そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

浜口ミホ(ダイニング・キッチン開発)と三淵嘉子(「虎に翼」のモデル)

4月12日は、「日本初の女性建築家」といわれる浜口ミホ(1915~1988)の亡くなった日です。

彼女の代表作は、1950 年代に開発され大量につくられた、公団住宅(団地)のキッチンです。

当時の台所は一般に「日当たりの悪い、女中の仕事場」という位置づけでした。しかし当時の最先端である日本住宅公団の設計では、台所は南側で、食事で家族が集う「家の中心」であり、ステンレス製シンクなどの最新設備を備えていました。

この「ダイニング・キッチン」の設計を、浜口は主導しました。その設計は、のちの台所に多大な影響を与えました。現代の日本のキッチンの原型をつくった、といえるでしょう。

当時の建築界は完全な男社会。昔の男性は台所仕事に全く無知だったので、女性建築家で主婦の浜口に、公団の大きな仕事のオファーが来たのです。

彼女の設計方針は、当時の常識とは違っており、反対や抵抗もありました。しかし、懸命に説得や工夫を重ね、構想を実現したのでした。

浜口は、大学の建築学科の聴講生だった際、「男子学生との会話禁止」とされ、大学に女子トイレがないので男子用を使わざるを得ませんでした。

そんな彼女は、台所に立つ女性を「家庭の主役」にしたいという強い思いを持っていたのです。

 

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以下、建築の世界に入るまでの浜口ミホの歩みについて、北川圭子『ダイニング・キッチンはこうして誕生した』(技報堂出版)を参照しつつ述べます。

浜口ミホは、1915年(大正4)、中国の大連で、税関(当時、日本軍の管理下)の高官だった父・濱田正直の長女として生まれました。つまり、彼女は恵まれたエリート家庭の出身です。

そして、当時の大連はロシアの租借地で、国際貿易港があった都市。ミホの家の近所には欧米人も多く住んでおり、濱田家も洋館に暮らすなど、欧米的な要素の多い生活をおくっていました。この環境は、彼女の住宅に対する考え方・センスに影響をあたえました。

やがて、18歳で高等女学校を卒業したミホは、東京女子高等師範学校に入学するため、生まれ育った大連を離れました。

そして、東京で2年間の学生寮生活を送った後は、帰国した家族(父、継母、兄、妹)とともに自由が丘の邸宅(著名な建築家の設計による)で暮らしました。

女子高等師範学校は、教員養成のための女子の教育機関としては最高峰で、略して「女高師」といわれます。現代でいえば、ほぼ大学レベルといえる教育機関であり、そこに進学する女子はごく少数でした。

ミホが女高師に入る10年余り前の1920年(大正9)のデータですが、当時は全国に2校しかなかった女高師に在籍する女子学生は計766人で、これと近いレベルの教育機関である「専門学校・実業専門学校」在籍の女子は2795人(男子は約4万6千人)。

女高師や専門学校のレベルが、当時の女子の学歴の事実上の上限だったといえます。同年の大学生約2万2千人のうち、女子はわずかに2人だけだったのです。(板倉聖宣『週刊朝日百科 日本の歴史103 近代Ⅰ④学校と試験』より)

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つまり、浜口ミホは、恵まれた育ちの、女子としては最高の学歴のエリートでした。

そして、彼女にとって、職業的な自己実現をはかるとすれば、教育者・教師が最も有力な選択肢でした。教師は、「職業婦人」のあり方として、当時の社会で比較的認知されていたといえるでしょう。

しかし、彼女はその道を選びませんでした。「建築」という、当時の常識としては「完全に男の仕事」と思われていた分野を志したのでした。

そして、もしも女子がそのような「変わったキャリア」へ進もうものなら、世間からは「変人」扱いされ、「お嫁のもらい手がない(とくに良家からの縁談がない)」という事態が予想されたのでした。

さらに、当時の日本では女性が安定した・好待遇の職に就くことはきわめて困難でした。だから、「お嫁にいけない」とは、「社会のなかで居場所がなく、将来的には生活に困窮する恐れが高い」ことを、一般的(通俗的)な常識では意味したのです。

だから、「建築の道にすすみたい」という娘の希望を、親としては反対するのが当然だったわけです。しかし、以下に述べるように、ミホの両親はそうではありませんでした。

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彼女が建築に強く興味を持つきっかけのひとつは、女高師で、家政学の一環として建築士の先生から住居についての講義を受けたことでした。ミホは、この先生に個人的に製図の基本を教えてもらっています。

ただし、これは何度も頼み込んでやっと教えてもらったのです。先生(男性)としては「女子がそんなことを学んで何になるのか」という思いが、まずあったわけです。

そして、女高師を22歳で卒業後、彼女は愛媛県の高等女学校の教師として就職しますが、1年で辞めてしまいます。そして、東京の実家に戻り、両親に「建築の勉強をしたい」と懇願します。

