そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

この30年余りの「失敗」「まちがい」を再点検しよう・日経平均の最高値更新

先週2月22日、日経平均株価は3万9098円の終値で、1989年末のバブル経済時代の最高値を更新しました。一応これは画期的なことといえると思います。

でも、1990年頃と比較してアメリカの株価(ダウ平均)は13~14倍になっているのに、日本は1990年頃の株価を30年余りかけてようやく回復したということです。

また、1989年末時点で、日本の株式の時価総額は、世界の37%を占めていましたが、今は6%に過ぎません。これは、1990年代には日本のGDPは世界のGDPの15%前後を占めていたのに、2022年現在では(ドル建てで)4%台にまで落ち込んだのと重なります。ただし、株式時価総額のシェアの低下(30数%→6%)は、GDPのシェア低下以上に激しかったといえるでしょう。

「最高値更新」の翌朝の2月23日の日経新聞の朝刊1面は、高揚感にあふれていました。

「日経平均 最高値」「34年ぶり」「海外勢、企業を再評価」といった見出しからは、日経新聞の「株式市場を、日本経済を盛り上げたい」という想いや「使命感」が伝わってきます。

1面の論説(日経の株式市場担当のグループ長による)は、「最高値更新は…日本株を買わない日本人の行動が変わる契機になる」「もはや『バブル後』ではない。国民が株価の恩恵を享受する、国民が主役の株式市場をつくるときだ」と宣言していました。

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「国民が主役の株式市場」という理念そのものについては、私には違和感はありません。

私そういちは20数年前から自分なりに株式(日本株を中心とするファンドなど)を買ってきて、紆余曲折はありましたが、そこで得た利益が自分の生活や人生をより充実したものにしてきたと感じているからです。

しかし、この日(2月23日)の日経新聞には、「この30年余りの日本経済、日本の株式市場の失敗をふり返り、反省する」という視点があまりに弱いです。そこには強く違和感をおぼえます。

回復してきたといっても、株価は34年前の水準なのです。これは「その間の日本経済は、大失敗を続けてきた」ということです。

ただし、この日の日経新聞の1面には「改革持続 焦点に」という「これまでのあり方ではいけない」という認識を示す見出しもありました。また、1面の記事本文や論説のなかには、この30年の日本企業のあり方に対する「反省」が前提となっている文言もみられます。

「株高の底流には日本企業が守りから攻めの経営に転じ…」〔そういち注:長い間「守りの経営」だったということ〕
「人材投資を抑えてきた日本企業」〔とくに賃金を上げてこなかった、賃上げが必要〕など……

また、「日本株をこの水準にまで押し上げてきたのは日本人ではない、外国人だ」と明確に述べ、今回の株価上昇の一定の限界も指摘しています(外国、とくに近年の中国からの投資の影響については日経新聞でもくり返し論じている)。

しかし、本来は2面か3面あたりに「失われた30年の反省」についての、まとまった論説が必要だと思いますが、それはありませんでした。

日経は「ニッポン株式会社の社内報」などともいわれた新聞です。「ニッポン株式会社」としてこの機会にきちんと反省・総括しないと、「改革持続」などできないのではないと心配になります。

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「私なりに、この30年余りの日本経済について総括をしよう」という想いから、最近手にした本があります。

経済学者・小林慶一郎さんの『日本の経済政策「失われた30年」をいかに克服するか』(中公新書)という、先月に出たばかりの本。

この本は、1990年のバブル崩壊以降の、最近までの日本の経済政策について時系列で論じています。

当初、教科書的な概説をイメージして手にとったのですが、小林さんもあとがきで述べているように、本書は、学者らしく議論の正確性には気を配りながらも、かなり踏み込んだ、自分の立場や主張を明確にした内容になっています。

そのことによって(小林説の立場で事実を捉えかえすことによって)この30年余りの日本経済で「何が起こったか」が、より明確になっていくように感じます。

そして、小林さんの見方に賛成できない読者でも、「この立場からはこうみえる」「こういう見方もある」ということを、明確に知ることができます。

ただし、私は本書の見解にかなり納得できました。この本は「バブル崩壊以降のいくつかの局面で、日本の経済政策は大きな失敗を重ねてきた」という視点が明確だからです。その点に共感できました。そして、それがどういう「失敗」であったのかを、2010年代以降の世界の(≒欧米の)経済学の新しい研究をふまえながら論じています。

***

まず、小林さんは1990年代を通じてバブル崩壊後の、結局100兆円にものぼった不良債権(銀行などが企業に貸したお金のうち、回収の見通しが立たなくなったもの)の処理が遅れたことをつよく非難します。2000年代前半の公的資金注入まで、不良債権の本格的な処理は先送りにされたのです。「不良債権処理の遅れ(先送り)」ということです。

つまり、リーダーたち(政治家・官僚・財界)が不良債権の実態把握を怠り(そこから目を背けて)、どの企業にどれだけの不良債権があるのかわからない状況が10年以上放置された。それによって、不良債権を抱えた企業だけでなく、そうではない企業も「疑心暗鬼」にとらわれて、積極的な企業間の取引が委縮してしまったというのです。

また、金融機関は90年代に不良債権を抱えた企業に、その問題を隠ぺいする追加の融資(「追い貸し」)を続けています。また、90年代末(97~99年の金融危機)にはその逆に、不良債権を抱えていない企業であっても、融資を引きあげる、「貸し剥がし」を行いました。

本書では、これらの金融機関の行為が、日本の企業活動を大きく歪め、活力を低下させたと指摘しています。

「追い貸し」は、本来なら退場すべき企業や事業を延命させ、「貸し剥がし」は、企業が「銀行から借りて積極的に投資をするのではなく、利益を貯めこむ」傾向を助長したのでした。

「追い貸し」は、「不良債権の処理(損失の確定)という“あってはならない事態”を先延ばしにしたい」という意図で行われました。「貸し剥がし」は、「金融機関(銀行)の経営は危機的」という当時の状況・認識によるものです。要するに、どちらもリーダーたちの「保身」のためのものでした。

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ご存じのとおり、2000年代以降も、日本経済は低成長が続きます。そして欧米の先進国と所得で差をつけられ、新興国に追い上げられていったのでした。

また、その間に、政府の財政赤字はますます悪化していきました。その背景には高齢化による社会保障費の増大ということもあるわけですが、経済政策における「成長なくして財政再建なし」という基本的な考え方も影響しているようです。

つまり「まずは経済成長が大事だ。経済が成長すれば税収が増えて財政の問題は解決する。だから、政府が予算を使って経済を活性化させることが先決」という考え方です。

これは、積極財政を正当化する論理です。そして、積極財政は「放漫財政」へと堕落する危険をつねにはらんでいます。

さらに、本書が紹介する近年の学説によれば、財政悪化が長期化し、一定のラインを超えると、「財政に対する将来不安が経済成長率を引き下げる」という傾向があるそうです(本書203~208ページ)。

財政に対する将来不安とは、「将来に増税がある」あるいは「何らかの破局があるのでは」という不安です。それが強くなると、人は消費をおさえたり、生産のための積極的な投資をためらったりする、ということです。

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また、アベノミクスでとくに強力なかたちで継続的に行われた「低金利(ゼロ金利)」「異次元の金融緩和」という政策も、2010年代以降の経済学の世界では、厳しい批判にさらされているようです。

これらの政策は、企業による投資、物価(企業の売上)や賃金の上昇を促して経済を活性化させることをめざしたものでした。

しかし、そのような政策の効果が疑問視されるだけでなく、さらに「長期の低金利は、経済をかえって停滞させる」という見解も有力になってきているとのことです(211~216ページ)。

低金利は、短期の一時的なものなら、企業による投資を活発にする効果があるというのは定説です。しかし、それが長期になると、優位な立場にある、業界をリードする大企業には有利に働く一方、新興の企業には不利に働くというのです。

なぜなら、銀行から融資を受けるには担保が必要なことが多く(とくに日本ではそう)、担保にできる資産をもたない(あるいは資産が限られる)新興企業にとって、金利が下がったところで融資を受けるハードルの高さは変わらないからです。これに対し、信用のある有力な大企業は、低金利の恩恵を受けることができて、ますます有利になります。

つまり、低金利が長く続くと、大企業は新興の企業の追い上げを受けにくくなる。これは経済における「競争圧力」の減退であり、それが経済の活力低下につながるということです。

***

以上は、説明を読むと、「あたり前」のようにも思えるのですが、経済学のアカデミズムにおいては、比較的近年になって真正面から議論され、注目されるようになったとのこと。

日本の経済政策を司るリーダーやエリートたち(政治家、官僚や学識者などの専門家)は、この30年、いろいろとまちがえ続けていたのかもしれない――そういう視点が、本書を読むとより明確になってくると思います。

それにしても、「積極財政による財政悪化」「長期の低金利」の経済への悪影響の話は、「病気に効くと言われて処方され、長いあいだ飲んでいたクスリには、じつは病気を悪化させる作用があることが、最新の研究でわかった」などと、説明されるようなものです。

なお、「失敗」「まちがい」は、ここで述べた以外にも、まだいろいろあるでしょうが、ここでは立ち入りません。

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この30年余りの各局面において、私たちは、経済の専門家(そのなかの権力の中枢に近い人たち)やそのような専門家のアドバイスを受けた政治家を、かなり信用していたように思います。経済政策という専門的な問題は「そうするしかない」という面があるからです。

