レジ―著『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書、2022年)を読みました。レジ―さんは、企業に勤める傍ら、音楽をはじめとするポップカルチャーについて、ブログやその他のメディアで発信している方で、1981年生まれ。
「ファスト教養」は、著者のレジーさんの造語だそうです。
本書によれば、ファスト教養とは
“ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそが大事」という画一的な判断に支えられた情報”
といえるものです(10ページ)。
著者はこう述べています。
“ここ数年、「ビジネスパーソンには教養が必要」といったメッセージがさまざまなメディアで取りざたされるようになった。たとえば、書店を見渡してみると、ビジネス書のコーナーに『教養としての○○』という本が並んでいるさまをよく目にするだろう”
そして、“最近の「教養が大事」論は、過去のものとはやや位相が異なっている” “今の「教養」がとくに色濃く帯びているもの。それは、ビジネスパーソンの「焦り」である”と。
つまり、“手っ取り早く何かを知りたい、それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう”という思いが、今のファスト教養と深く結びついているというのです。(9~10ページ)
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また、ファスト教養の特徴として、“特定のテーマを深く掘り下げるのではなく「何となく役立ちそうな話について」「大雑把に理解する」ことを「身につけておくべき教養」として重視する姿勢”(19ページ)があるとも述べています。
「役立ちそうなことを、浅く、大雑把に」ということ。それは「コスパ重視」の発想ともいえる。
なお、「役立ちそう」というのは、狭い意味でのハウ・ツーや、仕事で使えそうな思考法・発想法などにかぎりません。
そこには歴史や芸術、音楽などの文化的知識も含みます。芸術・音楽もいわゆる「高尚」なものにかぎらず、マンガ・アニメやポピュラー音楽なども対象です(むしろそういうポップカルチャーの教養が現代では「偉い人と話を合わせる」うえで重要になっている)。
そして、そういう「教養」を身につけることが、偉い人と話を合わせたり、自分を立派にみせたりする(差別化する)うえで有効だ、つまり出世や成功に役立つ――そういう考えが近年は有力になっているとのこと。
ひろゆきさん、中田敦彦さん、堀江貴文さんなどの著名な「教養系YouTuber」といわれる人たちは、そのような「ファスト教養」の時代の代表選手ということです。
本書では、こうした「ファスト教養の時代」を代表する発信者・著者を何人もとりあげて、分析・論評していきます。
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そして、こういうファスト教養的なものの対極には、古典的な教養観があります。
それは、教養を「役に立つかどうかではなく長いスパンで考えた時に人生を豊かにするもの」とする見方である――著者はそうまとめています(50ページ)。
たしかにそういう教養観というのは、古くからあります。私もこの手の教養観を持つ1人です。
しかし、著者によれば「昨今の社会には教養をこのようなのんびりした場所から追い出そうとする磁場が確実に形成されている」というわけです(50ページ)。
そして、その背景にはグローバル化によるビジネスの競争激化や格差の広がりといったことがある、というのが本書の論調です。
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著者のレジーさんは、基本的にはファスト教養に疑問や批判的な思いを抱いています。本書の「結論」ともいえる最後の第六章は「ファスト教養を解毒する」という題になっています。ファスト教養には「毒」「害悪」があるというわけです。
しかし、本書は「ファスト教養」を「くだらない」と切り捨てるだけの本ではありません。
著者のレジーさんは40歳過ぎの、仕事や家庭生活で忙しいビジネスマンです。同年代や自分よりも若いビジネスパーソンが、「じっくり古典を読む」ような教養よりもファスト教養的なものを求める、その状況についての理解があるわけです。
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その「理解」は随所にあらわれていますが、とくに、映画『花束みたいな恋をした』を取り上げた箇所(後半の第五章)での掘り下げにはひきこまれました。
この映画は、東京の大学に通う男女(演:菅田将暉・有村架純)が出合って別れるまでの何年かを描いたものだそうです(私はみていないのですが、レジーさんの解説でみたくなった)。
2人を結びつけるうえで重要だったのは、映画や音楽など共通のカルチャーへの関心だった。しかし、菅田さん演じる青年は、大学時代はイラストレーター志望だったが、卒業後は一般的な企業に就職して営業マンとして忙しい日々を送るうちに、かつてのようなカルチャーへの関心を失っていく。
彼の本棚にはハウツーもの(あるいはファスト教養)のビジネス書が並ぶようになり、有村さん演じる彼女(社会人になってもカルチャーへの関心を失っていない)との溝ができていく……
この映画で登場する、青年の本棚のセットには、彼が手に取りそうな実在のビジネス書がいくつも並んでいるのだそうです(真剣に撮った映画は、必要に応じそういうところまできちんとつくり込まれているものなんでしょうね)。
そしてレジーさんは、それらのビジネス書のタイトルをいちいち片端から読み取って、その本の内容に触れながら青年の置かれた状況や問題意識を推測したり、こんな本も読んだらいいのではないか、などと論じたりてしています。
ここまでレジーさんが論じるのは、教養・カルチャーに関心を持つ青年が社会に出たときに感じる「ギャップ」や「壁」のようなものを、ご自身も体験してきたからでしょう。
なお、レジーさん自身は、大学卒業後は「(関心のある分野の)志望企業に就職できた」と述べていますが、それでも社会人の世界への違和感はおおいにあって当然だと思います。
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本書から話がそれますが、読書好きで思想にも関心のある学生だった私(バブル世代)にも、世代はちがうものの、この映画の主人公の様子には身につまされる感じがあります。