すると、両親はそれを認めてくれました。ミホの父・濱田正直は、当時としては進歩的な考え方の人で、ミホも敬愛していました。そこで、父はともかく、母が許してくれたのは意外なことでした。

ミホの母・とりは、ミホが7歳のときに父と結婚した継母でした(生みの母・久は、ミホが3歳のとき、当時大流行したスペイン風邪で亡くなった)。

継母のとりは、ミホと同じ東京女高師を卒業し、高等女学校で礼儀作法の先生をしていた人です。そして、ミホや兄、妹に対しては、じつに厳しいお母さんだったのです。ミホは、このお母さんに反発心や苦手意識を持っていました。

しかし、「建築を学びたい」というミホに対し、お母さんはこういったのでした。

「ミホさんの言うこともわかります。住宅は、主婦が使いやすいように工夫されるべきです。女の建築家がいてもいいと思います」

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そして、お母さんは、たまたま友人だった東京帝国大学建築科のある教授の夫人を通して「娘を聴講生として受け入れてほしい」と頼むなど、ミホが建築を学ぶための手配もしてくれたのでした。

そして、ミホは1938年(昭和13)、23歳のとき、東京帝大の建築科の聴講生になることができました。女高師出の良家の子女で、紹介もあったので、認められたのです。

しかし、「男子学生(ミホ以外は全員男子)と口をきいてはいけない」「目立たないように、常に一番うしろに座ること」という、理不尽な条件付きでした。

また、前にも述べたように、当時の東京帝大の校舎には女子トイレがなかったため、彼女は男子トイレを使わないといけない、ということもありました。男子がいないときに、こっそりと用を足さないといけなかったのです。

そんな環境でしたが、ミホは1年ほど聴講生として建築の勉強に励みました。

そして、1939年(昭和14)には、日本の近代建築史の重要な1人である建築家・前川國男の事務所に入所しました。

これは、女高師時代にミホに製図を教えてくれた建築士の先生が、前川にミホの受け入れを頼み、それを前川が快諾してくれたからです。ありがたい恩師です。前川もさすがです。

ミホの前川事務所への入所は、当初は「見習い」のようなかたちでしたが、とにかく、当時の日本で最先端の建築事務所でキャリアを始めることになったのです。

そして、1941年(昭和16)には、前川事務所の所員(東京帝大で聴講生だったときの研究室も同じ)である浜口隆一と結婚。隆一は、ミホの仕事の良き理解者で、当時の男性としては珍しく、料理などの家事も積極的に行う人でした。

こうしてミホは、前川事務所で修行しながら、日本における「女性初の建築家」になっていくのですが、そのとき時代は破局的な戦争へと突入していくわけです。彼女の本格的なキャリアは、戦後にもちこされることになります。

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ところで、以上の浜口ミホの歩みは、今のNHKの朝ドラ『虎に翼』の主人公・猪爪寅子(いのつめともこ)と重なるところが多いと思います。

つまり、寅子のモデルとなった「日本初の女性弁護士の1人」である三淵嘉子と重なるのです。三淵嘉子(1914~1984)は、浜口ミホより1歳年上の、ほぼ同年齢です。

この2人は、同時代に生まれ、ともに「完全に男子の仕事で、女子がそれをやるなんてあり得ない」と思われていた分野にすすみ、「初の女性○○」になった人です。

三淵嘉子についての評伝も、最近私は読みましたが(長尾剛『三淵嘉子 日本初の女子弁護士』朝日文庫)、ドラマ的な脚色・変更はおおいにあるものの、あの朝ドラの基本的な設定は、たしかに史実をベースにしています。

ほぼ同じなのは、年齢だけではありません。三淵嘉子も、経済的に恵まれたエリート家庭の育ちです。

嘉子のお父さんの武藤貞雄は東京帝大法学部卒で、台湾銀行の行員だった人(ドラマでは、この学歴のことは、きちんとは触れていないように思います)。お母さんは、浜口ミホのお母さんのような学歴はありませんが、裕福な家の出身で、しっかり者の良妻賢母。この「良妻賢母」というところが、浜口ミホのお母さんと重なります。

また、お父さんの仕事の関係で、嘉子はシンガポール(当時はイギリスの植民地)で生まれ、2歳まで過ごしました。「欧米との接点がある国際都市で生まれ育った」という点も浜口ミホと重なるのです。

当時は、「女が法律を学ぶなんて考えられない」というのが一般的な常識です。1933年の法改正まで、女性が弁護士になることはできませんでした(女性が裁判官になることが可能になったのは戦後で、三淵は2番目の女性裁判官)。

