そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

今日の名言 ヘミングウェイ 「氷山の一角」で伝える

【今日の名言】アーネスト・ヘミングウェイ(作家、1899~1961)

“作家は自分が書いていることを充分よく知って、わかっていることを省略したとしても、作家が真実を書いているかぎり、読者は作家が実際に書いたと同様に強くそれを感じることができるのだ”

(ヘミングウェイ『午後の死』より、今村楯夫・山口淳『ヘミングウェイの流儀』日本経済新聞出版社からの孫引き)

ヘミングウェイは「省略の文体」とも言われるシンプルな(しかし力強く伝わってくる)表現で知られています。

これは『午後の死』という、「闘牛入門」的なノンフィクション作品にある一文で、文章に対する彼の考えをよくあらわしています。

ただ、私は『午後の死』の原文(日本語訳)にはあたっておらず、ここでご紹介しているのは孫引きです。『午後の死』は、手軽に読める文庫には入っていない(古い日本語訳の全集には入っているようです)。

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ヘミングウェイは、以上の「名言」のあと、こうも述べています。「氷山の一角説」とか「氷山理論」などといわれるもの。

“氷山の動きがもつ威厳は、水面に現れている8分の1による”

ヘミングウェイは、ときどき無知を装ったそうです。「自分は本なんか読まない」と言うこともあった。

でも実際は読書家で、自邸には図書室などに9000冊の本がありました。一方で、海外への移住・旅行や取材、アウトドアの活動などのさまざまな経験を積んだ人でもある。

つまり実体験と読書の両面から、この世界を深く理解しようとした。彼の作品は、その「理解」によって成り立つ「大きな氷山」の一角だというわけです。

「氷山の一角」で伝える――これは文章の極意のひとつでしょう。

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私はヘミングウェイの作品は学生時代にほんの少し読んだだけですが、彼の「氷山理論」のことは知っていて、文章を書くうえでの指針にしています。少なくとも「自分のテーマ」として、とくに本気で取り組んでいる分野ではそうです。

私は世界史や歴史上の人物について書くことをテーマにしています。歴史には詳しくない読者をおもな対象としているので、「シンプルにわかりやすく書く」ことが、私の文章では大事です。また、無名で権威のない著者なので、わかりやすく書かないと読んでもらえません。

そして「シンプルにわかりやすく」だけではなく、「正確に、深く」ということも必要です。そうでないと、読者に価値を提供できない。

そのためには、そのテーマについて現代の学者たちの本を(読みにくい本でも)しっかり読んで、理解する。自分をごまかさず、ほんとうに「わかる」ように、それをめざして読む。必要に応じて細かいこともインプットする。

もちろん、入門的な内容ではインプットしたことのほんの一部、つまり「氷山の一角」しか書くことはできません。

でも、自分がしっかりと理解していれば、アウトプットはシンプルでも、その「シンプル」のなかに自分の理解を反映させることができると思っています。それは読者にも伝わるはずだと。

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私が敬愛する巨匠には、細かい知識も含む多くのインプットを重ねながら、アウトプットはじつにシンプル(ただし多作)という人が多いです。

私が強く影響を受け、お会いしたこともある板倉聖宣さん(1930~2016)という教育学者は、まさにそうでした。

板倉さんは学術論文とともに、科学や歴史についての啓蒙書や子ども向けの本を多数書いています。そして子ども向けの本を書くときも、その基礎には専門的でぼう大なインプットがあった。板倉さんには複数の書庫があり、蔵書は数万冊にもなりました。

ほかには、民族学者の梅棹忠夫(1920~2010)や、SF作家の星新一(1926~1997)といった人もそう。

この人たちは「ぼう大なインプットにシンプルなアウトプット」の典型です。でも巨匠というのは、たいていはそうではない。たとえば星新一の盟友である小松左京(1931~2011)は「博識がフル活用されたアウトプット」が真骨頂でした。

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こうした(シンプルなアウトプットの)巨匠のようには、なかなかいきません。でもそれを素晴らしいと思うなら、その「理想」を目指して努力すればいいのだと思います。

なお、たくさんの読書をしなくても、自分が深く経験したこと、本気で思索を重ねたことをシンプルに書くなら「氷山の一角」は成立するはずです。「インプット」は読書だけではない。ヘミングウェイもそうでした。

しかし、世の中に流布する「書き方」のノウハウには「少ないインプットで効率的に文章を量産する」方向のものも少なくない。つまり「氷山の一角」ではなく「上げ底」「水増し」のノウハウです。

それは「自分が知らない・わかっていないことを書く」のにもつながる。

せめて、そういう「ダークサイド」には落ちないように――読者のみなさんや自分自身にぜひ言いたいです。

 

『ヘミングウェイの流儀』は私の手元にある単行本のほか、文庫版も出ています。ヘミングウェイのファッションやライフスタイルに光をあてた評伝。

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