そういちコラム

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エリザベス女王の葬儀とチャーチルの戦争指導体制

エリザベス女王の葬儀(2022年9月19日)は、報道によれば1960年代から政府・王室のほか軍・警察・放送局などの関係者が、計画を練ってきたものだそうです。近年は女王自身も、その検討に加わって、詳細に希望などを伝えていた。

そして、先日その葬儀はついに「本番」を迎えたわけですが、世界の評価はおおむね上々。

イギリス人たちは、世界が注目する大イベントを、厳粛に、しかし目をみはるような美しさをともなって、粛々とやり切ったといえるのでしょう。

この葬儀を通じて、私は「イギリス人には、組織運営について独特のセンス・能力があるなあ」感じました。

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そして、私は歴史上の大きな出来事への対応で「イギリス人と日本人の組織運営はたしかにちがう」といえることを、ひとつ知っています。

それは、第二次世界大戦(日本ではアジア太平洋戦争)の際の、戦争指導体制です。

イギリスは、ウィンストン・チャーチル首相(1874~1965)の指導のもとでナチス・ドイツ(アジアでは日本)と戦いました。その際、チャーチルが主導してつくった戦争指導体制は、ある種の「独裁」といえるものでした。

チャーチルは、新たに創設したポストである「国防大臣」を兼務しました。そして首相=国防大臣の直属として、陸軍参謀総長・海軍軍令部長・空軍参謀総長という「軍の作戦を担う部門」のトップによって構成される委員会(三軍幕僚長委員会)が置かれました。

つまり、首相は政府の長というだけでなく、三軍(陸軍・海軍・空軍)の最高指揮官としても明確に位置づけられていたのです。

そして「三軍幕僚長委員会」には、閣僚級をトップとする事務局の委員会が付属し、さらに実務レベルの三軍の幹部(部長級)で構成される各分野の委員会が直属して、実務を支えました。「各分野」とは「作戦計画」「情報」「兵站(物資・施設関係)」の三分野です。

そして、戦争の方針についての重要事項は、チャーチル首相と三軍幕僚長委員会のメンバーの頻繁な打合せで決まっていったのです。

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こうしたイギリスの戦争指導体制の特徴は、おもに3つあります。

①政府のトップである首相への、明確な権限集中

②首相という、軍人ではない政府のトップが、軍をコントロールする体制である

③トップの指揮のもとに三軍が統合される(一体となって方針を話し合い・決定する)ように組織されている

イギリスは、当時(20世紀半ば)の世界で、最も民主主義の発達した国のひとつでした。しかし、全面戦争という非常事態の場合には、戦争についての決定を民主的に行うのは、非現実的です。

国会で「このような攻撃計画を審議したい」などとやっている時間はないし、そんなことをしたら、敵にすべてが筒抜けです。

そこで、民主的な手続きをふまえたうえで、上記のような「独裁体制」をつくり、その組織のもとで戦争を続けたのです。

この「独裁体制」は、かなりうまく機能しました。そこで、イギリスよりも後に第二次世界大戦に参戦したアメリカにもおおいに影響をあたえました。

ホワイトハウスは、当時のイギリスを参考にして自分たちの戦争指導体制を整備したのでした。

(以上、『決定版 大東亜戦争(下)』新潮新書所収の戸部良一「日本の戦争指導体制――日英比較の視点から」による)

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一方、アジア太平洋戦争における日本は、イギリスのような明確で整然とした戦時指導体制を構築することができませんでした。

当時の日本では、陸海軍の両者を指揮できる、イギリスの首相にあたるような明確な総司令官はいませんでした。

もしいるとしたら、それは「天皇」ということになりますが、その実務的関与には制限・限界があります。だから「実務における・明確な総司令官」とはいえませんでした。

東条英機首相のような(戦争のある時期まで)大きな権力を持った軍人出身の指導者でも、自分の出身である陸軍に対しては権力を行使できても、海軍に対してはそうはいきませんでした。

まして、軍に根ざした指導者ではない政治家が軍をコントロールすることは、戦争が拡大・深刻化するにつれて、まったく不可能になっていました。

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戦時の日本において、イギリスの「三軍幕僚長委員会」に相当するのは「大本営」という機関です(聞いたことがあると思います)。しかしそれは、イギリスのようには機能しませんでした。

イギリスと日本の戦争指導体制を比較・研究した歴史学者・戸部良一さんによれば《大本営会議は、しばしば形式的なものだった》とのことです。会議に出席した軍人の「あれは会議ではなく、連絡会だった」という証言も残っているそうです。

