10月18日は発明王トマス・エジソン(1847~1931)の命日です。エジソンの葬儀が行われた1931年10月21日の夜、全米で彼の功績をたたえて1分間電灯を消すということが(どこまで完全に行われたかは別にして)実施されました。
エジソンは「よく働き、よく学んで不利な条件を克服し、人生を精一杯生きた人間」のひとつの極致です。「よく働き・よく学ぶ」人間の、まさに典型。
いくらかでも元気があるときなら、そういう人間の姿にふれると「自分も怠けないで(自分なりに・ささやかでも)がんばろう」という気になるものです。
でも落ち込んでいるときは「自分はダメだ」「こんなの無理」という感じになるのでしょうが……
偉人伝で最も興味深いのは、その人物が「第一人者」「大物」になるまでだと、私は思います。
偉人の歩みで私たちの参考や刺激になるのは、何よりも修業時代のことです。私たちの多くは、年齢を問わず大成とは程遠い「修行中」の身なのですから。
この記事では、エジソンの子ども時代から彼が発明家として一本立ちするまでを述べます。
エジソンの修業時代の歩みは、多くの人が概略だけでも知っておくといい「人類の共有財産」のようなものです。子ども向けの伝記や、あるいは「偉人だって、こんなにダメなところがあった!」みたいな話で「卒業」するのはもったいないと思うのです。
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トマス・エジソンは、1847年にアメリカ・オハイオ州の小さな町に生まれました。父親は材木と穀物を扱う商人でした。
エジソンは、ほとんど学校教育を受けていません。8歳のとき、小学校を1年足らずでやめています。
これは(昔はよくあった)経済的事情によるものではなく、学校に適応できなかったのです。好奇心が強すぎて、いろんな質問で先生をひどく困らせたりました。成績もひどいものでした。
トマス少年(エジソン)の母親は、元教師でした。彼女は息子を自分で教育することにしました。けんめいに本を読み聞かせたりして、勉強を教えました。
1年ほどするとトマスは、さまざまな本を自分で読めるようになりました。中等学校向けの科学の本を与えると、本で図解されている科学実験を片端から自分で行うようになりました。やがて家の地下室を与えられ、実験ざんまいの日々を送るようになったのでした。
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12歳のとき、トマスは鉄道の車内販売の売り子として就職しました。
彼の働く鉄道は、工業都市のデトロイトが終点でした。折り返しの待ち時間が数時間あり、それが自由に使えたので、機関車の整備の仕事を眺めたり、市内の工場を見物したり、図書館に通ったりしました。
そして、持ち前の好奇心や行動力で、学校に行かなくてもさまざまな知識を吸収していったのでした。
そんな彼を、周囲の大人も後押ししてくれました。特別なはからいで、列車の一部を自由に使わせてもらい、そこに実験器具を持ち込んだりしています。
さらに、その列車に手回しの印刷機を持ち込んで、新聞を編集発行しはじめました。自分で記事を書き、かなりの部数を売りました。これが、彼がはじめて何かをつくって「お客さん」を得た経験でした。
しかし、この新聞は地元のある有力者にとって不愉快な記事を書いたため、圧力をかけられてまもなく廃刊になってしまいました。
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そんな中、ひとりの駅長が彼に目をかけてくれました。自分の家にしばらく滞在して電信を学び、技士の資格を取ることを勧めてくれたのです。
電信には強い興味があったので、願ってもない話でした。トマス(以後エジソンと呼ぶ)は熱心に勉強し、16歳で電信技士の資格をとりました。
その後エジソンは、臨時雇いで電信の仕事をしながら、アメリカの各地を渡り歩きました。
その遍歴は5年ほど続きました。さまざまな経験をしましたが、各地の電信技士との交流で、電信技術に対する知識や考えを深めることができたのは、とくに有意義でした。各地の図書館でたくさんの本を読みあさったりもしました。
この時期のエジソンは、武者修行的に広い世界をみたわけです。