あの青年のように、若いサラリーマンになった私も、大学時代にはまったく手をださなかったハウツー的なビジネス書をかなり読むようになりました(今もある程度読んでいます)。
しかし一方で通勤電車のなかで、たとえば岩波文庫の哲学や社会科学の古典を熱心に読んでいたりもした。
「こんなことをして何になるんだろう」と思いながらでしたが、「これをやめてしまうと、自分の大事な世界が失われる」と思ってしがみついていたところがあります。
そして、その延長線上にあることを、中高年になった今も続けています(でも社会的・経済的には何にもなっていませんが)。
そういう自分の体験もあるので、映画『花束みたいな恋をした』について述べた箇所は、本書でもとくに印象に残っています。そして、普遍性のあるテーマを、抽象論ではなく生き生きと目に浮かぶかたちで伝える、本書の重要な箇所だと思います。
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くりかえしますが、この本は「上から目線で、ファスト教養をただ非難した本」ではありません。
「ファスト教養とどう向き合っていくべきかを考えたい」として語りはじめた最後の章で、著者はこう述べています。「単純に割り切ることなどできない」という思いの言葉です。
“ビジネスに役立つなどと小賢しいことを言わず、大雑把に物事を知ることに満足せず、さまざまな領域に対して探究心を持って取り組む。それこそが、ファスト教養にがはびこる世の中における本来あるべき知的態度である――
というようにまとめることができたら、どんなに楽だろうか”(186ページ)
時間的に余裕がなく、「成果をあげろ」と駆り立てられている多くのビジネスパーソンが、ファスト教養的なものに魅力を感じるのは無理もないことだ。
そんなビジネスパーソンたちに対し「もっと勉強をしろ」といっても意味はないだろう……そんなことを、この最後の章ではまず述べています。
つまり、本書はスパッと「こうだ」という結論を打ち出していないところがある。「歯切れが悪い」ともいえる。
でも、その「歯切れの悪さ」にこそ、真実がこもっているように、私は思います。だからこそこの本は単なる「お説教」「糾弾・告発」にならずに済んでいる。
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では、「考えが深まらない」のかというと、全然そんなことはありません。
この本は2000年代以降のビジネス書や「ファスト教養」的なコンテンツを幅広く見渡して分析や位置づけを行っています。
つまりこのテーマを、じつに深く研究し、考察しているのです。現代のビジネス書の世界、ビジネスパーソンの読書・勉強について考えるうえでおおいに参考になる、幅広い見識が得られる本です。
そして、本書の情報や見解に触れると、自分なりに考える刺激を得ることができる。
この本は「『より良く生きるにはどうするか』という問題をまじめに考える本」だと、私は感じました。
ただしそれは「巨匠や達人に教えを乞う」のではなく、今の社会の現場を生きる、現役のビジネスパーソンであり知識人でもある著者が悩みや迷いを抱えつつ述べたことを通して考えるわけです。
だからこそ、「青年の理想」みたいな明快だけどフワフワしたものではなく、現実的で真剣な考察になっている。そういう考察では、簡単に明快な結論は出ないものです。
ただし、本書の最後の最後には、シンプルなメッセージが出てきます。
「無駄なことを一緒にしようよ」という言葉です。これはSMAPの楽曲「Joy‼」(津野米咲作詞・作曲)の一節。
この言葉から「どうしたらいいか」を明確に導きだすことはできないでしょう。でも、本書を一通り読んだ後だと「これ、だいじだなあ」と心に響きました。
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じつは、この本を読んでいて、私は少々疲れました。自分自身の活動について直接に・真正面から考えさせられる内容だったからです。
私は数年前に『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)という、いかにも「ファスト教養」的なタイトルの、初心者向けの世界史の概説・入門書を出版したことがあります。
世界史の全体像を、過去数千年の“繁栄の中心の移り変わり”という視点で述べた本です。
この本は「世界史という教養を、浅く、大雑把に」という読者のニーズにこたえるものとして出版されたといえるでしょう。
私は世界史などの歴史の探究をライフワークにしてきましたが、学者でも学校の先生でもない元会社員です。
私のような人間が世界史の本を出せたのは、本書のいう「ファスト教養」的なムーブメント(たとえばビジネスマン出身の出口治朗さんの世界史本のヒットなど)がたしかに影響している。
私は、「世界史という手ごわい対象について、初心者の読者に読みやすく伝える」ことに徹底的にこだわってこの本を書きました。
その意味で、レジーさんの本書が引用している、中田敦彦さんが自分のYouTubeについて語った言葉には、共感するところがあります――“果物でいえば皮をむいて一口大に切って一つずつ楊枝にさして、あとは口へ運べばおいしくいただける状態にまで、それぞれの本を加工してあげる”
ただし、レジーさんも述べているように、この「加工」で果物本来の味を台無しにしてはいけないわけです。
果物本来の味、つまり私の本なら「世界史の奥深さ」などを「信頼できる知識・情報に基づいて」伝えないといけない(それはむずかしいことですが、読者から頂いた好意的な感想から、そのような「めざすところ」をある程度は達成できたと感じてはいます)。
「多くの人に容易に食べてもらうための加工」によって、素材・対象の味わいやあり方を台無しにしないことこそが、「良心的な啓蒙的著作」と「ファスト教養」を分けるということなのでしょう。
「良心的な啓蒙」とは、別の言い方をすれば「知識の民主化」です。
「ファスト教養」ではなく「知識の民主化」に貢献する――自分としてはそういう仕事をしたいものだと、本書を通じてあらためて思いました。
そして、そのためにはどうしたらいいか。
それこそ単純に「もっと勉強すればいい」ということだと思います。
ある文化・教養が食べやすい形で加工されている場合、「そのコンテンツの作者がどこまで勉強しているか」が、ファスト教養かそうでないかを決める。なお、この場合の「勉強」は、単に知識量だけではないはずです。
ただし、それは「程度の問題」でもあるでしょう。このあたりについては、おおいに関心のあることなので、またいつか論じたいと思います。
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