そういちコラム

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日中戦争とウクライナの戦争の類似・和平交渉のむずかしさについて

先日(2022年9月15日)アップした当ブログの記事で、私は日中の戦争(満州事変も含めると1931~45)の経緯を簡単に紹介し、それが今のウクライナの戦争と似たところがある、ということを述べています。

要約するとこういうことです。

以下、侵略する国=日本、ロシア 侵略を受けた国=中国、ウクライナ。

・どちらも、「軍事大国ではあるが、経済・産業は今ひとつ」という国が、自分たちの「ブロック(支配圏)」をつくろうと始めた。

・最初は、侵略を受ける国の周辺的な地域(満州、クリミア)で侵略が始まり、その後数年を経て、中核地域あるいは国全体への侵攻へと拡大した。

・そして、侵略側は相手を過小評価して「すぐに制圧できる」とふんでいたが、予想外の激しい抵抗にあい、戦争は泥沼化していった。

・参戦はしていない覇権国側(アメリカなど)が侵略を受けた国を積極的に支援して、その支援が戦争の動向を大きく左右した。

・覇権国側による、侵略を行った側への経済制裁が積極的に行われた。

・侵略者側と侵略を受ける側のイメージを左右する、映像・画像を用いた国際的な報道が盛んにおこなわれた。そのなかで、もともとは国内外で評価が高くなかった侵略を受けた側の政権(蒋介石政権、ゼレンスキー政権)の株が一挙にあがっていった。

まあ、時代も国もちがうので、もちろんちがいはたくさんあります。しかし、やはり大きな構図は似ているところが多々あるように思います。

これは表面的に似ているというのではなく、既存の国際秩序に不満を持つ軍事大国が暴発するときの、ひとつの典型的なパターンをあらわしているのではないかと思います。

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報道では、近頃のロシアはかなりさかんに「我々は和平・停戦の交渉に応ずる準備がある」ということを言っているようです。

一般に「戦争が泥沼化・苦戦の状況にある侵略者側の国家は、和平・停戦を望むようになる」という傾向があります。

つまり「敵を完全に制圧する」という目論見が崩れたことが自覚され、「このまま戦争が続くと敗北する恐れや、国家体制の危機も考えられるので、今のうちに有利な条件で和平をしたい」と考えるようになる、ということ。これは日中戦争でもみられたこと。

*なお、「和平」というのは「戦争をやめて平和な状態に戻す」こと全般をさします。そして、これに似た言葉で「停戦(休戦)」「講和」があります。
「停戦」は戦争の一時的な休止のことで、「講和」は戦争の最終的な終結をさします。それを決めた国家間の約束は「停戦協定」「講和(平和)条約」というのが一般的。どちらも、非日常的な政治的・法的用語といえます。
一方、「和平」はそれよりも日常的な表現で、ばくぜんと「停戦」「講和」の両方について使われることが多い。「和平交渉」という表現もよく使われる。

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日中戦争における日本の軍部・政府も、中国(蒋介石率いる国民党政府)との和平交渉に、かなり取り組んでいます。

まず、1937年11月から行われた戦争のかなり初期の頃の和平交渉。この交渉は仲介役を務めたドイツの中国駐在大使の名をとって「トラウトマン和平工作」といいます。

この交渉が始まった頃日本軍は上海を制圧し、国民政府の首都南京を攻略中でした。日中の戦争が本格化したのは1937年7月のことで、同年11月というのは、戦争が拡大するなかで日本軍が明らかに優勢だった時期。

そこで、日本側は強硬な姿勢で中国との交渉に臨んだものの、日本側が主張する(日本が圧倒的に有利な)和平条件に中国側が難色を示し、日本側も譲歩しなかった。

結局1938年1月、日本政府は「国民政府を対手(あいて)にせず」という声明を出して、この和平交渉の打ち切りを宣言しました。

こうした「侵略者側にまだ勢いがあった、戦争の初期における和平の動き」は、どのくらい本気だったかは別にしてウクライナの戦争のときにもありました。

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その後、1938年には日本軍は、徐州・武漢・広東を占領するなど進撃を続けます。しかし、主要都市は占領しても、日本軍は各地での抵抗にあって、広い範囲の支配を確立できず苦しむようになっていきました。

蒋介石の国民政府も1938年末からは、内陸部の重慶に首都を移して徹底抗戦の構えを崩しませんでした。その抵抗を、アメリカ・イギリス、ソ連といった列強の支援が支えました。

日本は、トラウトマン和平工作のほかにも、「有利な和平で戦争を早く終わらせる」ための摸索を行っています。

たとえば、おもに1938年後半に行なわれた「汪兆銘(おうちょうめい)工作」といわれるもの。日本側は国民党(国民政府を率いる政党)の大物幹部で「日本と早く妥協し、共産党と戦うべき」と考える汪兆銘に接近し、和平をすすめようとしたのです。

このような和平工作がいくつか行われたのですが、どれも実を結びませんでした。

なお、当時の中国では反政府勢力として毛沢東率いる中国共産党が存在し、その共産党と国民政府は日本との戦いでとりあえず協力関係にありましたが、根本では対立していました。