しかし、それらの専門家による政策が、後の時代から客観的にみると「まちがっていた」ということが、本書では述べられています。

「だから専門家なんて信用できない」と言いたいのではありません。専門家のなかには、この30年余りの「誤った政策」に批判的だった人たちもいたのです。

たとえば「不良債権の処理の先延ばしはやってはいけない」というのは、金融の教科書的な原則のひとつであり、専門家にとって周知のことでした。そして、バブル崩壊後の日本に「早期に処理をすべき」という考えを持つ専門家もいないわけではなかったのです(欧米の専門家の多数派は、不良債権の処理の先延ばしを「おかしい」「理解しがたい」と批判していた)。

しかし、政策決定の権限を持つ人たち(政治家・官僚)が採用したのは、「不良債権の処理の先送り」という選択肢であり、それを金融界のリーダーも望んだのです。

これと同じことが、「積極(放漫)財政による財政悪化」「(金融緩和などの)アベノミクス」についても言えます。つまり、採用された政策への反対者はいたわけですが、それらの専門家の意見はリーダーたちに選択されず、影響力を持たなかったのです。

そして、何よりも大事なことは、そういう選択をしたリーダーのうち、最も重大な決定権を持つ「政治のリーダー」については、私たちが選んできたということです。そういう人たちを30年以上選び続けてきたのです……

***

だとすれば、私たちはこれから先も、後の時代の学者に「あのときの令和時代の選択はまちがいだった」と総括されるような、そんなまちがいを犯す危険性が、かなりあると思います。

そのような「まちがい」を避けるには、月並みかもしれませんが、やはり「この30年には多くのまちがいあった」という視点で、過去を再点検することが必要だと思います。その効能には限界があるでしょうが、それしかないはずです。

だから、「日経平均の最高値」を報ずる日経新聞では、「この30年余りの過ち」についてのまとまった論説があって然るべきでした。しかし、それはなかったのです。

参考文献

ブログの著者そういちの最新刊。本書は、世界史5000年余りの大きな流れをコンパクトに述べた入門書。私そういちの主要テーマは世界史です。現代日本経済も「日本という20世紀における大国の、世界における興亡」という視点をもってみています。それは、現代日本をみるうえでの大事な視点(のひとつ)だと思っています。

被害者意識による暴力の恐ろしさ・深刻さ

今現在のイスラエルによるガザ地区への攻撃をみていると、「被害者意識に基づく暴力の恐ろしさ・深刻さ」ということを強く感じます。

イスラエルは、直接的には2023年10月に行なわれたハマス(ガザ地区を実効支配するイスラム勢力)によるイスラエルへの越境攻撃への報復として、ガザ地区への攻撃を行っているといえます。

しかし、ガザへの攻撃の常軌を逸した激しさ――基本的にイスラエル寄りのアメリカ大統領でさえ嫌悪するほどの――の根底には、やはりユダヤ人の歴史的経験があります。

つまり、第二次世界大戦の時期において、ホロコーストといわれるナチス・ドイツを主体とする大虐殺の被害にあったという歴史的経験です。これが、「被害者意識」というかたちでユダヤ人の行動原理に大きな影響をあたえ続けている。

***

ナチス・ドイツがユダヤ人の迫害を始めた当初(1930年代後半)、それはおもにドイツからの追放を意図したものでした。直接に命をおびやかすものではなく、市民権や財産権などの剥奪というかたちの迫害だったのです。

これに対し、ユダヤ人のなかにはドイツに残る選択をした人もかなりいました。今の私たちは、その後の歴史の展開を知っているので、「それはダメだ、早く逃げろ!」と思います。

つまり、私たちは、第二次世界大戦の後半以降に、絶滅収容所のガス室送りなどによる組織的大量虐殺で数百万人のユダヤ人が殺されたことを知っている。

あるいは、ナチス・ドイツが空前の対外侵略を行なって、東西ヨーロッパの広い範囲を制圧していったことも知っている。ユダヤ人が多く殺された場所は、ポーランドをはじめとするナチスによる占領地域です。

しかし、ユダヤ人への迫害が始まった当初には、ユダヤ人のあいだでは「ナチスの政府やドイツ人は、この国で市民として根をおろした自分たちにそこまでひどいことはしないだろう」という見通しも、かなり有力だったのです。

その期待は、完全に裏切られることになりました。そして、のちにユダヤ人への迫害が、彼らの命を明確におびやかす段階になっても、組織的な武力による抵抗は、(迫害・虐殺の現場となって地域では)限定的にしか行われませんでした。「戦わなくては」と気づいたときには、すでに手遅れで、ほぼ何もできない状態に追い込まれていました。

また、ユダヤ人を救済しようという(ユダヤ人コミュニティ以外での)国際的な動きもほとんどありませんでした。ユダヤ人虐殺は第二次世界大戦の戦乱のなかで行われ、ナチス・ドイツも自分たちの虐殺行為を隠そうとしたからです。

つまり、世界の国ぐにからみて「何が起こっているかよくわからない」「戦争で、それどころではない」という状況だったのです。ユダヤ人に何が起こったのかを世界の人びとが明確に知ったのは、大戦が終わってからのことでした。

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こういう歴史的経験をしたコミュニティは、「自分たちが殺されそうになっても、世界は助けてくれない」という世界観を持つようになるはずです。

また、「敵の非道さに対する楽観的見通しは裏切られる」「無抵抗で殺されるのは最悪。とことん敵と戦うべきだ」「世界が自分たちを支持しなくてもいい(世界が何をしてくれるというのだ)」といった考えを根強く持つようになるのでは?

これは、「強烈な被害者意識に基づく世界観」とでもいったらいいでしょうか。

もちろん、ユダヤ人のなかには、この世界観に否定的な人や、否定しないまでも相対化してとらえている人はいるでしょう。

しかし、昨年10月のハマスによる攻撃をきっかけに、この「被害者意識」が暴走を始めてしまったのだと、私は思います。

ネタニヤフという指導者の個人的利害に基づく選択(「自分のメンツの回復や保身のために、ガザ地区を徹底的に攻撃することが得策」という選択)も、この暴走を後押ししているようです。

***

くりかえしますが、「被害者意識に基づく暴力」というのは、ほんとうに恐ろしいのだと思います。被害者意識は、暴力や残虐行為を正当化するからです。

当ブログの別の記事で、私は「国の指導者やそれを支持する国民が被害者意識を持つことの危険性」について述べています。プーチン政権によるウクライナ侵攻の根底にも、被害者意識がある、ということです。「ロシアは西側の不当な圧迫を受け続けてきた」という被害者意識です。

たしかに、歴史において、ロシアに対しナポレオンやヒトラーが大軍で攻めてきたということがありました。だから、その被害者意識にはそれなりの根拠があるといえます。

その意識をもとに、「現在のウクライナは西側に侵食されており、ウクライナを取り戻さないと我々はますます追い詰められる」と考え、「正当防衛」としてプーチンは侵攻を行った――そんな説明ができると、記事では述べています。

そして、ヒトラーやスターリンのような、歴史上最も有名な大量虐殺者にも被害者意識が強く作用しているのではないか、とも述べました。

ユダヤ人の被害者意識は、もちろんヒトラーの「妄想」といえる被害者意識とはちがいます(ヒトラーは「ロシアの社会主義やユダヤ人にドイツや世界が乗っ取られ破壊される」「ユダヤ人は世界に害悪をもたらす劣等人種」という、とんでもない観念・世界観を抱いていた)。

これに対し、ユダヤ人(とくにイスラエルのユダヤ人)のあいだで共有されている、と私が考える世界観には、悲惨きわまりない強烈な歴史的経験という、重たい「根拠」があるのです。深刻さやリアリティ、本気度がきわめて深いということ。そして、今回もたしかにハマスからの攻撃・被害を受けたのです。

それだけに現在のガザで起こっていることは、解決の糸口を見出しがたい、どうしようもなく困難な事態だといえるでしょう。いろいろな意味で「筆舌に尽くしがたい」ともいえる状況です。

私などがこのことを軽々しく書いてはいけないのではないか、とも思うのですが、こういう書く場所もある以上、やはり書いておきたいという気持ちで書きました。

(追記)
それにしても、このような被害者意識に基づく暴力を重ねることで、イスラエルという国の未来が、長期的には危うくならないだろうか、とも私は考えます。今後長いあいだ、イスラエルはアラブの多数派からこれまで以上に憎まれ続けるはずです。数十年単位の将来において、アラブ人やイスラム諸国が経済力や軍事力を発展させたとき、中東・アラブで絶対的な少数派であるイスラエルは、きわめて危険な状況に置かれるのではないか? 
もしも、これまでよりも強力になったアラブのイスラム勢力の同盟と戦争になったとしたら、イスラエルはこれまでの(4次にわたる)中東戦争のように勝利することができるのか? そして、核保有が確実だとされるイスラエルが、そのような戦争で国家存亡の危機に陥るとしたら、それは世界全体にとってもきわめて恐ろしいことだとも思います。


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参考文献

いずれもホロコーストについての読みやすく、しっかりとした入門・概説書。

やはり私たちは、世界史について基本的なことを知る必要があると思います。その思いで書いた拙著。本記事が前提としている世界史の知識が自分には十分ではないと感じられる方には、とくに手にとっていただきたいです。本書は、以前に出版したものの文庫化で、多くの方から「初心者にも非常に読みやすい」という評価を頂いています(2024年2月刊)。

『一気に流れがわかる世界史』発売

しばらく更新を休んでおりました。はてなブログのお仲間への訪問もできていないなか、告知の記事で再開というのは恐縮ですが、私そういちの新しい本が出るので、お知らせさせてください。

2月5日に、PHP文庫から『一気に流れがわかる世界史』(秋田総一郎名義)が全国の書店やオンラインの書店で発売になります。

本書は、2016年に出版した拙著『一気にわかる世界史』(日本実業出版社刊)を改題し文庫化したものです。

文庫化にあたり、元になった親本の出版から数年が経過しているので、さまざまな改訂・増補を行いました。とくに、現在の世界情勢にもとづく記述のアップデートは必要でした。

