そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

勉強というのは、結局は独学しかない

大人になってからの勉強は、結局のところ全部独学です。大人になったら、手とり足とり教えてくれる人は、もういません。書物や専門家といった情報のありかへ、自分で問いかけ働きかけていくしか、方法はありません。

勉強に必要な条件は、自分自身の意欲を別にすれば、ふたつだけです。必要な情報にアクセスできること、情報や意見を交換する仲間がいることです。

学校は、「情報」がアクセスしやすいように集まっている場所です。質問すれば先生は答えてくれるし、勉強する仲間が集まっていて、話ができます。

学校では「情報」も「仲間」も、たいした努力なしに手に入ります。そして設備や道具もそろっている。

だから学校は、行く値打ちがあるのです。行けるのなら、学校へは行きましょう。

そして会社などの職業の世界にも、学校のように「情報と先生・仲間がそろっている」ことがあります。

でも、情報や仲間が手に入るのは、学校や職場だけではありません。このふたつが手に入るのなら、学校などに行かなくても学ぶことができます。

本質的な問題は、「自分の勉強や研究を進めるのに、情報や仲間をどう確保するのか」ということです。

たとえば、本を読むこともそうですし、共通の関心を持つ仲間でサークルつくったりするのも方法です。私は、そうやってきました。

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しかし分野によっては、学校や専門的な職業の世界を離れてしまったら、必要な情報が入手できなくなる場合があります。

たとえば、自然科学の場合は典型的です。すぐれた科学者の多くは、若いころにすぐれた先生のもとでじかに教えを受けています。

科学の本や論文をいくら読んでも、科学者になるのはむずかしいです。

科学論文は、結論だけを簡潔に書いています。そこからは、結論にたどりつくまでの「ああでもない、こうでもない」というプロセスはわかりません。実験の具体的なノウハウもわからない。

でも、プロになるにはそのプロセスやノウハウを知ることが、どうしても必要です。

研究に必要なノウハウや発想は、先生が研究しているプロセスをそばで見たり聞いたりして覚えるしかありません。

でも、それはいわば「芸を盗む」ということで、きわめて主体的な行為です。「手とり足とり」ではありません。弟子入りしながら、本質的には独学をやっているのです。

やはり、勉強というのは独学しかないのです。

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ここで私が好きな、ある「独学者」の話をさせてください。その人は、学校に行かなくても著名な哲学者になったのです。

明治生まれの哲学者・三浦つとむ(1911~1989)は、家が貧しかったため思うように学校に行けませんでした。彼は、東京府立の工芸学校(今で言えば高校程度)中退という学歴です。

しかし、戦後の昭和期に在野の思想家として多くの著作を発表し、1989年に亡くなったときには、新聞にそれなりの記事が載るような著名な知識人になっていました。

彼は、昭和では今よりもはるかに多かった左翼系の知識人です。「言語過程説」という言語学の理論での功績や、「マルクス主義者としては世界的にも早くから(1950年代前半に)ソ連の独裁者スターリンを痛烈に批判した」ことで知られました。

「スターリン批判」というのは、今の時代だとなんのことだかわかりにくいので、少し説明します――当時(1950年頃)はソ連の社会主義にはたいへんな勢いがあり、西側(欧米・日本)の知識人にもスターリンの信奉者は多くいました。当時のスターリンは「共産主義という宗教」の「教皇」みたいなものでした。

そしてスターリンは、これも今の時代ではわかりにくいことですが、哲学や言語論といった学問的な理論を彼の名前で公表していました(実際に書いたのはソ連の御用学者ですが)。

これはスターリンが単なる政治指導者ではなく、人類を導く「万能の超人」であることを示そうとするものでした。そしてスターリンの理論は、世界中の左翼のあいだで最高の権威とされていたのです。

三浦はこの「教皇」「万能の超人」に論戦を挑んだ。それも「ある部分をとりあげてちょっとケチをつけた」などというものではなく、言語論などの分野で堂々と系統だった議論を行ったのです。

これはカトリックの世界にたとえれば、一介の神父がローマ教皇に神学論争を挑んだようなものです。つまり、ずいぶん無茶なことをした。

しかし、三浦のスターリン批判は内容がすぐれていたので、相当な反響や賛同を得たのでした。その後「スターリン批判」の動きは世界に広まっていきます。のちに三浦は、その先駆者として評価されるようになりました。

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つまり三浦は、当時の世界で「最先端」といえる理論的実力をもつ知識人だった、ということです。でも肩書としては「高校中退」の物書きにすぎなかった。

そして三浦は、このような理論的活動のほかに、一般向けの啓蒙的著作を多く残しています。本格的な理論と啓蒙的著作の両方で旺盛に活動したのです。

その一般向けの著作のなかには数十万部のベストセラーになったものもあります。彼が残した哲学や言語論の入門書の代表作は、今も新書や文庫で新刊として読むことができます。

私は高校生のとき、三浦の本で初めて哲学の世界に触れました。恩師にすすめられて、三浦の哲学書を読み始めたのです。

あのころ、三浦の本を読んでいて、「自分にも哲学の本が読める、読んで一応わかる」というのが、とてもうれしかったのを憶えています。ほかの本は、私にはむずかしすぎました。

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三浦という人は、どうやって勉強したのでしょうか。

まず、若いころは貧乏であまり本が買えなかったので、書店で立ち読みして、短時間で必死に頭に入れたそうです。昔(戦前)は、図書館が発達していなかったので、仕方なかったのです。

それから、少し変わった仕事をしていました。ガリ版(コピーが普及する前に一般的だった簡易な印刷方法、その原版)作成の内職です。

それも、東大の講義ノートのガリ版をつくっていました。まじめな学生が書いた講義のノートを何冊か集めて、それを集約した参考書のようなものをつくる。そうやって、東大の講義をふつうに受ける以上の知識を身につけた。

また、三浦の「文章家としてのデビュー」も、かなり「異端」なかんじです。

三浦が若いころに通っていた映画館で、毎週発行していたミニコミ誌のようなチラシがあり、彼はそこにしばしば投書していました。その投書がいつもすばらしいので、映画館主が、彼に原稿を依頼した。そして毎号、映画の短評を書くようになったのが、彼の「デビュー」です。

三浦の生い立ちや勉強のことを初めて知ったとき、若い私は「そんな人が、この世にいたんだ」と、感動しました。そして、「独学」というものにあこがれを感じるようになっていきました。

最初に述べた「勉強というのは、本質的には独学しかない」というのも、三浦が述べていたことです。

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