先日、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書、2019年)を読みました。岩波新書の近年のヒット作。部分的には以前に読んでいたのですが、きちんと通読したのは最近です。
この記事は、「独ソ戦って何?」あるいは「聞いたことはあるが、ほとんど何も知らない」という方のための、この本(『独ソ戦』)の紹介・解説です。
そもそも「独ソ戦」とは、第二次世界大戦に行なわれた、つまり第二次世界大戦の一部をなす、ナチス・ドイツとソ連の戦争のこと。
もともとは両国の間には不可侵条約(お互いに攻め込まない約束)があったのですが、ドイツがこれを一方的に破って300数十万人もの大軍でソ連に攻め込んだ。1941年6月のことです。
当初はドイツが優勢でしたが、ソ連は徹底抗戦。戦いは1945年まで続き、最後はご存じのようにドイツが敗退しました。
独ソ戦におけるソ連の犠牲者は、軍人・民間人あわせて2700万人。ちなみにアジア太平洋戦争における日本人の犠牲者は、軍人・民間人の合計で310万人です。第二次世界大戦で最も多くの犠牲を出した国はソ連だったのです。
そしてこの犠牲者数は、戦闘によるものだけではなく、ドイツが侵攻・占領した地域での民間人に対する殺りくの結果です。
著者の大木さんは本書の冒頭で“この戦争は、あらゆる面で空前、おそらくは絶後であり、まさに第二次世界大戦の核心、主戦場であった”と述べていますが、まさにそうだと思います。
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だから、第二次世界大戦、あるいは現代史を理解するうえで、独ソ戦について知ることは欠かせないでしょう。
しかし、これまで日本では「独ソ戦についてまとまった知識がある」という人は限られていました。現代史や戦争について深い知識のある人、あるいは「ミリオタ」(ミリタリー・オタク、軍事や兵器のマニア)などの、特殊な少数派だけでした。
しかも、大木さんによれば、一部の専門家を除いて、日本人の独ソ戦理解は、時代遅れになっているそうです。
“一九九一年のソ連崩壊によって、史料公開や事実の発見が進み、欧米の独ソ戦研究は飛躍的に進んだ。日本との理解・認識のギャップは、いまや看過しがたいほどに広がっている”とのこと。
そして、今の日本では“独ソ戦をテーマにした文献は、ほとんどアカデミシャンが読むだけの専門書と、一般向けの戦記本(一九七〇年代の水準にとどまったものが少なくない)に二分された”状態なのだそうです。
そこで本書は、独ソ戦について、現代の欧米における学問研究を踏まえ、新書という幅広い一般読者のための媒体でその概要を伝えることを意図した、というわけです。
このような意図を、本書はたしかに実現していると思います。
そして、軍事史・戦史的な情報だけにとどまらず、戦争にかかわるイデオロギー(ナチズムといわれる)を視野に入れ、この戦争の本質を論じています。
そこで、戦記本の読者だけなく、戦争と平和の問題など、社会全般に関心のある人たちにも訴える内容になっているのです。
では、本書が伝える「独ソ戦に関する理解」でとくに重要なことは何か?