そして、大本営会議がそんな実態だったということは《陸軍と海軍の戦略的統合がなされなかったことを意味する》と、戸部さんは述べています。

たしかに、このような「トップ」「総責任者」が不明確で、各部門(陸軍と海軍)のあいだの統合や連携ができていない状態では、無責任で不統一なこと、不合理や理不尽がいろいろと起こってしまうでしょう。そして実際に、それらは多々起こったわけです。

アジア太平洋戦争のときの日本は「軍部独裁」だったという理解が一般にあります。たしかに、議会政治が停止状態で、さらに政治家が軍をコントロールできなかったという意味で、「軍部独裁」だったといえるでしょう。

しかしそれは、「明確なトップのもとに組織だったかたちで全体が統括されている独裁」ではなかったのです。「無秩序・無責任な独裁体制」といったらいいでしょうか。

もちろん戦時のイギリスにだって、「不統一」や「不合理」といえる事態はいろいろ起こったにちがいありません。しかし日本の体制よりは、かなりいい結果を生んだ。

そうでないと、戦争には勝てなかったでしょう。あるいは勝てたとしても、ドイツや日本にもっと追いつめられていたはずです。

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以上のようなことを知ると、「当時のイギリス人は、この手の組織づくりや運営が上手だったんだな」と感心します。

しかし、私がイギリス人に対しさらに感心するのは、戦時中の「独裁体制」を、戦争に勝利した途端に、あっさりと解体してしまったことです。

1945年5月にドイツが降伏してまもなく、同年7月の総選挙でチャーチルの保守党は敗れて、政権の座からおりることになったのです(ただし1951年の総選挙で首相に復帰)。

1945年7月の時点で、日本との戦争は続いていましたが、勝負はほとんどついていた。チャーチルの退陣は「戦争はほぼ終わったのだから、独裁体制はもういいだろう」と、政治家や国民の多くが判断した結果です。

しかし、「日本だったら、一度できてしまった独裁体制を解体するのは簡単でない」と私は思います。

じっさい、日本の戦時における「独裁体制」は、日本中のおもな都市が片端から空襲で焼かれて、原爆が2つ落とされ、米英やソ連の大軍が本土に攻めてくることが間近に迫るようになるまで、解体されませんでした。

ただし、「独裁体制の解体が困難」というのは、日本にかぎったことではないでしょう。

でも、当時のイギリス人にはできたわけです。「戦争が終わったんだから」ということで、当然のようにできてしまった。

しかし一方で、イギリス人はチャーチルの功績を非常に高く評価していました。だからこそ、死後は例外的な「国葬」の対象となった。しかしそれでも「役目が終わったらチャーチルだって退場させる」というわけです。

これは「民主主義の原則」をつらぬいたといえるでしょう。

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こういう国民性をなんといったらいいのか。とりあえず「冷静な原理・原則主義」とでも言っておきます。

それは民主主義的な政治の原理、民主的に決定された組織の原則や運営方針が、社会全体で強く共有されていて、簡単に崩れないということ。

「冷静な」というのは、状況や前提が変われば、それまで遵守してきたものも、あっさり変更できる柔軟性があるということです。

そういう「冷静な原理・原則主義」は、今回のエリザベス女王の葬儀をみるかぎり、今のイギリス人のなかにもある程度は生きているように思います。

「国王の葬儀は国の威信をかけた大行事なので、徹底的に計画・準備して成功させる」ことをつらぬいた。

そして「関係するさまざまな組織間の連携をはかる」「女王という最重要人物の意向を確認し取り入れる」ということも徹底した。それらを単なる「かけ声」「たてまえ」でなく、原理・原則としてほんとうに大事にしたのです。

また「本人の若いうちから葬式を計画する」「女王に自分の葬式の検討に入ってもらう」というのは、いかにも冷静で乾いた感じがします。

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近年は、イギリスのことをよく知る日本人からの報告では「この国は問題だらけで、日本人が殊更にあこがれたり、手本にしたりすることはない」とも、ときどき言われます。それは、ある面ではきっとあたっているのでしょう。

でも、イギリスほどの足跡を世界史に残した国は、そうはありません。そこには、私たちが学ぶべきことが、やはりいろいろあるように思います。

そこで大事なのは、まずその国の人びとの「すぐれた面」「成果を上げている面」をみることではないでしょうか。でも最近の私たちは「先進国意識」が強くなったせいか、そのような「学び」の精神が衰えてきているかもしれません。

 

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