この世界には、それを知ると「頭が良くなるコトバ」というものがあると思います。その言葉を通じて、ものごとをより深く・的確に考えることができるようになるのです。
その言葉の代表格に「抽象」があります。それと対をなすのが「具体」です。
まず例をあげましょう。つぎの例においては、最初にあげたものが最も具体的で、後にいくほど抽象的といえます。
目の前のこのみかん→温州みかん→みかん→柑橘類→くだもの→青果→たべもの
「抽象」とは、さまざまな事物のあいだの共通性をすくいあげてイメージ・概念を形成することです。その共通性が、幅広い対象を含むものであるほど、より「抽象的」であるといえます。
これに対し「具体」とは、個別的なものごとのありかたです。目の前の個別的なものに近いあり方ほど「具体的」といえます。
そして具体的なものほど、映像的に思い浮かべやすいです。一方、抽象的なイメージ・概念は、かたちのない、映像化しにくいものです。それは目に見えない世界といっていい。
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「具体」と「抽象」は、つねに程度・レベルの問題です。絶対的に抽象的(あるいは具体的)な概念や説明というのは、ありえません。程度の問題として「抽象性(具体性)のレベルが高い・低い」ということがあるだけです。
そこで「抽象(性)のレベル」という言葉も重要だと思います。
とはいえ、私たちが使う言葉のなかには、「抽象の極致」といえるようなものもあります。たとえば「存在」「関係」「属性」などはそうです。
あなたは「存在」よりも抽象的な何かの概念(「みかん」に対する「柑橘類」や「くだもの」のような何か)を思いつきますか?
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私が「抽象」という言葉を最初にきちんと知ったのは、高校生のときのことです。
哲学の初歩を述べた本や、その本を教えてくれた先生からでした。そして「抽象と具体」のほかに「現象と本質」「相対と絶対」「基本と応用」「量と質」などの重要概念についても教わりました。
この先生(当時30代半ばくらい)は、学校の教員ではなくOBとして部活(剣道部)で指導していた人でした。剣道部のコーチなのに、なぜか部活のミーティングでそれらの概念のことを高校生に力説したりしていた。
もちろんそれに違和感を持つ仲間の部員もいましたが、私はそういう話を聞くのが好きでした。
これらの重要な概念を通して、世界がより深く・鮮明にみえてくる感じ、自分の思考が高度化していく感じがしてワクワクしたのです。そしてその後の私は、こうした「概念」なしでものを考えることはできなくなった、といっていいです。
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ではそのような「概念」によって、何がどうみえてくるのか、つまりその概念が何の役に立つのか? この記事ではとても説明しきれないので、それは別の機会に(すいません)。
ただほんの少しだけ述べると、たとえば人は抽象による「共通性」の認識がなければ、ある経験をほかの場面で生かすことができません。過去の経験、他人の経験に学ぶこととは、「あの場面」と「この場面」の共通性の認識に基づいているのです。
そして、ある説明や方針(それはつねに一定の抽象性を含んでいます)を具体的な自分の問題に適用することも、抽象的な概念の扱いが関わっています。
抽象・具体の世界を上手に扱える人は、学習能力が高いといえるでしょう。
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「抽象」のような重要概念は、まぎれもなく「頭の良くなるコトバ」だと思います。
学問的な人たちは当然のように使っていますが、実務的な世界の賢い人たちも、このコトバを口にすることはなくても、あるいは知らなくても、やはりものを考えるときにこの概念に近いものを駆使しているのだと、私は思います。
そこで、こうした「頭が良くなるコトバ」(ここにあげただけではない)について、初心者向けに系統だって説明する入門書のようなものをいつか書きたいと思っています。
ただし、そういう方面の仕事・著作は先例があります。そもそも哲学者たちが伝統的にテーマとしてきた世界ですし、最近のビジネス書でも扱われていることがあります。
たとえばコンサルタントの細谷功さんの著作(『具体と抽象 世界が変わって見える知性のしくみ』発行:dZERO・発売:インプレス など)はまさにそうですし、すぐれた仕事だと思います。
だから、そうした先人の仕事に対し自分なりの新しい・意味のある何かを加えられるかどうかが課題です。むずかしいかもしれません。まあとにかく研究していきたいです。
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