「ビザンツ帝国」という国に関心があります。教科書ではマイナーな扱いですが、じつは世界史を理解するうえで重要な国です。これまでビザンツ研究の大家・井上浩一さんの著作(『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会)を中心に、何冊かの本を読んできました。
私がビザンツ帝国に興味をひかれるのは、そこに現代の世界(とくに先進国)と重なるものを感じるからです。とくに、その初期の200~300年間の頃(西暦600~700年代の頃まで)のあり方について、そう思います。井上教授も「現代世界のビザンツ化」ということを述べています。
ではビザンツ帝国とは、どんな国だったか。
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ビザンツ帝国とは、ローマ帝国が300年代末に東西に分裂したあとの東半分をさします。そこで東ローマ帝国ともいう。なお、ローマ帝国の西半分(西ローマ)は、今の西ヨーロッパにあたる地域です。
首都はコンスタンティノープルという、今のイスタンブールにあたる都市。ビザンツの呼び名は、コンスタンティノープルの古い名称であるビザンチウムにちなんだものです。
1000年代末のビザンツ帝国(東ローマ)とその周辺
じつは、ビザンツ帝国の住民は自分たちを「ビザンツ人」と称したりはしていません。
では何と自称したかというと、「ローマ人」です。つまり偉大なローマ帝国の人間であるということです。
「ビザンツ」というのは、ルネサンス以降の西欧での呼び方です。そこにはビザンツへの対抗意識があります。「あんなものは正統なローマ帝国ではない。ローマ文明の本当の後継者はこちら側(西欧)だ」という意識。
そこで中世の西欧ではビザンツ人を「ギリシア人」と呼んでいた。ビザンツ帝国の領域の中心はギリシア周辺で、人種的にもギリシア人が中核を占めていたからです。日常語もギリシア語だった。
しかし、ルネサンス以降、西欧で古代ギリシアの文明が崇拝されるようになると、「ギリシア人」というのも「ローマ人」同様に栄誉あるものになりました。
そこで西欧の人びとは、ローマでもギリシアでもない「ビザンツ」という名でローマ帝国の東側を呼ぶようになったのです。
ビザンツという名称には、そういう、めんどくさい経緯があります。
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300年代末に東西分裂したローマ帝国のうち、西側(西ローマ)は400年代後半に体制崩壊して滅びてしまいました。しかし、東側のビザンツ帝国は1000年余りの長期にわたって存続しました。
ビザンツ帝国が滅びたのは1453年のことです。この年にオスマン朝(オスマン・トルコ)の攻撃で、コンスタンティノープルが陥落しています。
末期の頃のビザンチン帝国はすっかり衰退して、コンスタンティノープル周辺だけを支配する小国になっていました。
ただし、末期には衰退したにせよ、ビザンツ帝国は長いあいだ大国として相当な繁栄を維持しました。首都コンスタンティノープルは、世界のなかの重要な大都市であり続けた。ビザンツの発行するノミスマ金貨は西欧やイスラムの国ぐにでも流通し、歴史家はこれを「中世のドル」と呼んでいます。それだけの経済力があったのです。
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ビザンツ帝国は、古代ギリシアの文明を受け継いで発展させたローマ帝国の末裔です。その文明はギリシア・ローマの文明が長い過程を経てたどりついたもの。
だから、古典的なギリシア・ローマの文明にあったさまざまなものが変質・形骸化して存在しています。
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まず、民主主義・共和政的な政治のあり方。つまり、多くの市民が政治参加して、それが権力を拘束するということ。その伝統は民主主義で有名な古代ギリシアだけでなく、最盛期のローマ帝国にもありました。
ローマ皇帝は、有力者の合議体である元老院やさまざまな法・慣習から一定の拘束を受けました。そして、軍隊や市民の支持を絶えず意識して政治を行ったのです。何にも縛られない専制君主というわけではありませんでした。
しかし、ビザンツ帝国の皇帝は、絶対的な専制君主でした。ビザンツ帝国では民主主義・共和政の伝統は過去のものになっていた。
ビザンツ帝国の役人は自分たちを「皇帝の奴隷」だと意識していました。しかも、それを嫌がるのではなく、偉大な存在の「奴隷」であることにそれなりの誇りを持っていたのです。
しかし一方で民主主義的な伝統の「化石」といえるような儀式もありました。皇帝が就任するときの、市民たちによる歓喜の声。これは国家が動員した「市民」でした。
そしてその「市民」は、国家のなかのひとつの官職になっていました。民主主義を演出するための役人という、奇妙なものがあったのです。
