不良債権(銀行などが企業に貸したお金のうち、回収の見通しが立たなくなったもの)の処理が遅れたことをつよく非難します。2000年代前半の公的資金注入まで、不良債権の本格的な処理は先送りにされたのです。「不良債権処理の遅れ(先送り)」ということです。

つまり、リーダーたち(政治家・官僚・財界)が不良債権の実態把握を怠り(そこから目を背けて)、どの企業にどれだけの不良債権があるのかわからない状況が10年以上放置された。それによって、不良債権を抱えた企業だけでなく、そうではない企業も「疑心暗鬼」にとらわれて、企業間の取引が委縮してしまったというのです。

また、金融機関は90年代に不良債権を抱えた企業に、その問題を隠ぺいする追加の融資(「追い貸し」)を続けています。また、90年代末(97~99年の金融危機)にはその逆に、不良債権を抱えていない企業であっても、融資を引きあげる、「貸し剥がし」を行いました。

本書では、これらの金融機関の行為が、日本の企業活動を大きく歪め、活力を低下させたと指摘しています。

「追い貸し」は、本来なら退場すべき企業や事業を延命させ、「貸し剥がし」は、企業が「銀行から借りて積極的に投資をするのではなく、利益を貯めこむ」傾向を助長したのでした。

「追い貸し」は、「不良債権の処理(損失の確定)という“あってはならない事態”を先延ばしにしたい」という意図で行われました。「貸し剥がし」は、「金融機関(銀行)の経営は危機的」という当時の状況・認識によるものです。要するに、どちらもリーダーたちの「保身」のためのものでした。

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ご存じのとおり、2000年代以降も、日本経済は低成長が続きます。そして欧米の先進国と所得で差をつけられ、新興国に追い上げられていったのでした。

また、その間に、政府の財政赤字はますます悪化していきました。その背景には高齢化による社会保障費の増大ということもあるわけですが、経済政策における「成長なくして財政再建なし」という基本的な考え方も影響しているようです。

つまり「まずは経済成長が大事だ。経済が成長すれば税収が増えて財政の問題は解決する。だから、政府が予算を使って経済を活性化させることが先決」という考え方です。

これは、積極財政を正当化する論理です。そして、積極財政は「放漫財政」へと堕落する危険をつねにはらんでいます。

さらに、本書が紹介する近年の学説によれば、財政悪化が長期化し、一定のラインを超えると、「財政に対する将来不安が経済成長率を引き下げる」という傾向があるそうです(本書203~208ページ)。

財政に対する将来不安とは、「将来に増税がある」あるいは「何らかの破局があるのでは」という不安です。それが強くなると、人は消費をおさえたり、生産のための積極的な投資をためらったりする、ということです。

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また、アベノミクスでとくに強力なかたちで継続的に行われた「低金利(ゼロ金利)」「異次元の金融緩和」という政策も、2010年代以降の経済学の世界では、厳しい批判にさらされているようです。

これらの政策は、企業による投資、物価(企業の売上)や賃金の上昇を促して経済を活性化させることをめざしたものでした。

しかし、そのような政策の効果が疑問視されるだけでなく、さらに「長期の低金利は、経済をかえって停滞させる」という見解も有力になってきているとのことです(211~216ページ)。

低金利は、短期の一時的なものなら、企業による投資を活発にする効果があるというのは定説です。しかし、それが長期になると、優位な立場にある、業界をリードする大企業には有利に働く一方、新興の企業には不利に働くというのです。

なぜなら、銀行から融資を受けるには担保が必要なことが多く(とくに日本ではそう)、担保にできる資産をもたない(あるいは資産が限られる)新興企業にとって、金利が下がったところで融資を受けるハードルの高さは変わらないからです。これに対し、信用のある有力な大企業は、低金利の恩恵を受けることができて、ますます有利になります。

つまり、低金利が長く続くと、大企業は新興の企業の追い上げを受けにくくなる。これは経済における「競争圧力」の減退であり、それが経済の活力低下につながるということです。

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以上は、説明を読むと、「あたり前」のようにも思えるのですが、経済学のアカデミズムにおいては、比較的近年になって真正面から議論され、注目されるようになったとのこと。

日本の経済政策を司るリーダーやエリートたち(政治家、官僚や学識者などの専門家)は、この30年、いろいろとまちがえ続けていたのかもしれない――そういう視点が、本書を読むとより明確になってくると思います。

それにしても、「積極財政による財政悪化」「長期の低金利」の経済への悪影響の話は、「病気に効くと言われて処方され、長いあいだ飲んでいたクスリには、じつは病気を悪化させる作用があることが、最新の研究でわかった」などと、説明されるようなものです。

なお、「失敗」「まちがい」は、ここで述べた以外にも、まだいろいろあるでしょうが、ここでは立ち入りません。

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この30年余りの各局面において、私たちは、経済の専門家(そのなかの権力の中枢に近い人たち)やそのような専門家のアドバイスを受けた政治家を、かなり信用していたように思います。経済政策という専門的な問題は「そうするしかない」という面があるからです。

しかし、それらの専門家による政策が、後の時代から客観的にみると「まちがっていた」ということが、本書では述べられています。

「だから専門家なんて信用できない」と言いたいのではありません。専門家のなかには、この30年余りの「誤った政策」に批判的だった人たちもいたのです。

たとえば「不良債権の処理の先延ばしはやってはいけない」というのは、金融の教科書的な原則のひとつであり、専門家にとって周知のことでした。そして、バブル崩壊後の日本に「早期に処理をすべき」という考えを持つ専門家もいないわけではなかったのです(欧米の専門家の多数派は、不良債権の処理の先延ばしを「おかしい」「理解しがたい」と批判していた)。

しかし、政策決定の権限を持つ人たち(政治家・官僚)が採用したのは、「不良債権の処理の先送り」という選択肢であり、それを金融界のリーダーも望んだのです。

これと同じことが、「積極(放漫)財政による財政悪化」「(金融緩和などの)アベノミクス」についても言えます。つまり、採用された政策への反対者はいたわけですが、それらの専門家の意見はリーダーたちに選択されず、影響力を持たなかったのです。

そして、何よりも大事なことは、そういう選択をしたリーダーのうち、最も重大な決定権を持つ「政治のリーダー」については、私たちが選んできたということです。そういう人たちを30年以上選び続けてきたのです……

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だとすれば、私たちはこれから先も、後の時代の学者に「あのときの令和時代の選択はまちがいだった」と総括されるような、そんなまちがいを犯す危険性が、かなりあると思います。

そのような「まちがい」を避けるには、月並みかもしれませんが、やはり「この30年には多くのまちがいあった」という視点で、過去を再点検することが必要だと思います。その効能には限界があるでしょうが、それしかないはずです。

だから、「日経平均の最高値」を報ずる日経新聞では、「この30年余りの過ち」についてのまとまった論説があって然るべきでした。しかし、それはなかったのです。

参考文献

ブログの著者そういちの最新刊。本書は、世界史5000年余りの大きな流れをコンパクトに述べた入門書。私そういちの主要テーマは世界史です。現代日本経済も「日本という20世紀における大国の、世界における興亡」という視点をもってみています。それは、現代日本をみるうえでの大事な視点(のひとつ)だと思っています。