勉強の極意は「作品化」だと、私は思っています。つまり勉強の成果をもとに自分の作品をつくること、そのための取り組みこそが最高の勉強だということです。
「作品」というのは、文章作品のほか、プレゼンやパフォーマンス、ビジュアルの作品、プロダクト製作など、いろんなかたちを含みます。
私は文章を書いてきたので、ここでは文章作品をおもに思い浮かべながら書いています。でも、以下で述べることはいろんな分野にあてはまる気がします。
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「作品化」にあたってまず大事なのは、自分の力不足を気にしないことではないでしょうか。
その作品をつくりあげるのに、本来は10の知識や能力が要るとする。しかし自分のレベルは2~3でしかない。だとしても、作品をつくり始めるといいと思います。
このことは、私が尊敬する学者の板倉聖宣さんが述べていました。むしろ「2~3」のレベルで文章を書くと、生き生きしたものになることが多いと、板倉さんは述べています。
これは、そのテーマについて視野がひらけてきて間もない時点での、ある種の気持ちの高まりが文章に反映するということでしょう。
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以上は別の言い方をすれば「博識になるまえに作品をつくり始める」ということ。
勉強して知識が増えると、たしかに自信はつきます。しかしその反面、「大きな知識の世界全体のなかでは、自分の知っていることはごく限られている」ということも、よくわかってくるものです。
また、他人の作品の欠点にもよく気がつくようになって、それをバカにしたり批判したりするようにもなる。
こういう感覚が深く身についてしまうと、人は自分自身の仕事ができなくなってしまいます。
ネット上で他人への批判を上から目線でこれでもかと行なっている人がいますが、そういうのをみると「これでは自分で何かを積極的に発信するのはむずかしくなる」と思います。
そうなる前に、自分の作品をつくり始めることです。
作品をつくり始めると、自分に不足しているいろいろなことが具体的にみえてきます。それらを一つずつ潰していけば、必要な知識やスキルは次第に身につくものです。
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私は1冊だけ世界史の概説書の著書(『一気にわかる世界史』日本実業出版社)があるのですが、それを書き始めたときも、おそらく必要な知識「10」のうちの「2~3」しか持っていませんでした。
当時の自分としては「6~7」くらいはあると思っていましたが、今振り返れば過大評価でした。
しかし、それでも書き始めたからこそ、作品を完成させ出版することができた。
実力不足だと、自分についてカン違いをするものです。
しかし、それが自分を後押しするならいいのです。とにかくつくり始めれば何かを生み出す可能性があります。結局うまくいかなかったとしても、学ぶことは多い。
世の中には多くの知識や相当なスキルを持ちながら、自分の作品をつくろうとしない人もいます。そういう人の多くは、批判的な感覚が鋭くなるあまり、自分に対する「カン違い」ができなくなっている。
でも本当は「無知でヘタでもいいじゃないか」と自分に言い聞かせて、作品をつくり始めればいいと思います。
そして、いざつくり始めれば、知識やスキルを持っているのはやはり有利なことのはずです。
私そういちの別ブログ(世界史中心、長文の記事ばかり)の、より詳しい記事
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