SF作家・小松左京(1931~2011)の最初期の作品に「地には平和を」という中編があります(文庫版で50ページほどの長さで「短編」ともいえる。角川文庫『地には平和を』所収)。
太平洋戦争をテーマにした作品で、1960年(昭和35)に書かれたものです。
この作品の舞台は、1945年(昭和20)夏から秋にかけての日本。そこでは8月の終戦を迎えることなく、本土決戦(日本に上陸した米軍などとの戦い)が行われている。
そのような、実際とは異なる歴史を歩んだ「パラレルワールド」を描いた、SFの古典です。
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そのパラレルワールドの日本では、予定されていた8月15日の玉音放送は中止となりました。そして、「事故」によって急死した鈴木貫太郎首相に代わって新たに首相となった阿南惟幾(あなみこれちか、鈴木内閣の陸軍大臣)による、本土決戦に向けた演説が放送されます。
これは、降伏を拒否して徹底抗戦を主張する軍人が起こしたクーデタによって、政変があったことを意味していました。
なお、このようなクーデタは、じつは史実でも起きているのですが、不成功に終わっています。そして史実では、阿南陸軍大臣は終戦の8月15日に割腹自殺したのです。
この放送の翌日――8月16日からは米軍による空襲はこれまで以上に激しくなり、やがて米軍とソ連軍が上陸して本土決戦となりました。
1945年9月上旬には米軍の機動部隊が薩摩半島と四国の南岸にあらわれた。9月中旬には銚子沖、東京湾、伊豆沖にも別の部隊がやってきて、関東への上陸作戦が始まった。
10月初めには、米軍はさらに大規模な上陸作戦を三重県四日市で開始し、名古屋へ進軍。同時期にソ連の大軍も福井県の敦賀湾から上陸……
日本軍の多くは壊滅状態となり、残存部隊は山中などにたてこもるようになる。長野県の山中に大本営は移転し、周辺の中部山中には10個師団(10数万人の兵力)がたてこもった。
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主人公は、本土決戦の防衛部隊に志願した15歳の少年兵です。
米軍の圧倒的な力の前に、所属する部隊は全滅し、1人残った少年兵は山中をさまよっていた。道のりは遠いが、どうにかして長野までたどりついて、大本営やその周辺の部隊と合流したい……
物語はおもにこの少年に視点をあわせ、三人称で語られます。1人で山中をさまようになって以降の彼の体験が、この物語の主軸です。
しかし、上記の本土決戦の「シミュレーション」といえる経過や、1人きりになるまでに少年がこの戦争で経験したことも、ところどころで簡潔に語られる。
このような、本土決戦が行われたパラレルワールドについては、一定のSF的な設定があります。そして、そこから物語の「落ち」につながっていく。ただ、そのSF的設定は今となっては古典的なもので、それがこの作品の魅力ではない。
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この作品の魅力は、ある種の「シミュレーション体験」をさせてくれることだと、私は思っています。
その体験は、「あの戦争は何だったのか」について考える、さまざまな手がかり・イメージを与えてくれる。
コンパクトなエンターテイメント小説という、多くの人に入りやすいかたちで、すべてがフィクションであっても「あの戦争」の真実(少なくともその一面)をみせてくれるのです。
この作品は、現代のジャンル分けでいえば「架空戦記」の一種です。「太平洋戦争が1945年8月で終わることなく続いている」という設定の架空戦記ものは(私はあまり読んだことはないのですが)いろいろあるでしょう。
しかし、「架空戦記」ではあっても、そこには派手な新兵器や格好いい巨大戦艦などはもちろん出てきません。主人公たちの戦いも、英雄的な要素は皆無で、地べたを這うような「惨め」なものです。
たえず飢えや疲労に苦しみ、敵にはまったく歯が立たず、上官は少年兵たちに敵の戦車に飛び込んで自爆することを命じたりする。極限状況のなかで、少年兵どうしでも醜い争いがある。
主人公は、農民を銃で脅して食糧を得ようとする。農民から出された食事を飢餓状態のあとに食べたせいで、激しい腹痛に襲われたりもした。