また、「世界史の時代区分(古代・中世・近代の三区分)」について論じた章を新たに加えたりもしています。親本のヨコ組みが、今回の文庫版では縦組みになるなど、編集・レイアウトも大きく変わりました。

私としては、単なる旧著の文庫化というよりも、以前の仕事にあらためて取り組み、新たに作り直したという気持ちです。親本の記述の骨格はそのままですが、細かい表記の変更も含めれば、ほとんどすべてのページに何らかの手を入れています。

拙著を見出して文庫化のオファーをくださった編集者の方、そして編集作業や校閲、デザインを担当してくださった皆様にお力をいただき、拙著は新たな命やチャンスを得た…そのように感じています。

すでに親本『一気にわかる世界史』を読んでくださった方も、手に取っていただければ幸いです。

***

本書は、世界史の5000年余りの大きな流れを、大人が学ぶための本です。まったくの初心者の方にも読みやすいように、とことん気を使って書いていますが、世界史についてすでに学んだ方が、知識を整理するうえでも役立つでしょう。

世界史の授業や教科書は「あれもこれも」と詰め込み過ぎていると、私は思います。世界史全体の大きな流れも、わかりにくいです。

これに対し、「大人の世界史」である本書は、

1.こまかい年号や名詞にとらわれない
2.各時代におおいに繁栄した「中心」といえるメジャーな国をおさえることに徹する(古代ギリシア、ローマ帝国、秦・漢などの中国のおもな王朝、イスラムの帝国、ルネサンス以降のヨーロッパ、アメリカなど)

という方針です。

そして、以上の「中心」の移り変わりを追いかけていくと、世界史の大きな流れがみえてきます。世界史が一つのつながった物語になるのです。

***

本書の親本は、さまざまな読者の方から「世界史の超入門書」として好意的な評価をいただきました。

たとえば、ネット上で「流れを理解させることに関し、こんなに親切な本はない」「ここまでコンパクトに全体像がわかる本はない」「本当に知識ゼロで読める」といった声があったのです。

また、当ブログで親本を知り、読んでくださった方がご自身のブログなどで取り上げ、評価してくださることが何度かあり、たいへんうれしく、ありがたく思いました。

*親本に対するアマゾンでのレビューはこちらで。2024年2月4日現在、23個の評価で平均4.4と高評価。

一気にわかる世界史

また、この親本は基本的には「大人向け」として書かれたものですが、「受験勉強をはじめる前の導入書」として評価してくださる学習塾関係の方もいました。この本だけで受験での点数アップは無理ですが、全体像を知り、世界史に興味を抱くための「導入」としては良い、ということでしょう。

都内のある大書店で、高校生の学習参考書コーナーに『一気にわかる世界史』が並んでいるのを、私自身がみかけたこともあります。

以上の親本の特長は、その改訂版である今回の文庫版でも変わっていないと確信しています。手にとっていただければ、うれしいかぎりです。

津田梅子・不自由な「母国」で道を切りひらいた女子留学生

明治4年、数名の少女が国費の留学生として米国に渡りました。その最年少が6歳の津田梅子(つだうめこ、1864~1929、元治元年~昭4)でした。彼女は通訳である藩士の娘で、父親は自分の娘に特別な教育(完全な英語力など)を与えたいと考えたのです。

津田梅子は(ご存じかと思いますが)後の津田塾大学を創設する人物です。2024年から発行される5000円札には彼女の肖像が用いられます(8月16日は、彼女が亡くなった日)。

渡米の11年後、17歳の梅子はともに留学した女子1名と帰国しました(あと1名は前年に帰国した)。

一緒に渡米した女子の留学生はほかにも何人かいたのですが、異国の環境に適応できず(梅子たちよりも数歳ほど年齢が高かったせいもある)、早いうちに留学を断念しています。梅子はステイ先のアメリカ人家庭になじみ、大切に育てられました。

最初の女子留学生である梅子たちでしたが、帰国後、政府は「日本語が不自由だし、女子には適当な仕事がない」という理由で彼女たちに職を与えませんでした。

幼い頃からアメリカで育った梅子たちは、帰国後は日本語や日本の生活習慣になじむためにおおいに努力をしなければならなかったのです。

それにしても、明治政府は相当な国家予算を費やして教育した女子の人材を、結局社会で活かそうとはしなかったということです。明治時代(とくに前期)に男子の留学生が帰国後はエリートとして引く手あまただったのとは、まったくちがいます。

***

梅子の留学仲間2人は、やがて有力者やエリートと結婚。「特別な教育を受けた女子を奥さんにしたい」という男性はいたわけです。梅子も結婚をすすめられました。

しかし梅子は「自分を国や社会のため生かしたい」と、食い下がって仕事を求め続けます。また、実家の経済力は限られていたので、結婚しないのであれば自分の力で生活していく必要もありました。

彼女の職歴はこうです。

1.アルバイトの英語講師

2.伊藤博文に認められ、伊藤家の子どもたちの家庭教師

3.華族の令嬢のための女学校(華族女学校)の教師。ここでやっと本格的に就職したといえる。ここまで帰国後3年かかっている。

4.その後24歳で休職し、アメリカの大学に2年半留学。すでに教師としてのキャリアを順調に歩んでいたが、指導的な教育者になるために「大学で学ぶことが必要」と考えた。大学では生物学を専攻し、留学先の大学の教授モーガンと論文を発表。モーガンはのちにノーベル賞を受賞した大科学者で、梅子を高く評価した。

5.留学を終え、華族女学校に復帰。その後8年勤務し退職。当時の梅子は女性としては最高レベルの待遇を学校で得ていたが、自分の学校をつくるために辞めた。

6.1900年(明治33)、女子の英語教育の小さな私塾(後の津田塾大)を、各方面から資金を集め創立。

英語教育の私塾を始めたとき、梅子は36歳。あとは生涯独身で塾内に暮らし、ひたすら学校や学生に尽くした生涯でした。

***

私は、津田梅子の伝記を読むまでは、ばくぜんと「最初の女子留学生→女子大創設」というのは「エリートとしての、自然な成り行き」のように思っていました(みなさんもそうだったのでは?)。しかし、そうではなかったのです。

たしかに彼女は、特別な教育を受けたという点では恵まれていました。しかし日本という、言葉や多くのことが不自由な「母国」で、懸命な努力で困難な道を切りひらいた人なのです。

そして、後に続く世代の女性たちが「道を切りひらく」ための学校をつくって発展させることに生涯をささげたのでした。

また、そんな彼女の真摯な生き方・努力に共感し、支援する人たちがいたわけです。

彼女の英語塾の創設・運営には(最初の)留学のときに出会ったアメリカ人の富豪の夫人など、アメリカの人たちが多額の寄付を行っています。留学仲間の女性たちも彼女を支援し、その周辺の有力者など、日本でも何人もの支援者があらわれました。また、彼女の事業のために懸命に働く、協力者や弟子もいたわけです。

彼女は多くの人たちに支えられながら、道を切りひらいたのです。それだけの支援を受けるのにふさわしい人だったともいえるでしょう。

 

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参考文献

「あの戦争」を何と呼ぶか・太平洋戦争の呼称

太平洋戦争(1941~45)などの昭和の戦争の名称に関しては、いくつかの立場があります。つまり、いくつかの呼び方がある。それは、政治的立場やそれと結びついた歴史観・世界観の相違を反映しています。

じつは昭和の戦争にかぎらず「歴史的事件を何と呼ぶか」という問題は、つねに歴史観や世界観と結びついているので、いろいろな議論があるものです。そのなかでも「昭和の戦争の呼称」は、とくに代表的な事例といえるでしょう。

太平洋戦争は、戦時中は政府による公式名称である「大東亜戦争」の名で呼ばれることが一般的でした。

しかし戦後には、アメリカ側による呼称をもとにした「太平洋戦争」が学校教育をはじめ広く用いられるようになり、定着したのでした。アメリカにとって、日本との戦争は、おもに太平洋地域で行われたものでした。

***

ただし保守・右派の人たち(「戦前」に対し郷愁や想いがある)を中心に、今も「大東亜戦争」と呼ぶ人たちはいます。その人たちは「太平洋戦争というのは、敗戦によってアメリカに押しつけられた名称だ」と考えているのです。

しかし「大東亜」というのは、日本が戦中に掲げた「大東亜共栄圏」(日本による東アジア・東南アジアの支配秩序)のコンセプトと結びついています。

つまり、あまりにも戦争中の国策やイデオロギーと結びついている(少なくともそう捉えられている)ので、右派や保守の人たちでも大東亜戦争という呼称は(仲間うち以外では)控える傾向があります。

そこで太平洋戦争と言う代わりに「日米(対米)戦争」とか「先の戦争」などと言うこともある。あるいは文脈によっては「第二次世界大戦」で済ますこともあります。

なお、太平洋戦争は「アジア・太平洋地域における第二次世界大戦」であり、第二次世界大戦(1939~45)の一部をなしています。

***

一方で近年は、太平洋戦争という名称について「この戦争がアジアの広い範囲で行われ、惨禍をもたらしたことが抜け落ちている」という問題意識から「アジア・太平洋戦争」という名称を用いる研究者・識者もある程度増えています(右派や保守とは対立するリベラル的な人たちに多い傾向)。

そして「アジア・太平洋戦争」という場合には、単に太平洋戦争に代わる名称としてではなく、「満州事変・日中戦争・太平洋戦争という昭和の一連の戦争を包括する概念・名称」として用いることもあります。