そして、三淵嘉子のお父さんも、浜口ミホのお父さんのように進歩的な考えの人で、娘の志望を後押ししてくれました。ドラマでもそのように描かれています。

ただし、三淵のお母さんは、娘には「良妻賢母」になって欲しいという想いが強く、娘が法律の道にすすむことを(一応認めながらも)悲しんだといいます。

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三淵嘉子は、東京女子師範学校附属高等女学校を1932年(昭和7)に卒業したあと、当時の日本で唯一女子が法律学を学ぶことができた明治大学専門部女子部法科へ進みます。彼女は、この女子部法科の第4期生でした。

そして、嘉子は、1935年に明治大学に入学し、1938年(昭和13)には大学を卒業して現在の司法試験にあたる試験を受けて合格、1940年には弁護士登録しました。

女性が司法試験に合格したのは、彼女と、同時に受かった明治大学卒の女子2人(計3名)が初めてでした。

三淵嘉子が司法試験に合格した1938年は、浜口ミホが東京帝大の建築科の聴講生になった年で、弁護士登録した1940年は、浜口が前川事務所に入所した翌年です。

つまり、2人がそれぞれ「法律家」「建築家」として歩み始めた時期も重なります。また、せっかくキャリアをスタートさせたのに、それが戦争で中断し、戦後になって再開する、というのも同じです。

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そして、最後に確認しておきたいのは、この2人の女性のパイオニアは、戦後の憲法下での「男女平等」の動きのなかから生まれた存在ではないということです。

つまり、女性にとってきわめて厳しい時代において、「虎に翼」に出てきた表現でいうなら、あえて「地獄」に飛び込んでいった人たちなのです。このような人は、ほかのジャンルでもいたことでしょう。

この2人のような戦前のパイオニアがいたからこそ、戦後の新しい時代があった――そんなふうに、私は感じます。そして、2人のような恵まれたエリートだからこそ、そのような困難な道をあえて歩むことができた、ということもあると思います。

また、2人がキャリアを開始した1930年代後半~1940年の時期(日米の全面戦争に突入する直前)は、戦後に開花するさまざまな文化・価値観の「助走期間」あるいは「開花直前の試行段階」だったとも思います。

つまり、私たちが「戦後」の現象だと思っていることの多くは、すでに戦前に芽生えていたのではないか、ということです。しかし、その動きは戦争によって中断してしまったのです。

朝ドラの主人公でいえば、『ブキウギ』(2023~24年)のモデルである歌手・笠置シズ子は1914年生まれで三淵嘉子と同年です。『カーネーション』(2011~12年)のモデル・小篠綾子(ファッションデザイナー、コシノ3兄弟の母)は、1913年生まれです。

そして、笠置が服部良一と出会ったのは1938年、小篠がミシン1台で洋装店を開業したのは1934年。彼女たちのキャリアの開始・開花も、ほぼ1930年代後半のことなのです。なお、『カーネーション』で主役だった尾野真千子さんは、『虎に翼』でナレーションをつとめています。

笠置や小篠の分野は、「女性がやるのは変」と思われていた分野ではありませんが、「戦前昭和における“戦後”への助走」の例として、取りあげました。

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浜口ミホと三淵嘉子の共通点はまだあります。それは、2人とも彼女たちをモデルとするドラマが近年につくられ、彼女たちどちらの役も、伊藤沙莉(いとうさいり)さんが演じているということです。

その(朝ドラではないほうの)ドラマとは、2023年にテレ朝系で、2夜連続で放送されたスペシャルドラマ「キッチン革命」です。

このドラマは、第1話で栄養学者・香川あや(彼女のことも当ブログで取り上げています)、第2話で浜口ミホをモデルとした主人公が登場するのですが、この第2話の主人公を、伊藤さんが演じているのです。

そういえば、伊藤さんは2023年にテレ朝で放送された連続ドラマ『シッコウ‼』でも、「日本初の女性○○」を演じています。

このドラマは、執行官(税金の滞納者に強制執行する公職)をテーマにした作品で、伊藤さんは織田裕二さんが演じる執行官の補助者の役。そして、ドラマのラストに、試験を受けて初の女性執行官になった様子が描かれます。

こちらは完全フィクションで、特定のモデルはないわけですが、日本で女性執行官が誕生したのは、やはりつい最近のことだそうです。

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伊藤さんの最近の作品は、私はかなり観ていると思います(上記のほか、現代にあらわれた光源氏と一緒に暮らすOLの話とか、今回の朝ドラにも出演している仲野太賀さんと夫婦役だった「拾われた男」とか、刑事役だった「ミステリと言う勿れ」とか)。

つい観てしまう、魅力的な女優さん。彼女が「戦前昭和が生んだ女性のパイオニア」を演じる姿を、最近はたのしみにしています。

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