本棚から取り出して、昔に買った古い新書を読みました。中沢信午『遺伝学の誕生 メンデルを生んだ知的風土』(中公新書、1985)――「遺伝の法則」を発見したグレゴール・メンデル(1822~1884、オーストリア)の評伝です。今年(2022年)はメンデル生誕200年。
メンデルは修道士でした。彼の修道院はオーストリア(現在はチェコ共和国内)の地方都市にありました。その修道院は科学の研究活動に積極的で(その背景は省略)、メンデルも科学研究や教育活動をおもな仕事にしていました。
そして彼は修道院長の後押しのもと、遺伝についての研究をはじめます。
修道院内の実験用の畑でエンドウ豆を交配し、育った豆の色やシワなどの形質について調べる研究。それを8年続け、結果を統計化すると、みごとな数量的法則性があることを発見したのです。
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メンデルのその発見は、遺伝的形質を伝える因子(遺伝子)の存在を示す証拠となりました。1865年に彼は論文を発表しています。
メンデルの研究内容の説明は、ここでは省きます。
とにかく彼の発見は「生命は“生命力”のような神秘の力で成り立っているのではない」「物質的な実体がベースの、数学的に法則性を記述できる現象である」という現代的な生命観を支える有力な証拠でした。
メンデルは数学や物理が得意で、これは当時の生物研究者では珍しいことでした。そのためか、彼の独自の発想による研究は同時代の学界では受け入れられませんでした。
メンデルの研究論文がのった学会誌は欧米各地の図書館や大学に送られ、論文の別刷りを何人もの科学者に送ったりもしたのですが、これといった反応はありませんでした。
メンデルは大学教授などのプロの研究者ではありませんが、学会に所属して、それなりの論文の実績もありました。
だから「無名のアマチュアなので無視された」というよりも、当時の多くの生物学者には、数量的に(あるいは機械的に)生命を扱ったメンデルの研究の意味が理解できなかったのです。
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やがて、メンデルは修道院長に昇格して公務で忙しくなり、研究はペースダウン。論文は期待した評価を得られないまま、彼は1884年に亡くなりました。
ところが、メンデルの論文が書かれて30年以上たった1900年に、複数の科学者が(それぞれ別々に)彼と同じ発見をします。
それがきっかけで、メンデルの業績は高く評価されるようになりました。埋もれていったアマチュア研究者の仕事が、劇的に再発見された。それが新しい科学分野(遺伝学、遺伝子研究)の原点となった。
これは科学史上の有名なドラマです。このあらすじは、私も知っていましたし、ご存じの方もかなりいるはずです。
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しかしこの「ドラマ」に関し、私が『遺伝学の誕生』を読んで知った、重要なことがあります。
それは「再発見されるまでのあいだ、メンデルの研究はまったく評価されなかったわけではない」ということです。
たとえば、メンデルの死後に、何人かの科学者が彼の研究について言及し、高く評価しているのだそうです(その文献が残っている)。
また、1881~95年出版の『ブリタニカ百科事典(第9版)』という有名な出版物において、メンデルの研究が(「雑種」という項目のなかで)紹介されていたりする。
こういう下地があって、1900年以後のメンデルの「再発見」につながったのだと、『遺伝学の誕生』の著者の中沢さんはみています。
つまり、一般には「メンデルを再発見に貢献した科学者たちは、メンデルの研究を知らずに、独自にメンデルと同じ発見をした」とされているのですが、じつは最初からメンデルの研究について知っていたのではないか、というのです。
なお、『遺伝学の誕生』は1985年の出版です。近年の研究で「メンデルの再発見」についての中沢さんのような見解がどう評価されているのか、私は知りません。
でもとにかく、メンデルの研究が「再発見」以前にも、専門家のあいだである程度知られていたのは確かなようです。
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メンデルの発見は、当時において異端的な、それだけに革新的な理論(のちに真理と認められる)だったといえるでしょう。
そういう「真理」は、いったん論文などの人びとに共有されるかたちになれば、なかなか勝利できないとしても、一方でなかなか消えない、しぶといものだ――メンデルの事例をみるとそう思います。
メンデルは、自分の研究があまり評価されなくても、周囲の人に「いずれ私の時代が来る」と語っていたそうです。強がりではなく、「重要な真理なのだから、いつか必ず評価される」と本当に思っていたのでしょう。
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メンデルの「遺伝の法則」と似た科学史上の事例を、私はもうひとつ知っています。それはコペルニクス(1473~1543、ポーランド)による地動説(太陽中心説)です。