たしかに「(太平洋戦争では)アジアが抜けている」という見解にはもっともなところがあると、私そういちも思います。

しかし、私自身は「入門的な概説」の文章を書くことが多いので、より多くの人になじみがあり簡略でもある「太平洋戦争」も捨てがたいと思っています。

***

また「満州事変(1931)から太平洋戦争までの連続性」を重視し、一連の戦争をまとめて「十五年戦争」と呼ぶ研究者もいます(じつは満州事変から45年の終戦までは14年余りの期間ですが、「足掛け一五年」「ほぼ一五年」ということでそう呼んでいる)。

これは左派の人びと(マルクス主義・社会主義の影響を受けた人たち)が中心です。右派・保守の人たちは「十五年戦争」とは決して言わないはずです。

私そういちは、十五年戦争という名称は用いませんが、「“昭和の一連の戦争の連続性”という視点は、政治的信条に関わりなく、歴史を理解するうえで重要」だと考えています。

「昭和の戦争」というと、私たちの多くは、太平洋戦争をまず思い浮かべるはずです。たしかに太平洋戦争は決定的・破局的な大戦争であり、その開始によって日本が当時行っていた戦争はそれまでとは異なる次元に突入したといえます。

しかし、太平洋戦争に至った背景・原因には、(ここでは立ち入りませんが)「日中戦争の泥沼化・手詰まり」と「日中戦争をめぐって生じた日本とアメリカの対立」があったのです。

そして、一九三一年に日本が満州の広い範囲を制圧した「満洲事変」は、のちに日中戦争につながっていきました。

一九三七年に日本が中国の主要地域(華北以南)を攻撃することで日中戦争は始まりましたが、そのときの日本側には、満州事変以後に得た成果(満州の支配など)を基礎として「その成果をより確かなものにする」とともに「さらに成果を拡大したい」という意図がありました(この点も、これ以上の説明は省略)。

つまり、満州事変・日中戦争・太平洋戦争のあいだには、深い関連や連続性があるということです――少なくとも私は、そのように理解する立場です。

***

それにしても、「あの戦争」――最も一般的には太平洋戦争と呼ばれる戦争について、それを「何と呼ぶか」という基本的なことでも、一筋縄ではいかない意見対立があるのです。 

そもそも「戦争の名称」というところですら一致しないのであれば、「あの戦争をどう捉えるか」のより深い話がかみ合うはずもありません。

なんとややこしい、めんどうなこと。

でも、その「相違」「対立」を増幅させる方向に行ってはいけない。

少しでも対立する意見のあいだの「一致点」「共通の基盤」を探って、それを確かなものにする努力をしないといけないはずです。

知識人や、そのほかの社会の指導的な立場の人は、とくにそのような努力に対し責任があります。そして、多数派の一般人の立場からは、「共通の基盤」を見出そうとする知識人・リーダーをぜひ応援すべきでしょう。

しかし、「共通の基盤」を見出そうとするリーダーは、多くの場合「煮え切らない」「妥協的」な人にみえてしまう傾向あります。つまり「格好悪い」感じがするのです。

それよりも、強いトーンの意見で「対立」を煽るほうが(最近はとくに)人気が出るようです。ほんとうに困ったことだと思います。

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この記事で登場した「あの戦争」のさまざまな名称がタイトルとなっている本の例(いずれもこのテーマの著名な著者・研究者によるもので、私のそういちの本棚にある)

第二次世界大戦の犠牲者数・最も犠牲が多かった国は?

第ニ次世界大戦(1939~1945)による死者は、世界全体で軍人(戦闘員)2305万人、民間人3158万人、合計5400万人余りにのぼりました。これは、第一次世界大戦(軍人・民間合計で約1800万人)を大きく上回るものでした。

*ウッドラフ『概説現代世界の歴史』ミネルヴァ書房、2003年、原著1998年、213ページ(Robert Goralski編 World WarⅡ Almanac からの引用)

ただし、大戦争の被害・犠牲を正確にとらえるのは困難なことであり、死者数については諸説があります。

以上の「軍人・民間合計で5400万人(5000~6000万人)」は、重要で基本的な数字です。しかし「古典的な、手堅い推計による数字」といえます。

***

近年の研究では、第二次世界大戦による死亡者を従来よりも大きくカウントする傾向があります。

「古典的な数字」はカウントの対象を「戦闘と、虐殺などの戦争犯罪による直接的な死者」に限定する傾向が強いです。なお、この死者にはホロコースト(ナチス・ドイツが推進したユダヤ人大量虐殺)の犠牲者約600万人も含まれます。

これに対し近年の研究では、戦争の影響で生じた疫病や飢饉などによる「間接的」な犠牲者を、積極的に「戦争による死者」に含めるのです。

そのような「近年の新しい数字」に属する、ある推計よれば、第ニ次世界大戦による死者は、7500万人余り(7000~8000万人)です。そのうち軍人は2605万人、民間人は4940万人でした。

*ジャン・ロベズ監修、ヴァンサン・ベルナール+ニコラ・オーハン著『地図とグラフで見る第2次世界大戦』太田佐絵子訳、原書房、2020年、原著2018年、146~147ページによる

以下、各国の死者数や死亡率は、おもに上記の『地図とグラフで見る第2次世界大戦』に基づいて述べます。

なお、1940年の世界人口(推定)は23憶人でした。7500万人は23憶人の3.3%。「3.3%」というと、2022年の世界人口80憶人に対してだと、2.6億人です。

***

(ソ連・中国)

第ニ次世界大戦において、最も多くの死者が出た国は、ソ連でした。ソ連ではこの大戦で、軍人1230万人、民間人1560万人が亡くなりました。両者を合わせると2800万人弱で、第二次世界大戦の死者の4割近くを占めます。

ソ連では「独ソ戦」といわれる、第二次世界大戦のなかで最大規模の戦いが行われました。

独ソ戦は、1941年6月にドイツとその同盟国が300数十万人の大軍でソ連に侵攻して始まった戦いです。当時ソ連の一部だったベラルーシとウクライナ、そしてロシア東部をおもな戦場として、1945年5月のドイツの降伏まで続きました。

独ソ戦では、開戦時にはドイツとソ連合わせて800万、最大時には1500万人の兵力がぶつかり合っています。まさに想像を絶する規模の戦いでした。

そして、ソ連に次ぐぼう大な死者を出したのは中国で、軍人300万人、民間1200万人。

この数字の精度は、ほかの主要国とくらべて落ちると考えられます。しかし、中国は巨大な人口を抱えアジアの主戦場であった(1937~1945年に日中戦争が行われた)ので、多くの犠牲者が出たことはまちがいありません。

(ドイツ・ポーランド)

3番目に多くの死者を出したドイツ(オーストリア含む)は、軍人536万人、民間330万人。軍人の戦死者の7割ほど(400万人弱)は独ソ戦での死者です。

そして、ドイツに次ぐ(4番目に多い)死亡者が出たのがポーランドです。軍人24万人、民間630万人。

ポーランドでは、民間人の死亡の割合が高く、さらに民間の死亡者の約半数の320万人がユダヤ人でした。1939年の国の人口に対する戦没者の割合(以下「死亡率」)は19%。太平洋戦争の激戦地となった南洋諸島を除けば、最も高い率です。なお、ソ連の「死亡率」は15%で、ポーランドに次ぐ高さでした。

ポーランドは、ナチス・ドイツによる、明白で大規模な軍事侵攻の最初のターゲットでした。1939年9月のドイツによるポーランド侵攻を「第二次世界大戦の開始」とすることが一般的です。

そして、ポーランドはソ連と並んで、ナチス・ドイツがとくに残虐な殺りく行った地域でした。

ポーランドやソ連で主流の民族であるスラブ人(スラブ系諸族)を、ナチズム(ナチスの政治思想)では「劣等人種」と考え、その存在を世界から抹殺することを志向していました。

これは信じられないような話で、さらに説明が必要かもしれませんが、ここでは立ち入りません。なおユダヤ人は、ナチズムではスラブ人よりもさらに下層の「最下等の劣等人種」とされていました。

ドイツは第二次世界大戦においてデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギー・フランスなどの西欧諸国(北欧含む)にも侵攻し、それらの国ぐにを占領しています。しかし、ポーランドやソ連に対する攻撃は、西欧諸国に対してよりもさらに過酷・残虐なものでした。

そして、その侵略をしかけたドイツ側の死亡率も、ソ連に次ぐ11.0%に達したのです。

なお、日本における人口に対する戦没者の割合(死亡率)は4%余りです(日本の戦死者については後述)。

また、ポーランドは第二次大戦前の時期において、とくにユダヤ人が多く住む地域でした(1940年頃のユダヤ人人口は330万人)。さらにナチス・ドイツは、ユダヤ人の大量虐殺を組織的に行う施設(アウシュビッツ収容所などの「絶滅収容所」)をポーランドに集中させています。

そのような事情・背景から、ポーランドではとくに大量のユダヤ人の死者が出ることになったのでした。

(ユーゴスラヴィア・ギリシャ)

また、ユーゴスラヴィアでは軍人・民間合わせて103万人という、ヨーロッパではポーランドに次ぐ4番目に多い死者が出ています。「死亡率」は6.6%で、ヨーロッパでは5番目の高さです(ヨーロッパで死亡率が高かった国・ポーランド→ソ連→ドイツ→ギリシャ→ユーゴ)。

そして、同じくバルカン半島のギリシャは比較的小規模な国でありながら、軍人・民間合わせて51万人の死者(そのうち9割が民間人)を出し、死亡率は7.0%に達しました。