そして、靴底はボロボロになり、最後は米兵に追われながら、泥と血にまみれて死んでいく(ただし、死の直前に遠い未来からやってきた“時空警察”の一員と出会って対話するのですが)。
こういう戦場の悲惨については、さまざまなノンフィクションの本があり、きちんと知るには、それらを読む必要があるでしょう。でも、その手の本は気軽に読めるものではない。
それなら、まずはこういう「エンタメ」から戦争のことに入ってもいいのではないか。
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「戦争入門」的な「エンタメ」として、この作品はすぐれていると思います。
限られた紙数のなかに、いろんな要素・情報をコンパクトに淡々と盛り込んでいる。しかし「お勉強」ではなく、「物語」としてその世界に入り込んで読むことができる。少年兵が主人公なので、中高校生にも感情移入しやすいはず。
戦争の悲惨を描いてはいるが、極端な残酷描写はなく、抽象化されている。性的描写もない。巨視的な歴史的経緯の視点もあれば、地を這う個人の視点もある。
そして、戦争を描いたエンタメ作品の多くは、「エンタメ」であるがゆえに戦争を美しく英雄的に描く傾向がありますが、それはこの作品には一切ない。しかしそれでもこの作品は、ある種のエンタメとして成立している。
もちろん、近年はマンガ作品でも、戦争を描いたすぐれた作品はあります。
しかし、そういう戦争ものでコンパクトに書かれたエンタメ小説は、少ないように思います。画像・映像ではない、小説だからこそ伝わるもの、イメージの広がりも重要なはずです。また、すぐに読める分量も「入門」では大事です。
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小松左京にとって「あの戦争」は、まさに深刻な現実でした。終戦のとき彼は14歳で「本土決戦になれば、自分も兵士として戦って死ぬのだろう」と思っていた。
戦場には行かなかったが、戦中や戦後の社会の混迷のなかで多感な時代を過ごし、戦争がもたらすおぞましい出来事を、同時代人として直接・間接に見聞きしてきた。
そして青年期以降は、ぼう大な読書などを通じて、戦争に関するいろいろな知見に触れ、思索してきた。生活の苦労もあり、いろんな社会経験も積んだ。その一方で作家修行として大量の原稿も書いてきた。
そのような小松左京――1960年の20代終わりの小松左京だからこそ、あの作品は書けたと思います。そのような「タイミング」だったからこそ、彼は原稿用紙80枚のあの作品を、3日で書くことができた。
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私は「世界史」「歴史」をライフワークにしていて、世界史の入門書も出版しています。そこで「歴史への入門」として、この作品をみているところがあります。「文学やSFとしてどこまで突き詰めているか」という基準では必ずしもみていない。
それは小説の読み方として「正統」ではないのかもしれません。しかしそれでも、それなりに意味のある読み方ではないでしょうか。
「戦争入門」の読書として、この作品をおすすめします。
しかし残念なことに、私が「この作品を読んでほしい」とイメージする「初心者」にとって、60年以上昔に書かれたこの作品は、文体・表現としてやはり読みにくいです。中高生はもちろん、大人でも普段あまり読書をしない人には「むずかしい」と思えるはず。
だから、いろんな配慮をしたうえで、中高生にも読みやすいかたちで、しかし情報量を落とさずに、この作品を書き直してほしいと思います。現代の、読みやすい名文を書く作家にお願いしたいです。
この作品を原作とする「中高生も読める現代バージョン」をつくるわけです。
これは名作文学でよく行われていること。そのようにして新たな命を吹き込む価値が、この中編小説にはあると思います。
もちろん、NHKあたりが単発のドラマにしてもいいのですが、長期的には活字のほうが多くの人に届く可能性があるはずです。
小松左京の自伝
小松左京を論じた評伝
私そういちの世界史の入門・概説書
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