コペルニクスの主著『天球の回転について』が出版されたのは、彼が亡くなる直前でした。弾圧が予想される地動説の発表に、彼はずっと慎重でした。ある程度は自説を発表していたのですが、長いあいだ著書を出版することをためらっていたのです。
しかし、重い病に倒れたあと、やっと(これまで書いた原稿をもとにした)出版を決意しました。
コペルニクスは「学説への反響を見届けることはできないが、自分の研究を後世に残したい」と思ったのでしょう。そして、「もうすぐ死ぬのだから、恐れるものは何もない」とも考えたはずです。
こういう経緯から、私には「ひとつまちがえば、コペルニクスは地動説の本を書き残さずに終わったかもしれない」と思えます。しかし、ぎりぎり間に合った。
コペルニクスの死後、彼の著作はどうなったか? 従来は「ほとんど読まれなかった」とされていました。彼の学説は、当初は顧みられることなく埋もれていったのだと。
しかし、現代の研究では数百部(当時としては相当な部数)刷られたものが、知識人のコミュニティでそれなりに流通して、読み継がれていったことがわかっています。(オーウェン・ギンガリッチ『誰も読まなかったコペルニクス』早川書房、2005、原著2004)。
そのようにコペルニクスの地動説は受け継がれ、次の世紀(1600年代)のケプラーやガリレオの仕事によって大きく前進し、有力になっていった。
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これは、メンデルのケースと似たところがあると思います。
どちらも「異端的な真理が発見され、受け入れられないまま埋もれていくが、のちに劇的に復活する」という物語が通説だった。しかし、じつはかならずしもそうではなかった。メンデルもコペルニクスも、たしかに少数の支持者がいて、彼らの仕事を後世に引き継いでいった。
通俗的なドラマだと「闇に消えたものが、劇的に復活する」ほうが感動的だということなのでしょう。
しかし実際はややちがう。「重要な真理は、当初は多数派に受け入れられず、勝利まで時間がかかったとしても、しぶとく生き残る」のです。その真理(理論)を支持する人たちの熱意によってです。私はそのほうが感動的だと思います。
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そして、このあいだ最終巻(第8巻)が発売されたマンガ『チ。-地球の運動について-』(作・魚豊)で描かれていたことも、これだと思いました。
完結して全体がみえたことで、この作品は「異端的な真理が、しぶとく生き残る」話だと、これまでよりもはっきりと感じられたのです。とくに最終話はそうです。
前にも(当ブログの別の記事で)書きましたが、『チ。』で描かれているのは、史実ではなく歴史の本質です。そこでは史実は跡形もなく変形されている。地動説の話をマンガとして成立させるには、それは必要なことでしょう。
しかし、たとえば第1巻で、このマンガにおける地動説の出発点となった学者が、複雑怪奇な天動説の宇宙モデルを批判して「このような宇宙は美しいか?」と主人公の少年に問う場面。
この場面は人物も情景も、史実とはかけ離れています。しかし歴史の真実をあらわしている。
科学史の研究では、コペルニクスもまた「天動説は複雑怪奇で奇妙なものになっている」という問題意識から研究をすすめていったことがわかっています。「天動説をくつがえす観測データを発見して」ということではないのです(科学史家・板倉聖宣さんの研究などによる)。
そして、主人公が代替わりしていくというこのマンガの特徴も、まさに歴史の真実といえます。史実の地動説もコペルニクス以降、さまざまな学者に受け継がれて発展していったのです。そして、批判や弾圧を受けたにもかかわらず、しぶとく生き残った。そしてそこには、理論を受け継いでいった人びとの強い思いがあった。
しかし、簡単に勝利できたわけでもない。ここも重要なところ。メンデルの研究にせよ、地動説にせよ、勝つまでにはすごく時間がかかっている。
『チ。』は、そのような、本来はマンガにしにくい「真理がたどった物語」を、マンガとして楽しめるかたちで、さいごまで描ききったのだと思います。
*2022年7月20日(メンデルの誕生日)追記 以下ネタバレ含む
ただ、ラストでごく簡単なかたちで史実の世界との接点・接続が示されるのは、どう評価すべきか迷うところです。このマンガは一種の「異世界ファンタジー」だと思って読んできましたが、じつは「歪められた歴史が本来の歴史の流れに戻っていく」過程を描いているといえるのかも。
私としては「異世界の歴史」をまっとうして、その「異世界」のなかで展開する「歴史の真実」のてん末を描ききってほしかった、それをみたかったという気持ちもあります。しかし、それをめざすと(地動説の展開の史実はいろんな広がりがあるので)話のおさまりがつかなくなるかもしれません。この作品をこの長さ(全8巻)でまとめたのは適切だと思うし、やはりこういうまとめ方でよかったのだとも思います。
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