ユーゴスラヴィアとギリシアも、第二次世界大戦においてナチス・ドイツ(およびその同盟国のイタリア)の侵略を受けています。

バルカン半島はソ連・ポーランドの周辺地域であり、ユーゴスラヴィアもまたスラブ人(南スラブ人という系統)が主流の国家です。ロシアとその周辺のスラブ人が多い地域は、第二次世界大戦においてとくに激しい戦いや殺りくがあったのです。

(フランス・イタリア・イギリスなど西欧)

一方、フランスの死亡者(軍人・民間計、以下同じ)は52万人、イタリアは51万人、イギリス(本国)は36万です。死亡率は、このなかで最も高いフランスでも1.3%となっています。

それらはもちろん甚大な犠牲なのですが、それでも「西欧での戦い・殺りくは、ロシアとその周辺ほど激烈ではなかった」ということです。

西欧(北欧含む)で死亡率が高かったのはフィンランドで、2.6%(死亡者36万人)。オランダもそれに匹敵する水準で、2.4%(死亡者21万人)でした。

これらの国は「西欧の激戦地」だったのです。ただし、フィンランドの死亡者の98%が軍人であるのに対し、オランダは97%が民間人です。

なおフィンランドは、第二次世界大戦の初期にソ連から侵攻を受けて領土を奪われ、その後独ソ戦の開始にあたってドイツ側に加わり、ソ連に侵攻しています。

そして、ソ連に奪われた旧フィンランド領などを占領したのですが、大戦末期にドイツの劣勢が明らかになると、ソ連と講和を結んでドイツの陣営から離脱。すると今度はドイツの攻撃を受けることになり、その戦いを大戦の終末まで続けたのでした。

(日本・アメリカ)

日本は、ポーランドに次ぐ(世界で第5位の)犠牲者数でした。厚労省の統計では、軍人・軍属230万人、民間80万人、合計310万人が亡くなっています(高橋昌紀『データで見る太平洋戦争』毎日新聞出版、2017年、24ページ)。

日本の1939年の人口(植民地を含まない本土のみ)は7100万人です。「310万人」は、上記人口の4%余りになります。

そして、アメリカはどうでしょうか。軍人の死者数は42万人で、民間人については本土が被害を受けていないので千数百人にとどまります。軍人・民間を合わせた死亡率は0.3%で、おもな参戦国のなかでは際立って低いです。

***

以上は、最近私たちが大災害やテロ、あるいは地域的な国際紛争・内戦などで目にする犠牲者の数を大きく超える、ケタはずれの数字です。

第ニ次世界大戦の被害や悲惨さは、とにかく想像を絶するものでした。しかし、これは1900年代半ばの世界で現実に起きたことなのです。

それでも最近は「日本とアメリカって、戦争したことがあるの?」という若い人もいると聞きます。戦争を体験した世代や、その世代の身近で話を聞いた人たちもいなくなろうとしています。教科書に戦争のことが書かれていても、読まない生徒は大勢います。最近はテレビをみない人も増えている。

いずれ、無視できない数の人たちが「第二次世界大戦があったこと自体を知らない」という世の中になるのではないでしょうか。

その先には、おぞましいことが起きるかもしれません。「世界大戦などなかった」と主張する者たちが、影響力を持つようになるのです。

彼らは言うでしょう――「何千万人もの死者が出るような大戦争なんてあり得ない。あれは〇〇(←差別・攻撃の対象)がでっちあげたフェイクだ!」。

私はふざけているのではなく、本当に心配しています。世界大戦についての人びとの記憶や知識が劣化するほど、この世界における大戦争のリスクは高まるのです。

第二次世界大戦関連の記事

ビッグモーターと前社長にこれから起きることは?「許認可」に注目

昨日、ビッグモーターの不祥事(自動車保険の不正請求など)について、テレビのワイドショーで「創業者の前社長に対し、どのような責任追及が可能か」を解説していました。

私は会社員時代に、法務・コンプライアンス関係の部署にいたことがあったせいか、こういう企業の不祥事には関心があります。

ワイドショーで述べていたのは、要するに「“前社長への”責任追及には、いろいろむずかしい面がある」ということ。

たとえば「詐欺罪については、“詐欺による利益が前社長にどれだけ帰属するのか”などが不明確なので、立件がむずかしい」といったことを弁護士が述べていました。

民事上の請求も考えられますが、今回の不祥事で、支払いの責任をまず負うのは不正な行為をした社員もしくはビッグモーター(以下同社)という企業です。

ただし、同社が前社長に対し、会社が責任を負って支払った分について支払いを求めることも考えられます。しかし、同社の経営陣(前社長の忠実な部下)が前社長にそのような請求をすること自体、少なくとも当面は考えにくい。また、保険会社など社外からの前社長への請求もあり得ます。

しかしいずれにせよ、裁判で争った場合にそのような請求が認められるには、今回の不正・不祥事について前社長の責任が明らかになる必要がある。そこには相当なハードルがあるでしょう。

***

では株主訴訟はどうか。今回のような不祥事があると、とくに上場企業のように多くの株主がいる企業の場合、前社長のような立場の経営者は、株主からの訴訟で巨額の損害賠償を求められる恐れがあります。「自らの責任で不祥事をひき起こし、会社の価値を大きく棄損して株主に損害を与えた」というわけです。

しかし、同社の場合、株主からの訴訟はあり得ません。同社の株式のすべては、前社長と息子(前副社長)が全ての株式を保有する資産管理会社が所有しているのです。

つまり「同社の株式はすべて前社長のもの」といっていい。これは「現経営陣の人事権を、前社長が法的に掌握している」ということでもある。

***

しかし、この不祥事の行方の「本丸」は、こういう民事・刑事上の責任や株主訴訟のことではなく、行政法上の許認可の問題でしょう。

昨日、国交省が全国の同社の店舗(整備工場も併設)に対し、一斉に立ち入り検査を行っています。

自動車整備業は国交省の所管で、事業者に対する監督や許認可の権限が国交省にあるわけです(道路運送車両法などによる)。今後、同社の自動車整備業に関する許認可が取り消される可能性はかなりあるでしょう。

今回の同社の不祥事に対し、政府(行政)として「しっかり対処している」という姿勢を国民にみせようと、国交省はできるかぎりのことをするはずです。つまり「生ぬるい対応はしない」ということ。昨日の全国一斉立ち入り検査は、その姿勢のあらわれといえる。

自動車整備業に関する許認可が取り消されたら、自動車整備や車検の業務はできなくなるわけですが、それは同社にとって「本体である中古車販売の事業も、大きな困難に直面する」ということです。

中古車販売業は、仕入れた車をただ売っているのではなく、さまざまな整備をしたうえで売ることを前提としています。さらに整備業者として、中古車を買った顧客と車検などで継続的な関係を持つことも、大事な収益源です。

国交省が同社にどういう処分を下すか――それこそがこの不祥事の最大の焦点だと思います。

***

また、同社は保険代理店の事業も行っているわけですが、こちらは金融庁の所管です(保険業法などによる)。そして、同社は金融庁からの追及も受けており、同社が代理店としての許認可を失う可能性は高いでしょう。

しかし、保険代理店の営業には、許認可以前に保険会社との代理店契約が必要です。同社と契約・取引する保険会社はもうないでしょうから、許認可を失う以前にすでに同社の保険代理店業は「終わった」といえる。

つまり、おもに行政による事業の許認可の取り消しによって、ビッグモーターは事業を継続できなくなる可能性がかなりあるわけです。

もちろん「顧客が離れることによる深刻な経営悪化」はあるわけですが、それだけではない。

***

行政の許認可権というのは、企業にとっては恐ろしいものです。深刻な不祥事、とくに「組織ぐるみ」の不祥事が発覚したとき、その「恐ろしさ」があらわになる。

このあたりの理解や想像力が、前社長たち経営陣には欠けていたようです。

発展途上国なら、不祥事を起こした企業は役人や政治家を買収などで懐柔して対処できるかもしれません。しかし、日本では一般的な民間企業がその手を使うことは不可能です。それが「法治国家」ということです(でも、宗教法人が与党の政治家を懐柔して悪行を重ねたケースはあったわけですが)。

会社が必要な許認可を失って存続不能になれば、前社長は自分の最も重要な財産である「会社」を失うわけです。

それでも前社長の手元には相当な個人資産は残るのでしょう。しかし、人生のすべてを注いで築いてきた「自分の王国」はなくなってしまう。

さらに同社が負債(未払い賃金、取引先への支払い、金融機関からの借り入れなど)で「火だるま」状態になった場合には、追い詰められた同社から前社長らに何らかの「求償」の請求がなされるかもしれません(これには会社の所有者としての“人事権”を使って対抗する余地がある)……

***

以上のように「行政上の許認可のことが、ビッグモーターの件では軸になる」と私は思います。

それは初歩的な話なのですが、まだマスコミなどの報道ではあまり言われていないようです。法的な問題というと、ふつうは民事(会社法含む)や刑事のことを連想するものだからでしょう。

しかしじつは許認可、つまり行政法上の問題というのは社会において非常に重要なのです。

じつは私は会社員時代に典型的な「許認可事業」といえる運輸関係の会社で、国交省(おもに地方運輸局)への許認可手続きや行政による監査への対応などを担当していたことがあります。最初に述べた法務・コンプライアンスの業務(こちらは民事・会社法が中心)を担当する以前の、ごく若い頃のことです。

私は法学部出身で、法というものについてある程度の素養やイメージはありました。しかし、国交省関係の仕事にはじめて触れたとき「行政法とその許認可の世界」についての認識はきわめて浅かったことを痛感しました。