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ローマ帝国の「パンとサーカス」も、形を変えてビザンツ帝国に引き継がれました。
最盛期のローマ帝国では、コロッセオのような施設で連日さまざまな見世物が行われて、市民が熱狂しました。巨大な競走場での戦車(馬車)によるレース(競馬のようなもの)もさかんでした。
また、市民に対し無償で食糧配給も行われました。「パンとサーカス」といわれる一種の福祉政策です。
ビザンツでも食糧配給は、帝国が縮小する600年代まで続きました。また、ビザンツではコロッセオで行われたような剣闘士の戦いは廃れましたが、人びとはスタジアムで行われる戦車競走に熱狂しました。
戦車競走の運営を支えるものとして、「青組」「緑組」などと呼ばれる競争のチームを支援する市民の団体が組織され、市民たちは「自分のチーム」を熱心に応援しました。なんだかサッカーや野球の応援みたいです。
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ただ、こうした戦車競走も、600年代以降は衰退していきました。これは、ビザンツ社会において市民の共同体意識が衰退していったのと重なります。
最盛期のローマ帝国では、おもに都市を単位とする、地域ごとの自治組織が強固で活発でした。
「都市参事会」という公式の機関があり、それが地方政府のようなものでした。都市参事会が中心になって、インフラ整備などさまざまな行政活動が行われた。人びとは都市のコミュニティに対し強い帰属意識をもっていた。
しかし、ビザンツ帝国ではそのような市民の共同体はすっかり衰退してしまいました。人びとの都市や地域への帰属意識は失われ、ばらばらの個人が皇帝という最高権力者によって支配される、という構図になりました。
ビザンツの人びとは、きわめて個人主義的でした。しかし、それは「かけがえのない自分」のような強い自我をともなう近代的なものではなかった。「自分たちは皇帝の奴隷」という意識のもとでの個人主義なのです。
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このように、ビザンツの文化・社会は、古典時代の古代ギリシアや最盛期のローマとはかなり異質なものでした。
しかし一方で、ビザンツ人は古代ギリシア以来の伝統を大事に守っていました。ビザンツの知識人が書くものは、ギリシア・ローマの文献の引用や注釈ばかり。社会が変わっても、古くからの「ローマ法」を後生大事にして、判決などの根拠にする。
つまり、古い伝統をひきずったまま、それを超えるものを生み出せない停滞状態だったといえるでしょう。
技術的にみれば、ビザンツの建造物や生産の技術は、最盛期のローマ帝国を超えることはありませんでした。
コンスタンティノープルでも、最盛期のローマ市にあったような巨大建築は建てられましたが、ようするに同じようなものが(ややスケールダウンして)再現されたという感じです。
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ビザンツ帝国を支配したイデオロギーはキリスト教でした。ビザンツの人びとの圧倒的多数はキリスト教徒です。
キリスト教は、皇帝の権力を正当化する役割も担いました。ローマ帝国は特別な「神の国」で、ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)は神に選ばれた支配者であると説明されました。
キリスト教万能の社会では、自由な学問研究は抑圧され衰退してしまいました。とくに古代ギリシア以来発達してきた、合理的に自然現象を説明しようとする学問は、神の否定につながるものとして敵視される傾向がありました。
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どうでしょうか。古典的な民主主義の衰退・化石化。地域コミュニティの衰退と個人主義の台頭。自立した個人ではなく大きな権威に隷属する、ばらばらの個人。
観念的なイデオロギーが強くなり、合理主義は後退していった(キリスト教のような一神教は、究極の「もうひとつの真実」かもしれない)。そして科学・学問、文化全般の創造性の低下……
これって、現代世界と重なりませんか? それは現代の先進国の「劣化」しつつある面と重なると思うのです。
現代世界の文明も、ヨーロッパで生まれ、アメリカで展開した近代文明が長い時間を経て到達したものです。
その意味で、ギリシア・ローマの文明のなれの果てといえるビザンツの文明と似た立ち位置にあります。井上教授もいうように、今の世界はたしかに「ビザンツ化」しているのではないか。
現代の世界を考えるうえでビザンツ帝国のことは参考になります。これからもこのテーマは考えていきたいと思います。
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