そういちコラム

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津田梅子・不自由な「母国」で道を切りひらいた女子留学生

明治4年、数名の少女が国費の留学生として米国に渡りました。その最年少が6歳の津田梅子(つだうめこ、1864~1929、元治元年~昭4)でした。彼女は通訳である藩士の娘で、父親は自分の娘に特別な教育(完全な英語力など)を与えたいと考えたのです。

津田梅子は(ご存じかと思いますが)後の津田塾大学を創設する人物です。2024年から発行される5000円札には彼女の肖像が用いられます(8月16日は、彼女が亡くなった日)。

渡米の11年後、17歳の梅子はともに留学した女子1名と帰国しました(あと1名は前年に帰国した)。

一緒に渡米した女子の留学生はほかにも何人かいたのですが、異国の環境に適応できず(梅子たちよりも数歳ほど年齢が高かったせいもある)、早いうちに留学を断念しています。梅子はステイ先のアメリカ人家庭になじみ、大切に育てられました。

最初の女子留学生である梅子たちでしたが、帰国後、政府は「日本語が不自由だし、女子には適当な仕事がない」という理由で彼女たちに職を与えませんでした。

幼い頃からアメリカで育った梅子たちは、帰国後は日本語や日本の生活習慣になじむためにおおいに努力をしなければならなかったのです。

それにしても、明治政府は相当な国家予算を費やして教育した女子の人材を、結局社会で活かそうとはしなかったということです。明治時代(とくに前期)に男子の留学生が帰国後はエリートとして引く手あまただったのとは、まったくちがいます。

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梅子の留学仲間2人は、やがて有力者やエリートと結婚。「特別な教育を受けた女子を奥さんにしたい」という男性はいたわけです。梅子も結婚をすすめられました。

しかし梅子は「自分を国や社会のため生かしたい」と、食い下がって仕事を求め続けます。また、実家の経済力は限られていたので、結婚しないのであれば自分の力で生活していく必要もありました。

彼女の職歴はこうです。

1.アルバイトの英語講師

2.伊藤博文に認められ、伊藤家の子どもたちの家庭教師

3.華族の令嬢のための女学校(華族女学校)の教師。ここでやっと本格的に就職したといえる。ここまで帰国後3年かかっている。

4.その後24歳で休職し、アメリカの大学に2年半留学。すでに教師としてのキャリアを順調に歩んでいたが、指導的な教育者になるために「大学で学ぶことが必要」と考えた。大学では生物学を専攻し、留学先の大学の教授モーガンと論文を発表。モーガンはのちにノーベル賞を受賞した大科学者で、梅子を高く評価した。

5.留学を終え、華族女学校に復帰。その後8年勤務し退職。当時の梅子は女性としては最高レベルの待遇を学校で得ていたが、自分の学校をつくるために辞めた。

6.1900年(明治33)、女子の英語教育の小さな私塾(後の津田塾大)を、各方面から資金を集め創立。

英語教育の私塾を始めたとき、梅子は36歳。あとは生涯独身で塾内に暮らし、ひたすら学校や学生に尽くした生涯でした。

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私は、津田梅子の伝記を読むまでは、ばくぜんと「最初の女子留学生→女子大創設」というのは「エリートとしての、自然な成り行き」のように思っていました(みなさんもそうだったのでは?)。しかし、そうではなかったのです。

たしかに彼女は、特別な教育を受けたという点では恵まれていました。しかし日本という、言葉や多くのことが不自由な「母国」で、懸命な努力で困難な道を切りひらいた人なのです。

そして、後に続く世代の女性たちが「道を切りひらく」ための学校をつくって発展させることに生涯をささげたのでした。

また、そんな彼女の真摯な生き方・努力に共感し、支援する人たちがいたわけです。

彼女の英語塾の創設・運営には(最初の)留学のときに出会ったアメリカ人の富豪の夫人など、アメリカの人たちが多額の寄付を行っています。留学仲間の女性たちも彼女を支援し、その周辺の有力者など、日本でも何人もの支援者があらわれました。また、彼女の事業のために懸命に働く、協力者や弟子もいたわけです。

彼女は多くの人たちに支えられながら、道を切りひらいたのです。それだけの支援を受けるのにふさわしい人だったともいえるでしょう。

 

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参考文献