そしてその後、行政法的な世界の意味について、まさに社会の現場から知ることになったのでした。

この経験は私にとって、今でも社会をみるうえで重要な一定の視点のもとになっています。

 

関連記事(最近の時事問題を扱ったもの、いくつか)

映画『君たちはどう生きるか』は監督の自叙伝で、漫画版『ナウシカ』最終巻の映像化

*以下、映画についてのネタバレを含みます。まだこの映画をご覧になっていない方は、できるだけ予備知識なしでみることをおすすめします。

そもそも巨匠監督の作品を「どんな映画か」まったく知らずにみるなんて、今の時代ではなかなかできない、贅沢なことです(これはある映画評論家の方が述べていました)。私も予備知識なく本作をみて、それを実感しました。この記事は「この映画をすでにみた人と、映画について一緒に考える」ためのものです。

***

昨日、宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』をみてきました。土曜の夜の映画館は老若男女でほぼ満員でした。

この映画には「難解だ」という感想もあるようです。しかし私は「シンプルともいえる、典型的なファンタジー」という印象を受けました。

この映画は要するに「少年が、ふとしたきっかけで日常の世界のなかに隠されていた不思議な異世界へとつながる道に迷いこみ、入りこんだ異世界で冒険をくり広げる」という話です。

これは、ファンタジーのひとつの典型です。たとえば『ナルニア国物語』や『不思議の国のアリス』は、そういう話です。

そして、この映画が「難解」といわれる理由には、主人公の少年が異世界で遭遇する出来事の「不条理」「支離滅裂さ」ということがあるでしょう。

これもファンタジーでは「常道」といえること。

ファンタジーにおける異世界は、「日常の世界(現世)」とは異なる法則性や原理が支配しているものです。これは「支離滅裂」にも感じられることがある。『不思議の国のアリス』は、そのような「異世界の法則性」をわかりやすく描いている古典中の古典です。

***

しかし、すぐれたファンタジーが描く異世界は、じつは単なる「支離滅裂」ではありません。私たちの常識や固定観念とはちがうだけで、そこにはそれなりの法則性が存在するものです。

すぐれたファンタジーの多くは、このあたりの描写が巧みです。一見したところ「異常」な現象の奥に「何か」があるのではないかと(説明しなくても)感じさせてくれるのです。

そしてファンタジーにおいて、その「何か」は一定の合理性、あるいは現実の歴史などをふまえた世界観で説明可能なものなのです。

しかし、それを作品のなかで説明し過ぎると、浅薄なつまらない感じになる。だから、たいていは説明を控えます。そのような説明・解釈は、読者や観客に委ねられる。

つまり「あとは自分で考えてください」というわけです。

このように、ファンタジーというのは、合理主義をベースにした近代的な表現の一種だということです。

***

この映画『君たちはどう生きるか』も、一定の「合理主義」で説明はできると私は思います。あの映画の世界の全体的な構図は、こんな感じでしょう(以下、映画をみた人向けの説明です)……

この映画の時代の数十年前に、宇宙か異次元のどこかの超文明から何らかのシステムを組み込んだ物体が、映画の舞台である(日本の)田舎に隕石のようなかたちで飛来した。天才だった主人公の祖先(「大叔父さん」)はその飛来物が何であるかを理解し、超文明の力を用いて異世界を構築し、その世界で創造主・支配者として暮らすようになった。なお、超文明側の意図はわれわれには到底わからないが、彼らは何かを試しているのかもしれない……

「大叔父さん」は、汚れ切った現世とは異なる、清浄な理想の世界を築こうとした。また「大叔父さん」の異世界は、現世に対し一定のつながりを持ち、異世界から現世に影響を与えることも可能だった。たとえば、「わらわら」という「現世で生まれる子どもたちの種子」といえる存在を、異世界で育てて現世に送りこんだりもしていた。

映画では描かれていないが、この「わらわら」は、「特別に善良な人間の種子」としてつくられたものかもしれない。「大叔父さん」は、異世界から現世をより良くするための影響を及ぼそうとしていたのではないか。

しかしその異世界は、創造主あるいは管理者である「大叔父さん」の限界ゆえに、いびつで不完全なものにならざるを得なかった。生態系は歪んでいて、そこに生きるものたちは絶えず飢え、大切な「わらわら」がペリカンの群れに食われたりしている。

また異常に増えたインコたちは、人間のように暴力や軍事力をともなう国家を築いている。その「インコの帝国」を統治する大王(これもインコ)は、有能で勇ましいが、ものごとの本質や真理を理解していない。

「大叔父さん」は、自分の創造した異世界の不完全さを乗り越えるために、あるいは異世界を次の世代に引き継ぐために、すぐれた資質を持つ自分の子孫(子どもや若者)を異世界に引き寄せて、いろいろ試みたと思われる。

なお、「子孫にしか引き継ぐことができない」ということは、超文明側との「契約で決まっている」のだそうだ(それは、映画のなかで「大叔父さん」が述べている)。

しかし、いろいろな努力や試みも結局は効を奏さなかった。主人公の少年は現世で前向きに生きていくことを決意する……

***

この「大叔父さん」は今の宮崎駿監督の自画像である、というのが素直な解釈なのでしょう(一方、主人公の少年は子ども時代の宮崎監督の自画像でしょうが、そこにはここでは立ち入りません)。

宮崎監督は、若いときに「異世界」を構築する技術・表現としてのアニメーションに出会って以来、ひたすら「異世界」を描き出すことに携わってきた人です。アニメーションとの出会いは、宮崎青年にとって、隕石が落ちてきたような衝撃だったのかもしれません。

そして、自分が築いた「異世界」つまり作品を通じて、人びと(とくに子どもたち)に対し、世界をより良くする方向での影響を与えようともしてきた。

しかし、その取り組みを何十年も続けて、老人となった今、自分の成したことの「不完全さ」を感じざるを得ない――宮崎監督は今、そんな心境にあるのではないか。

それは作品自体の限界だけではない。この数十年で世界(現世)が良くなっているようには感じられない。また、アニメの世界・業界についても、「良き時代」が終わりつつあるのではないか……

こういう「自分が認識する自分の姿」を、宮崎監督は「大叔父さん」というかたちで表現しているように私には思えます。そして、私のように考える人は少なくないでしょう。

「大叔父さん」が宮崎監督の自画像であるからこそ、「大叔父さん」がつくった異世界やその周辺には、これまでの宮崎作品に登場したものを思わせるアイテムや情景がいろいろと存在するわけです。

あるいは、若い頃に宮崎監督や高畑勲監督が大きな影響を受けた、フランスのアニメーション映画『王と鳥』には大型の鳥が出てきますが、この映画『君たちはどう生きるか』でも、大きな鳥は重要なキャラクターとして登場しています。

***

そして、この映画の「異世界」そのものと類似する構築物が、宮崎作品のなかには存在します。

それは漫画版『風の谷のナウシカ』の最終巻(7巻)に登場する「土鬼帝国の聖都シュワの墓所」です。

これはナウシカの時代から1000年前に最終戦争で滅亡した文明の遺物で、超高度の文明の粋を集めてつくられた「殿堂」といえるもの。そしてそこには、世界を改良・浄化するための企てがセットされているのです。

「大叔父さんの異世界」は、シュワの墓所のような「超文明の殿堂」あるいはその産物です。

私には、この映画は宮崎駿監督の「自叙伝」であると同時に、ついに成し得なかった『ナウシカ』の「完全版」(漫画版の全体の映画化)の「代わり」としての側面もあるように思えます。

この映画には「もしも宮崎監督が漫画版『ナウシカ』第7巻を映像化していたら、こんな感じだったのでは?」と思えるシーンがいくつかありました。

静かな宮殿や庭園(じつは超文明の「殿堂」)で主人公がその管理者と対峙して「真理」に迫っていく様子は、この映画と『ナウシカ』第7巻に共通しています。

また、そこに第三者として「現世的な権力者」が立ち会っていることも、この映画と漫画版『ナウシカ』では同様です(この映画ではインコの大王、『ナウシカ』ではトルメキア王がその「権力者」にあたる)。

***

以上が、昨日この映画『君たちはどう生きるか』をみて私が「自分で考えた」ことです。作り手に委ねられた「解釈」を、観客として行ってみたということ。

自分の解釈こそが「正解」だなんてもちろん思いませんが、この映画は、こんなふうにいろいろ解釈したくなる作品です。

それは何よりも、宮崎監督とアニメーターたちがつくりあげたひとつひとつのシーンに強い「力」があるからでしょう。

この映画は、たしかに私のような平凡な人間の想像を絶する、あるいは「どこかでみたような」表現を明らかに超えた何かをみせてくれます。

宮崎作品はみなそうなのですが、この映画はとくにそうです。その意味で、この映画はやはり宮崎監督の「到達点」なのです。

「みたことのない、想像したことのないものをみせてくれる」という点では、宮崎監督の後に続く世代の、今や「巨匠」といわれるアニメ監督たちも、やはり及ばないのではないか――そう私は思っています。

***

でも「宮崎監督の新作長編を楽しむ」という体験は、おそらくこれが最後です。

この体験を、私は中学生のときに『カリオストロの城』をみて以来(そのとき宮崎駿という名前を知った)、長年にわたり何度もくり返してきました。しかし、これで本当に最後なのでしょう。

充実した気分で映画館をあとにしながら、私のなかではやはり「寂しい」という気持ちがわき起こってきたのでした。
 

 

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すぐれた読みやすい自伝・坂本龍一『音楽は自由にする』

今年3月に亡くなった坂本龍一さん(1952~2023)の自伝『音楽は自由にする』(新潮文庫)を読みました。2009年に新潮社から出版された単行本を、つい最近(2023年5月発行として)文庫化したもの。