当時の電信というのは、最新のテクノロジーでした。その世界での武者修行は、今でいえば先端的なIT企業を渡り歩いて仕事をするようなものだといえるでしょう。
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1868年、21歳のエジソンは、東海岸にやってきました。そしてウェスタン・ユニオンという電信会社のボストン支局で、電信技師として働きはじめました。
その仕事のかたわら、マイケル・ファラデー(1791~1867)の『電気学実験研究』(1844~45刊)を古本で手に入れて読みました。
ボストンは多くの大学がある町なので、学問的な本に触れる機会が多かったはずです。エジソンは、少年時代の地下室で行ったように、その本にある実験を片端から追試していきました。
ファラデーは、1800年代前半に電磁気学を確立したイギリスの大科学者です。その著作に徹底的に学ぶことで、電気の科学の基礎を系統だって身につけました。
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なお、このファラデーも独学で科学の基本を身につけた人です。若いころのファラデーは、製本の職人でした。そして、仕事であつかう本を読むのが大好きでした。とくに科学書はむさぼるように読みました。
そのうちファラデーは、科学者にあこがれるようになりました。しかし、高等教育を受けていない彼が科学者になるのは、ふつうはムリなことでした。それでも科学の仕事にたずさわりたいと、ある著名な科学者にたのみこんで助手にしてもらいます。
その後もいろいろありますが、ファラデーは、その助手の仕事をスタートとしてキャリアを積んで、ついには偉大な科学者になったのでした。
そのような科学者の書いた本だからこそ、エジソンのような独学者に響くものが多くあったのではないでしょうか。
たとえば、ファラデーの本には数学がほとんど出てこないのです。高等教育を受けていないファラデーにとって、数学は弱点でした。それでも、数学を使わずに、物理の世界を生き生きとイメージできる本を書きました。そこがファラデーのすばらしさでした。
エジソンも、学校を出ていなかったので、数学には弱いところがありました。だから、数学なしで科学の奥深い世界に入っていけるファラデーの本は、まさに「バイブル」だと思えたのでしょう。
ファラデーという偉大な独学者は、その著作によってエジソンという偉大な独学者を育てたのです。
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やがてエジソンは、組織に雇われて働くよりも、フリーの発明家で生きていくことを模索しはじめました。
そして、「電気式投票記録機」という最初の自信作をつくりあげましたが、これは失敗でした。
これは議会における投票を、議員たちがボタン操作的に座席にいながら行える、という装置です。
エジソンはこれを各地方の議会が買ってくれると期待しました。しかし、どこも採用してくれませんでした。「こういう機械があると、政治家が投票のときに行う、いろんな工作(たとえば、投票をわざとゆっくり行って妨害するとか)ができなくなる」といわれてしまった。
エジソンは「発明は、お客さんが買ってくれてお金にならないとダメだ」と痛感したのでした。
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そして、22歳のときには、自分の小さな会社をつくりました。電気技術の発明・改良を専門に行う会社です。
やがて「相場表示機」という電信の装置をつくりあげ、特許をとりました。
この発明は成功でした。かつて勤めたウェスタン・ユニオンが、5千ドルというまとまった金額で権利を買ってくれました(計算の仕方にもよりますが、今のお金に換算して1千~2千万円くらいか)。
その後、彼はウェスタン・ユニオンで、今度は機械の技術者として働くことになりました。彼を高く評価した同社の幹部に特別待遇でスカウトされたのです。
まもなくエジソンは、ある技術的改良で大きな業績をあげました。すると4万ドルものボーナスが出たのでした(今のお金で1~2億円くらいか)。
彼はこれを元手に、また会社をはじめました。1870年、23歳のときのことです。