このほかの和平工作のひとつに、1939年末から1940年9月まで行われた「桐(きり)工作」といわれるものがあります(「桐」というのは、その事案に対し当局がつけた番号のような名前で、特に意味はありません)。

これは、蒋介石の妻で著名人としての影響力もあった宋美齢の弟・宋子良(そうしりょう)という人物に接近して和平交渉をすすめようとしたものです。

しかし、なんとその宋子良はニセモノで、じつは中国側の工作員だったのです。そのニセモノと日本側は何か月も交渉していたわけです。

なんだかドラマみたいな話ですが、そんな「詐欺」にひっかかるほど、当時の日本は焦っていたといえるでしょう。

結局、当時の国民政府は日本と妥協するつもりはありませんでした。列強からの支援を得て、そして相当な抵抗・反攻の実績もあげるようになり、「日本との戦いを勝ち抜くことが可能だ」という見通しを強めていったのです。

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今のゼレンスキー政権も「ロシアが占領した東部をすべて奪還し、さらにクリミアも奪還する」という意志を強くしているようです。どこまでを本気で考えているかはわかりませんが、とにかく「この戦争に勝てる」という見通しを強くしている。

その一方でロシアは、これもどこまで本気かわかりませんが「和平の用意がある」と、また言い始めた。

こういう構図は、やはり日中戦争が泥沼化してからの状況と重なります。

そして、「和平交渉のむずかしさ」ということも、両者は共通しているでしょう。

侵略者側の手前勝手で強硬な「和平の条件」を、中国の国民政府が拒否したように、今のウクライナも決して受け入れないはずです。

日中戦争において、日本と中国がとくに決定的に折り合わなかったのは「日本軍の中国からの撤兵」ということでした。

日本側、とくに戦争の主体である日本陸軍は、「和平」したとしても中国への駐留をずっと続けるつもりでした。陸軍にとって、撤兵することは(それが何年後かのことであっても)、それまで犠牲を出しながら戦って得たものをすべて失うことであり、絶対に認められなかった。

一方で日本軍が居座り続けることは、中国側には絶対に認められない。これでは交渉がまとまるはずはない。

こういう構図で「和平交渉がまとまりようもない」というのは、日中戦争にかぎったことではありません。現に今のウクライナでも、同じようなことが生じている(生じつつある)といえるでしょう。

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有利な和平を結ぶことも、戦況を大きく好転させることもできないまま国力を消耗していく――そういう状況に陥った日中戦争のときの日本は、さらに「暴走」していきます。

日中戦争をとことん戦い抜くために、東南アジアを占領して(インドネシアなどの)石油資源を手に入れようという「南進」の構想が、日本の指導者のあいだで有力になっていったのです。

東南アジア侵攻(南進)はイギリスやアメリカとの戦争につながる恐れがあるが、それもやむを得ない。

そして、日本にとってとくに恐ろしいのはアメリカなので、東南アジアを攻めるにあたり、アメリカの海軍基地(真珠湾)をあらかじめ叩いておこう――ごく大まかにいって、そんな発想・方向へすすんでいくのです。

アメリカは日本の「南進」を阻止するために、「経済制裁」を強化して圧力をかけていきます。当時の日本は石油をはじめ、多くの物資をアメリカや、イギリスの植民地からの輸入に頼っていました(それなのにアメリカ・イギリスと「戦争も辞さない」という姿勢だったのです)。

1941年4月からは、日本とアメリカのあいだで「日中の戦争」「日本の南進」「アメリカの経済制裁」などをめぐる本格的な外交交渉が始まったのですが、結局まとまらなかった。

1941年8月にアメリカは、日本への石油の輸出をストップしてしまいます(その直接のきっかけは日本が「南進」を本格化する動きをみせたことだった)。

そして1941年12月には、日本は真珠湾への奇襲攻撃を行い、それと同じタイミングで東南アジアへの侵攻を開始する……

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これは、歴史の後知恵でみれば、日中の戦争で追い込まれた日本が、さらにアメリカにも追い込まれ、「破局」につながる最悪の選択へつきすすんでいった、ということです。

こうしてみると、今後のロシアが追い詰められた結果「世界の破局につながる最悪の選択」をとらないかと、心配になります。

だから、「無神経にロシアを追い詰めない」「“最悪の選択”はロシア自身の即時の破滅になると理解させる」ということは、アメリカや西側諸国にとって大事なのでしょう。

そこで、どこかの時点でアメリカが中心となって、半ば強引に(ウクライナの意志とは別に)「停戦」に持ち込もうとすることもあるかもしれません。

ここでは立ち入りませんが、たとえば朝鮮戦争(1950~53、韓国と北朝鮮の戦争)の停戦は「アメリカ、中国、ソ連という大国が主体となった決定」といえるものでした(ただし「このときのアメリカ・中国は直接の軍事介入を行って戦場で戦った」という点が今のウクライナの戦争と異なります)。

私には今後の展開など、とてもわかりません(専門家だってわからないでしょう)。

でも、一定の(基本的な)歴史知識から「今起こっていることの構図・性質」が、ぼんやりとですが見える感じはするのです。

 

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