編集者の鈴木正文さんを聞き手として坂本さんが語ったことを、インタビューとしてではなく、「ひとり語り」としてまとめています。

本書は、1人の音楽家の歩みを生き生きと伝える、すぐれた自伝だと思います。「現代日本人の自伝」の傑作といえるかもしれません。

そして、きめ細かく編集された、読みやすい本です。たとえば、各章がかなり短く区切られているのは、多くの人にとって読みやすいはず。

また、坂本さんが接したさまざまな人物(ミュージシャン・芸術家・作家・思想家など)とその作品や、昔の社会的な出来事が出てくるのですが、それらを各章の末尾の注釈で説明しているのは親切だし、勉強にもなります。

***

この本から私が受け取った最大のメッセージは、

1人の傑出した人物は、多くの人からさまざまなものを主体的に学び取り、努力する人のなかから生まれる

ということです。「努力」というのは「新しい何かを先人の遺産に加えようとする努力」です。

このような受けとめは、月並みかもしれません。しかし「坂本さんの人生は、まさにそうだ」と私は思ったのです。

坂本さんも、本書の「あとがき」でこう述べています。

“ぼくが「音楽家でござい」と、大きな顔をしていられるのは、ひとえにぼくが与えられた環境のおかげだ”

“ぼくはほんとうにラッキーかつ豊かな時間を過ごしてきたと思う。それを授けてくれたのは、まずは親であり、親の親であり、叔父や叔母でもあり、また出会ってきた師や友達であり、仕事を通して出会ったたくさんの人たち、そして何の因果か、ぼくの家族になってくれた者たちやパートナーだ。それらの人たちが57年間〔本書の単行本出版時の坂本さんは57歳〕、ぼくに与えてくれたエネルギーの総量は、ぼくの想像力をはるかに超えている”
(本書322ページ)

***

こういう「今の私があるのは、みなさまのおかげです」的な話を、社交辞令的に言う人もいるかもしれません。しかし、この自伝はちがいます。

坂本さんは本書で「ぼくが与えられた環境」について、熱心に多くを述べています。「環境」とはつまり、坂本さんにいろんなものを与えてくれた人たちのこと。

少年時代であれば、つぎのような人たち。

まず、教育熱心で、息子をピアノや作曲を学ぶ私塾へ通わせたお母さん・坂本敬子。お母さんは帽子デザインの仕事もしていた。ピアノは3歳から、作曲は10歳から学び始めた。

お父さんの坂本一亀(かずき、1921~2002)は、著名な文芸編集者だった。坂本さんによれば「遊びらしい遊びもせず、ただ本のことを夢中になって考えていた人」(151ページ)だったという。

貧しい境遇から立身出世を果たした祖父は、たくさんの本を買い与えてくれた(それらの本を坂本少年はあまり読まなかったけど)。クラシックのレコードをいつも貸してくれた親戚の叔父さんもいた。

そして、ピアノや作曲の基礎を教えてくれた先生方。ピアノの徳山寿子先生は、坂本少年が作曲家・松本民之助のもとで学ぶことを強く勧めてくれた。

また、坂本さんが影響を受けた、さまざまな作品。ドビュッシーの音楽は少年時代に出会った「原点」といえる。ビートルズにも衝撃を受けた。ジャズ喫茶にも高校生のうちから通った。

高校時代に初めて読んだ吉本隆明、埴谷雄高(はにやゆたか)といった思想家の著作や、ゴダールなどの映画作品も、音楽以外における「原点」だった。

それらの人物・作品の多くは、周囲の人たちから影響・刺激を受けて知ったのです。

中学・高校時代の親友や、友人のように語り合ったという高校時代の恩師のことも、坂本さんは述べています。

***

このような坂本さんの少年時代は、たしかに「恵まれていた」といえるのですが、一方で「案外ふつう」だと私は感じます。「文化的に恵まれた中流家庭」という、ある社会的階層の常識的枠内に収まるという意味で、「ふつう」なのです。

しかし、出会ったものから主体的に・貪欲に吸収し、自分の成長や活動につなげていく坂本さんの力は、幼少期から並外れたものでした。

だからこそ、少年時代の回想にしても、これだけ多くの「与えてくれた人たち」のことがきちんと述べられているのです。

***

そして、1970年に東京芸術大学作曲科に入学して以降、つまり青年期に入ると、坂本さんの成長力・活動力はさらに開花していきます。大学でも大学の外でもさまざまな文化を貪欲に吸収していったのです。

まず、前衛的な現代音楽から日比谷野音などでのロックコンサートまで、多くのライブに足を運んだ。当時の東京芸大作曲科で、ロックコンサートに行く学生はほかにいなかった。

坂本さんは、芸大のなかでは音楽系の学生よりも、美術系の学生と意気投合することが多く、彼らから前衛芸術についていろいろ教わった。美術系の学生には演劇をやっている人もかなりいたので、アングラ演劇を見に行くようにもなり、演劇の音響を手伝うこともあった。

演劇関係の人たちと新宿のゴールデン街にも出入りした。ゴールデン街では、それまで縁のなかったフォーク系のミュージシャンと知り合った。フォークシンガー・友部正人のツアーにピアノ奏者として参加し、各地を回った時期もあった。

そして、次第にフォークやロックのライブにおける「助っ人」として、多くの依頼が来るようになっていった……

また、芸大作曲科のアカデミックな教育内容にはあまり興味はなかったが、尊敬する作曲家・三善晃の授業は、強く希望して受講した。民族音楽の研究者・小泉武夫の授業にも欠かさず出席した。

電子音楽にも強く興味を持った。その関連でコンピュータについても知りたいと思い、いきなり東工大のとある研究室を訪れてコンピュータをみせてもらったことも。

以上の合間に、学生運動のデモにも参加した……このような坂本さんの大学生活は、大学院(修士)時代の3年間も含め、1977年まで7年間続きます。

***

そして、坂本さんにとって人生最大といえる転機は、1970年代後半における、細野晴臣さん、山下達郎さんなどの、のちに日本のポップ・ミュージックの巨匠となる人たちとの出会いでした。

細野さんたちに対し坂本さんがとくに感嘆したのは、この人たちが系統だった音楽教育を経ていないにもかかわらず、音楽について自分と合致する感覚を持っていたことでした。

つまり、坂本さんは細野さんの音楽を聴いて「この人は(自分が影響を受けてきた)ドビュッシーなどの音楽を十分わかったうえで、こういう音楽をやっているのだろう」と、まず思いました。影響を受けたと思われる箇所が、随所にみられたからです。

しかし、細野さんはその手の音楽をほとんど聴いていていなかったのです。

坂本さんは、このようにまとめています。

“つまり、ぼくが系統立ててつかんできた言語と、彼らが独学で得た言語というのは、ほとんど同じ言葉だったんです。勉強の仕方は違っていても。だから、ぼくらは出会ったときには、もう最初から、同じ言葉でしゃべることができた。これはすごいぞと思いました”
(146ページ)

そして、坂本さんはそれまで追究してきた、前衛的な現代音楽などのアカデミックな世界から離れ、ポップ・ミュージックの世界へとすすんでいきました。

この「転機」について、坂本さんはこう述べています。

“〔現代音楽というのは〕日本中から集めても500人いるかどうかというような聴衆を相手に、実験室で白衣を着て作っているような音楽を聴かせる、それが当時ぼくが持っていた現代音楽のイメージでした。それよりも、もっとたくさんの聴衆とコミュニケーションしながら作っていける、こっちの音楽〔ポップ・ミュージック〕の方が良い。しかもクラシックや現代音楽と比べて、レベルが低いわけではまったくない。むしろ、かなりレベルが高いんだと。ドビュッシーの弦楽四重奏曲はとてもすばらしい音楽だけど、あっちはすばらしくて、細野晴臣の音楽はそれに劣るのかというと、まったくそんなことはない。そんなすごい音楽を、ポップスというフィールドの中で作っているというのは、相当に面白いことなんだと、ぼくははっきり感じるようになっていました”
(146~147ページ)

***

私は本書のいろんな箇所に感心したり感動したりしたのですが、なかでも以上の「“同じ言葉を持つ人たち”との出会い」について述べたところは、最も感動しました。

そして、たしかにそれは坂本さんの人生において最も大きな出会いだった。また、日本や世界の音楽にとっても、大きな出会いだったのです。

その後の坂本さんは、ポップ・ミュージックの仲間たちから、急速に多くのことを吸収していきます。同時に、自分が持っている多くのことを仲間や聴衆に与えていきました。

坂本さんが大学院を卒業した翌年、1978年2月にはYMOが結成されます。

そして坂本さんのソロ・デビューアルバム(ポップ・ミュージックの作品)『千のナイフ』が発売されたのは、同年10月。YMOのデビューアルバム発売は同年11月のことでした。

***

私は、特別なファンではありませんが、坂本龍一というアーティストに多少とも関心を持ってきました。しかし、詳しく知っているわけではない――そんな私のような人は、ぜひ本書を読むといいでしょう。クリエイティブの世界全般に関心のある人(とくに若い人)にも、本書はおすすめです。

そして、コアなファンや、専門的な人たちにとっても、この自伝は「坂本龍一についての最も重要な伝記的資料」といえる。

文庫で手軽に読むことのできる本書、おすすめです。 

 

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生成型AIは「人間の精神」と「外界」のつながりを歪めるかもしれない

ChatGPTに代表される生成型AIというのは、情報の検索や整理、アイデアの検討などに役立つ道具です。そういうものとして使いこなせる人は、ぜひ使えばいいと思います。

