オウムによる地下鉄サリン事件から30年。
私は当時若いサラリーマンで、仕事の傍ら哲学や歴史の本を読むのが、大事な生きがいや逃げ場でした。一応は会社生活になじんでいましたが、違和感もかなり感じていました(のちに40代の時、私は起業するために会社を辞めています)。
そんな私にとって、あの事件は大きな関心をひくものでした。とくに「有名大学出身者などの、かなりのエリートたちが、なぜあんなカルトにひっかかったのか?」ということは気になっていました。
その問いに対しては、いろんな説明があり得るでしょうが、20年数年前の私が仮説的に考えたのは、要約するとつぎのようなことでした。
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カルトの魅力のひとつに、一応は体系だった世界観を与えてくれるということがある。教祖の立てた原理がまずあって、そこから世界のいろんなことを説明していく。さまざまな悩みについて、示唆もあたえてくれる。
そのようなカルトの「説明力」は大きな魅力である。ただし、どの程度手の込んだ、説得力のある「体系」をつくれるかは、場合によるが……
一方、学校教育は体系だった世界観をなかなか与えてくれない。
高校の教科書をみると、すごい分量の知識が詰まっている。その知識を消化してまとまった世界観を得るのは、非常にむずかしい。たとえば世界史の教科書をみても、出てくる事件や人名が多すぎて、世界史の全体像はなかなかみえてこない。
大学に行っでも、状況は変わらない。多くの講義は担当教官の専門に関する限定された範囲のことだけ。「世界は全体としてどうなっているか」「人間とは何か」といった大きな問いにはなかなか答えてくれない。
それが学校への不信にとどまらず、授業内容の源泉である科学や学問そのものへの失望につながることがあるはずだ。
まじめで思いつめやすい人は、とくにそうなるかもしれない。失望して、世界観を与えてくれる教祖様にひかれる人もいることだろう。科学や学問の代用品に走るのである……
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でも、少し勉強すればわかるはずですが、そんな代用品よりも、本物の科学や学問が描き出す自然や人間や歴史のほうが、ずっと奥が深くて魅力的です。そのことをわからせてくれる教育や発信がもっと必要だと思っています。
私は、世界史の入門書を出版したことがあります(『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫)。それは「世界史の全体像を初心者にもわかりやすく伝え、より本格的な歴史の学びへの橋渡しになるものを」という思いで書いたものです。つまり、上記で考えた「必要」にこたえようと、ささやかに取り組んだのです。
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そして、ご存じのように、今の時代には、カルト的なものの浸透力・影響力は、インターネットによってさらに強くなっているわけです。
たとえば「陰謀論」というのは、まさにカルト的な体系をもっており、インターネットというメディアによっておおいに力を得ました。
また、「体系」というほどのものでなくても、個別的な事柄について「根拠があやしいが、わかりやすく感情的に飲み込みやすい説明」が、どんどん発信されている。
今の社会では、ニセモノの「説明力」が、すごく大きな力を持ってしまいました。少なくとも、力を持ちやすい条件があることはたしかです。
カルト的な説明力の魅力に対し、私たちはほんとうに用心しないといけないのでしょう。
そういう状況ですので、以上で述べた、地下鉄サリン事件の頃に若い私が考えた、以上のような問題意識(カルトの説明力という魅力にご用心)は、今も古くなっていないと思っています。
