そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

真似しよう、借用しよう。そして、そのことを隠さない

文章を書くなら、いいと思うものはどんどん真似しましょう。感動した言葉は、どんどん借りて使いましょう。どんなに真似したって、借りてきたって、あなたらしい個性は出てくるものです。良しにつけ悪しきにつけ、そうなのです。

そして、いろんな借用の組み合わせによって、オリジナリティのある何かが生まれるということも、多々あるわけです。

ただし、気をつけなくてはいけないことがあります。文章を書いて発表するときは、「真似や借用について隠さない」ということです。

他人の言葉や考えを「引用」するのはいいのです。一定の制約はありますが、原則的にはかまいません。

しかし、他人から借用しながら、それを隠して自分のオリジナルだと偽ったら、「盗作」です。

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創造とは、他人のつくりあげたものを受け継ぎ、それに新しい何かをつけ加えることです。新しいものを生み出すには、まず先人の仕事をふまえることです。

だから、「自分の仕事が、先人のどんな仕事に負っているか」「どこまでが先人の成果で、どこからが自分のつけ加えたものなのか」をはっきりさせることは、創造的であろうとするかぎり、きわめて重要なのです。

このブログは軽い内容のものですが、そういう文章としては、出典をきちんと示すようにしています。最低限「これは誰が言っている」ということは書きます。きちんとした論文なら、「誰の、何という著作の、どこに」というところまで示さないといけません。

ただし、論文において出典を詳しく示すのは、情報源を明確にすることで、読者がそこに書かれていることの信頼性を検証できるようにするためでもあります。

しかし、こうした「検証可能性」が学術論文ほど重要ではない、エッセイ的な軽い文章でも、出典や引用のことは気を配る必要があります。

その場合は「オリジナルの著者の名誉・人格を尊重する」という意味合いが強くなります。そのために「これは誰が述べている」ということをきちんと書いて、オリジナルを明確にするのです。

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とはいえ、すべてにわたってそうする必要はありません。私が尊敬する学者の板倉聖宣さんによれば、オリジナルかどうか《読者にとってとくにまぎらわしいものについてだけ、その出所を明らかにする》のです(『増補版 模倣と創造』仮説社 1987)。

つまり、教科書に載っているような理論はもちろん、その筋の専門家・教養人なら誰でも知っているような言説については、出所を略しても問題ない場合が多いです。

たとえば、日本の社会や政治を「無責任の体系」というキーワードを持ち出して論じるとします。この場合は「出所を略しても可」に該当します。

「無責任の体系」は、政治学者の丸山真男(1914~1996)が、戦時中の日本のファシズム(軍国主義)体制について述べた論説にある有名な言葉です。

その後、ファシズム体制にかぎらず、日本の組織全般における上層部のリーダーシップや責任感の欠如を論じるときなどにも用いられるようになりました。そしてこの言葉は知識人や読書家のあいだでは誰のオリジナルであるかは周知なので、丸山真男の名をあげて引用しなくても、基本的には構わないでしょう。

これに対し、「〇〇〇〇」という「これいいな、自分の文章で使いたいな」と思えるキーワードやコンセプトがあり、それを考えた著者や、その著者の創造であることが一般に知られていない場合は、その著者の名前をあげて引用しないといけません。

そうでないと、「〇〇〇〇」というキーワードは、読者にはそれを借用した人のオリジナルにみえてしまう。これは「盗んだ」ことになります。

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つまり、程度の問題ですが、借用する元の著者・著作が有名であるほど、その名前を出す必要性は低くなり、無名であるほど配慮して引用すべきなのです。

しかし、世の中にはこの逆をする人が後を絶ちません。つまり、著者が有名であればその名前をあげて「引用」し、無名の場合は、その名前をふせて「剽窃する(盗む)」のです。

真似や借用を、とにかくみっともないことだと考える人がいます。とくに「巨匠から借りるのはいいけど、無名から借りるのは格好悪い」と考える人がいる。

そういう人のなかから、他人の(おもに無名人の)創造を自分のオリジナルと偽る人が出てくる。そういう人には、先人の成果を活用して、そこから自分独自のものをつくり出すことはできないでしょう。