そういちコラム

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「国の病気」を治したい・後藤新平のこと

日本で、政府による福祉や公衆衛生などへの取り組みが本格的に始まったのは、明治の後半から大正にかけてのことでした。たとえば病院の整備、下水処理、貧しい人への支援、公営住宅、託児所等々の事業です。

「国鉄」のもとになる組織ができたのも、その頃です。しっかりした組織ができ、鉄道はさらに便利になりました。発電所が建設され、電気の時代が始まりました。ラジオ放送局もつくられました。

じつは、これらのことはすべて、後藤新平(1857~1929)という政治家が関与しています。彼はほかにもたくさんの仕事をしました。6月4日は後藤の誕生日。

後藤は、若いころ医師でした。しかし、「個々人の病気を治すより国家の病気を治したい」と考えて官僚になり、のちに政治家になった。

そして、持ち前の科学的な精神で「国の病気」と取り組んだのでした。そんな政治家が、今の日本にも必要です。

以下、後藤の生涯をざっとたどってみます。後藤の場合、経歴や業績を列挙するだけで「どんな人物だったか」が、かなり伝わってきます。とにかく、すごい仕事ぶり。

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1857年(安政四)、今の岩手県で貧乏士族の家に生まれる。有力者の支援を受けて福島の医学校を卒業。優秀さを買われ、23歳の若さで愛知の県立病院の院長に。

その後1883年(明治16)、26歳で医師から内務省衛生局の技官に。その数年後には借金をして私費でドイツに留学。特権階級ではない彼が私費で留学したのは珍しいこと。それは官費で留学した一般的なエリートとは異なる彼の生き方を示しています。

そして留学から帰国後、また衛生局で活躍しましたが、あるトラブルに巻き込まれて休職に。

しかしその浪人時代に児玉源太郎(後に陸軍大将として日露戦争で活躍)にスカウトされ、日清戦争後の20万人余りの帰還兵の検疫(コレラなどが入るのを防ぐ)をみごとに行う。それが認められ衛生局に復帰。

後藤は衛生局の幹部・トップとして、つねにさまざまな調査を基本として政策を推進しました。

たとえば、飲食物・食器・衣服・家屋などの暮らしの詳細、人びとの身体の大小・体力・寿命・結婚年齢・伝染病の増減・山林伐採状況・薬品の販売や需要等々……彼はこうした社会調査の日本における開拓者の1人です。

「イデオロギーではなく調査に基づく」という科学的な精神を、後藤は何より大事にしました。

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1898年(明治31)、41歳からは、台湾総督となった児玉源太郎のもとで総督府のナンバー2として、台湾の近代化に尽力。ここでも彼の「調査」「科学」重視が発揮されました。

日露戦争(1904~05年)の後、満鉄の初代総裁に就任し、最先端の鉄道技術や都市計画に基づく満州経営の基礎を築く。1912年(大正元)には逓信大臣兼鉄道院(後の国鉄)総裁となり、速達・内容証明郵便の開始や、鉄道の電化推進などをすすめる。また外務大臣も歴任。

1920年(大正9)には東京市長となって市政改革を行うとともに、大規模な東京の再開発計画を提唱。

1923年(大正12)の関東大震災の直後には、さらに壮大な東京復興計画を立案するが、十分な理解を得られずに終わる(幹線道路など計画の一部は実現)。

後藤は「大風呂敷」を広げる人物だと、世間からは評されました。この東京復興計画は、まさにそんな「大風呂敷」の代表的なものといえます。

そして晩年は日本ボーイスカウト連盟の初代総裁、拓殖大学総長、東京放送局(後のNHK)初代総裁などを歴任。

1929年(昭和4)、地方での演説会に向かう旅先で倒れ、71歳で死去。

(以上、藤原書店編集部編『後藤新平の「仕事」』「後藤新平略年譜」などによる)

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作家の星新一は『明治の人物誌』(新潮文庫)という人物評伝も書いていますが、その本で取り上げた後藤新平について“生命に関する科学の知識を持ち、それにもとづく判断を行政の上に活用し、みごとな業績を上げた人物”と評しています。

まさにその通りだと思います。

そして「科学精神」のほか「大きな構想力」や、ここでは書ききれませんでしたが「人との信頼関係を築く力」「社会への発信力」ということも、後藤新平の大事な要素です。

理想化しすぎてはいけませんが、やはりこういう人は、今の日本に必要だと思えます。あるいはこういう人に活躍の場をあたえる(児玉源太郎のような)トップリーダーが必要ということかもしれません。

 

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参考文献 後藤新平入門に良い本で、おすすめ。