こうして、発明家としての本格的な歩みがはじまりました。1872年には、1年間で37もの特許を取得しました。ものすごい仕事ぶりです。この時期、結婚をして子どももできました。
1876年、29歳のときには、ニューヨーク近郊のメンローパーク村に本格的な研究所をつくりました。その後の長いあいだ彼の拠点となった場所です。蓄音機、電灯などの有名な発明が、この研究所で生まれたのでした。
エジソンのぼう大な仕事ぶりは、有名でしょう。蓄音機、電灯をはじめ、映画、謄写版、蓄電池関係、アルカリ電池、電話の改良等々、いくつもの大発明があります。そして、生涯に1000余りの特許を取得したのでした。
「10日にひとつの小発明、半年にひとつの大発明」をモットーに、エジソンは仕事に励みました。発明のアイデア、調べたことや実験の詳細などについて書いたノートを、彼は生涯に約3400冊も残しています。
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発明家のなかには、ある発明でまとまったお金を得ると、悠々自適のリタイア生活に入る人がいます。
しかし、エジソンはちがいました。発明で得たお金を、ひたすらつぎの発明や研究体制の強化につぎ込みました。そして、実験室に泊まり込んで仕事に没頭する。そんな生活を何十年も続けたのです。
エジソンは、「1日の実働は20時間。睡眠はせいぜい4時間で、ソファーや実験台の上で寝ることも多かった」と語っています。
エジソンの有名な言葉に「天才とは1%のひらめきと99%の汗(努力)のたまものである」というのがあります。
これについては解釈が分かれます。たとえば「1%の部分、つまり〈核になるひらめき〉がなければ、いくら汗をかいても何も生まれない」という意味だ、という説もある。
たしかにそれも一理あります。でも、エジソンの働きぶりをみていると、ストレートに「努力は大切」という意味だと思えてくるのですが、どうでしょうか。
つまり、「アイデアやセンスは出発点にすぎない。そこから努力をしないと、どうしようもない」ということです。
ここは、技術史・技術論研究家の志村幸雄さんが『人類への贈り物 発明の歴史をたどる』(NHK出版、NHKカルチャーラジオのテキスト)で同様のことを述べていて、共感しました。
エジソンにとって、「発明でお金が入る」ことは、「自分の発明が多くのお客さんを得た」「価値のある発明で、人びとの笑顔を生んだ」という証であり、「つぎの発明の研究資金を得る」ということでした。
そして彼は「多くの人びとの笑顔」を、猛烈なエネルギーで際限なく求め続けたのです。
そんな「発明家の限りない欲望」を、エジソンほどよくあらわしている人物はいないでしょう。
参考文献
マシュウ・ジョセフソン著、矢野徹・白石祐光・須山静夫訳『エジソンの生涯』(新潮社)
エジソン伝の古典的定番。1962年刊のせいかアマゾンで画像がみつからず。
こちらは現代的な視点で書かれたエジソン伝
これはSF作家・星新一が後藤新平、野口英世、伊藤博文など10人の明治の偉人について述べた評伝集。「大人のための偉人伝」の古典的名作だと思います。星新一のシンプルな文体で読みやすく書かれながら、その人物の深いところまで伝わってくる感じがあります。この本に上記のジョセフソン『エジソンの生涯』を参照して書かれたエジソン伝(唯一の外国人)があります。
こちらにもジョセフソンの本などを参照して書かれた、短編のエジソン伝があります。ほかに野口英世、キュリー夫人、ヘレン・ケラーなどの子ども向け伝記の定番の人物(合わせて10人)の評伝がのっています。木原さんのこの本は、タイトルの「大人ための偉人伝」という、現代の出版界のひとつのジャンルの「元祖」といえる名著です。
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私そういちは、100人余りの偉人をそれぞれ400文字ほどで紹介する『四百文字の偉人伝』という本(電子書籍)を、出版社・ディスカヴァー・トゥエンティワンから出しています。2012年3月刊で、こういう超短編の偉人伝の本としては先駆け的なものです(ベストセラーになったその手の本よりも早い。でも残念ながら世の中にはほとんど知られていない)。キンドルアンリミテッドの会員は無料で読むことができます。