その一方でChatGPTは「人間の精神・認識」と「外界」の関係をかく乱したり、歪めたりする恐れがある道具だとも思います。

人間の精神・認識と外界の関係を歪めるリスク――これが生成型AIの「負の側面(副作用)」の本質的なところではないか。

生成型AIの負の面については「人間が考えようとしなくなる(創造性が後退する)」「創造的活動が機械に侵食される」といったことがよく言われます。

それはそれでまちがっていないでしょう。しかし、「人間の精神と外界の関係」という視点でみれば、ことがらの本質・構造がさらに明確になると、私は思います。

まず、大上段に「人間の精神・認識は、根本的に、どのようにして成立しているのか?」ということを確認しましょう。そういう作業をしたうえで、生成型AIのことを考えてみたいのです。

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ここでいう「精神・認識」とは、知性や感情などの人間の精神活動全般をさしています。私が若い頃に独学した哲学の流派では「認識」といいます。以下、単に「認識」といいます。

その「哲学の流派」というのは、昭和の戦後に活躍した哲学者・三浦つとむ(とその弟子・南郷継正)の認識論・言語論です。

現代の学者が三浦つとむをひきあいに出すことは、まずありません。でも「三浦つとむは、今もあなどれない」「AIのことは、三浦認識論を使えばもっとよくわかる」と私は思っています。

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その哲学の流派(三浦学派)によれば、「人間の認識は、外界の反映」です。

外界とは、私たちが存在するこの世界の実在のこと。

つまり、私たちが生きているなかで外界についてみたり触れたり味わったりして得た感覚的な刺激・情報をもとに、私たちの「認識」は形成される。

別の言葉でいえば、「認識」はさまざまな「像」の集合体です。

では「像」とは何か。とりあえずは「頭のなかに浮かぶイメージ・感覚」と理解すればいいでしょう。

「像」には具体的で明晰なものもあれば、抽象的なものもあります。また、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚など、さまざまな感覚に基づいて「像」は形成されます。

たとえば私たちの「水」という概念(「像」の一つのあり方)は、どのようにして形成されるのか? 

それは、生まれたときからくりかえし、さまざまなかたちで「水」に接することによってです。

水をのんだり、蛇口をひねって出てきた水に触れたり、川の流れを眺めたり、その流れに足を踏み入れたり、プールで泳いだり……

そういう「(水という)外界の実在」についての五感をとおした経験を総合して、私たちのなかに「水」という概念(像)が生まれるわけです。

なお、言語というのは、そのような「概念」を、一定の言語規範(語い・文法)にもとづいて、音声や記号と結びつけたものです。

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以上は、話を大幅に単純化しています。詳しくいえば、認識は、単なる外界の反映ではありません。

私たちは外界を、常にある種のフィルターやレンズを通してみているので、そこにはさまざまな取捨選択や歪みが生じています。

「みれどもみえず(あるはずのものがみえない)」「柳の下の幽霊(ありもしないものがみえる)」といった、ことわざ的な現象は、人間が「自分のフィルター」をとおして世界をみているからこそ起きるのです。

また、人間は自分の頭のなかで「像」を加工して新たな「像」を形成すること、「像」と「像」の合成のようなことも絶えず行っています。

そのような新たな像の形成は、一応は外界とは切り離されて行われますが、最も基本的な素材となる「像」は、外界の反映として形成されたものです。

以上のようなこともありますが、ここでの議論では「認識は外界の反映」という基本を、まずおさえればよいでしょう。

***

ここまでをまとめると、人間の認識はつぎの流れで形成されているということです。

外界→認識  *認識とは像である

そして、私たちが言語表現をする場合には、頭のなかの「認識(像)」を表現しているのです。

つまり、こういう図式が、おおまかな全体像としては成り立つでしょう。

外界→認識→(言語)表現

以上は言語表現にかぎらず、ビジュアルの表現でも音楽表現でも同じ構造が成り立つのですが、やや説明が要るかもしれません。ここでは、比較的イメージしやすい「言語表現」に話を限定します。

そして、言語表現(文章・発言)を読んだり聞いたりするとき、私たちは上の図式の過程を逆にたどろうとするわけです。

つまり、言語表現から書き手・話し手の認識を読み取ろうとする。そしてさらにその認識の背後にある外界のあり方を理解しようとする。図式で書くと、こうです。

言語表現→認識(→外界)

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さて、ChatGPTのような生成型AIによる言語表現(文章)は、以上のような「外界→認識→(言語)表現」という全体構造を有しているでしょうか? もちろん否です。

私たちが「水」という言葉を発するとき、その背後にはぼう大な五感を通じた外界に対する経験がありますが、ChatGPTが「水」と出力したときには、それは「無い」わけです。

ChatGPTの言語表現の全体構造は、こうでしょう。

言語表現のぼう大なデータ→文章

上記の「→」のところでは、高度のデータ処理のプログラムが働いているわけです。それは「単語や、単語を構成する要素どうしの関連性に基づいて、文章を組み立てる」というものだそうです。

つまり「表現→表現」という構造になっているといってもいいでしょう。

***

以上のことは「あたりまえ」と思うかもしれません。

でも、「文章」のアウトプットが非常によくできていて、人間が書いたものと区別がつきにくいレベルだと、この「あたりまえ」を人間は感覚的に見失ってしまう傾向があります。

つまり、「データ→文章のアウトプット」にすぎないものを「外界→認識→(言語)表現」と同じように扱ってしまうのです。

なぜそうなるかといえば、子どものころから文章などの言語表現に対して、つねにそのような姿勢で「読む」ことを訓練してきたからです。「文章(言語)の背後にある認識と、さらにその背後にある外界を読み取る」ことを、習慣づけてきたからです。

しかし、ChatGPTが生成・出力した文章の背後には、「認識」も「外界」も存在しません。少なくとも、人間による言語表現と同じようなかたちでは存在しません。

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とはいえ、ChatGPTが生成する文章の素材となるデータのかなりのものは(現時点では)人間が書いたものでしょう。だから、ChatGPTが書く文章は、そのかぎりで人間の「認識」や「外界」と一定のつながりを持っています。

そこで「もっともらしい」「人間が書いたような」文章ができあがるわけです。

しかし、そのようなChatGPTの「外界」とのつながりは、間接的できわめて弱いものだと、私は思います。

なにしろ「“外界”から形成された“認識”を表現した“言語”を素材のデータとしている」という、幾重も過程を経たうえでの「外界」とのつながりに過ぎないのですから。

くりかえしますが、私たちが「水」というときの「外界の反映としての像」が、そこ(AI)には存在していないのです。

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このようなAIのあり方に対し、私たちは「自分の言葉が、自分の経験=外界のあり方に照らして正しいかどうか」を絶えずチェックしながら、言葉を発する傾向があります。

なかには「狂った状態にある」「判断力が弱く、歪んだ思考をする」という人もいますが、平均的には「外界と自分の言葉の照合・チェック」をつねに行っているわけです。

これを日常語でいうと「常識がある」ということです。

ChatGPT(少なくとも現行レベルのもの)には、外界との照合・チェックをふまえた「常識」がありません。しかし、並外れた語い力や表現パターンの引き出しを持ち、整った文章を出力する能力がある。

だから、外界と照らし合わせれば「でたらめ」で「狂った」内容であっても、正しい内容のときと同じように、「平気で堂々と」出力してくるわけです。

たとえば「明日〇〇区内でランチをしたいけど、おすすめの店は?」という問いに対し、ChatGPTがありもしない店をもっともらしく紹介したりすることがある。

***

しかし前にも述べたように、人間というものは、その言語表現(文章)から書き手の認識やその背後の外界の事実を、素直に読み取り、受け取ろうとする傾向があります。つまり、それらしい話を「うのみにする」ということです。

そのような傾向は、その文章が扱う領域での経験値が低い人ほど強いでしょう。とくに子どもはすべての領域において、それがあてはまります。

そして、ChatGPTの出力が「正しい」ならそれでもいいわけですが、「誤り」「でたらめ」であっても、認識や外界のあり方を素直に読み取ってしまうことがあるわけです。

***

そのような「事故」はChatGPTのようなAIが普及するほど、増えていくでしょう。

たとえば、でたらめな「史実」「法解釈」「技術」「医学」、さらには存在さえしない何かの知識を振り回して、専門家や識者に対し「お前はまちがっている!」と堂々と主張する人が増えていくわけです。

学校でも、先生に対し同様のことをする児童・生徒が続出するでしょう。

こうしたことは、ネット上で「フェイク」といえる情報が氾濫した結果、すでにかなり起きていますが、生成型AIの普及で、さらに拡大するのではないかと私は思います。そして、すでにそれは始まっているようです。

***

以上をまとめると、最初に述べた、つぎの問題(生成型AIの負の側面)がある、ということです。

「認識」と「外界」の関係をかく乱したり、歪めたりする恐れ

「外界」ときわめて弱いつながりしか持たない情報(生成型AIによる出力)をもとに「外界」を理解しようとする営みが増えれば増えるほど、こうした問題は一般化するでしょう。

そして、「人間の認識は外界の反映によって成立する」のです。

だとすれば「認識と外界の関係が歪む」ことは、人間の認識・精神に根本的な影響をあたえるということです。少なくとも局所的には、その恐れがおおいにあるのではないか。

その「根本的な影響」を一言でいえば、「外界の客観的なあり方を無視・軽視する傾向が強まる」ということです。

「外界と接点を持たないのに、語りや文章はやたらと上手い」という存在と無反省に深く付き合えば、そうなるのは避けられない。

以上のような基本的な見立てで、私は今後の生成型AIについてみていくつもりです。一方で、情報の検索や整理などに、この道具をうまく使えないものかとも考えています。

 

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