それは素人の一般読者にとっての重要事項ということで、軍事史的な関心とはやや異なります。私はそのような一般読者のための視点を重視します。
だから、本書のなかで力を入れて論じているつぎのような軍事史的な論点は、あまり重視しません(以下、私なりのまとめ)。
「ソ連への侵攻はヒトラーの意志だけで強引に実行されたのではなく、ドイツ国防軍(つまりプロの軍人たち)も積極的に考えていたことだ」
「ドイツ軍は、俗流の戦記で言われているほど知的な戦い方をしていたわけではない。そしてそれは、ヒトラーのせいで軍人たちが力を発揮できなかった面もあるが、それよりも指導的な軍人たち自身の力不足・限界によるところが大きい」
「一方、ソ連軍は強引な動員による物量作戦だけでなく、的確な戦略・作戦に基づいて動いていたことにも注目すべきだ」
これらについては、重要なことだとは思いますが、私はそれほどは興味をおぼえませんでした。個々の将軍、軍事作戦の評価といった、さらに個別的な事項についてはなおさらです。
そして、多くの一般読者のかなりの人たちも、そこにはあまり関心がないはずです。
そもそも、かなりの読者(戦記本の読者ではない人たち)は、専門家である大木さんがぜひとも批判すべき対象としている古い通説や俗論について、もともと何にも知らないはずです。だから「通説や自分のこれまでの認識がくつがえされた」という感動や興奮はない。
そして、それでいいのだと思います。
また、いろんな地名や人名、出来事がでてきてアタマに入りきらないという人も多いかもしれません。本書はたいていの戦史の本よりも、情報を読みやすく整理してくれているとは思いますが、限界はあります。
しかし、そういう「個々の事柄が頭に入らない」感じも気にしないことです。
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この本を一般読者が読むときには、大きく現象をとらえ、大きなメッセージを受け取ろうとすることをおすすめします。
では、本書における「大きなメッセージ」とは何か。それは終章「『絶対戦争』の長い影」でまとめられている議論ではないでしょうか。
つまり、戦争には「通常戦争」といえる、ある程度の合理性をともなうレベルのほかに、「収奪戦争」という、敵を徹底的に搾取・支配する過酷な戦争のあり方、そして敵を皆殺しにしようとする「絶滅戦争」という究極の次元もあるということ。
独ソ戦は、当初はそれらの3つの次元が平行したかたちで進められていた。しかし、しだいに(ドイツ軍の優勢が危うくなるにつれ)収奪戦争と絶滅戦争の比重が高くなっていった。
さらに末期には通常戦争的な要素は、ほかの要素に飲み込まれて「絶対戦争(絶滅戦争を突き詰めた最悪の戦争)」に転化していった……そのように大木さんは述べています。
もちろん、以上の抽象的なまとめだけでは、十分には伝わらないでしょう。しかし本書で独ソ戦の具体的な経緯に触れたあとなら、この説明はずしんと来るのではないかと思います。
つまり、本書の最大のメッセージは、「第二次世界大戦の核心には“絶滅戦争”といえる要素があった」ということです。
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「絶滅戦争」とは、私なりに(大木さんが本書で論じていることなどをふまえ)定義すればこうです。
「人種差別的偏見を強固かつ系統だった世界観にまとめあげ、その世界観に基づいて“劣等”とする民族・国民を徹底的に奴隷化するか、滅亡に追い込むまで殺戮することを達成すべき“理想”として行う戦争」
このような戦争を、ナチス・ドイツはポーランドやソ連といったスラブ民族が主流の国ぐにに対し実行したのです。
ナチズムといわれるヒトラーが主導した思想では、スラブ人は抹殺や奴隷化の対象である「劣等民族」でした。そしてユダヤ人は、「劣等民族」のなかでさらにひどい位置づけだったのです。
そこで、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)は、スラブ人への「絶滅戦争」とともに行われた、ナチズムの体系の一部をなすものだったといえるでしょう。独ソ戦とホロコーストは、つながっているということです。
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そして、この「絶滅戦争」という概念を、独ソ戦の概要という具体的事実をもとに考えさせてくれるのが、本書の特徴です。
「絶滅戦争」という概念じたいは、ヒトラーやナチズムを論じた本や、その他の第二次世界大戦についての論考でも、それなりに述べられてはいます。しかし、独ソ戦という巨大な出来事の、その始まりから終わりまでを一通り俯瞰してからだと、理解に厚みが出るはずです。
そして「第二次世界大戦の核心に“絶滅戦争”がある」ということは、理解がかなりむずかしいのではないでしょうか? これは自分の経験としてそう思うのです。
私は大人向けの世界史入門の著作があり、世界史入門のセミナー活動も行っています。そこで参加者の方たちとお話するなかで、「絶滅戦争」の概念を伝えることの困難を感じることがあります。その概念が、あまりに良識とかけ離れているから、そうなるのでしょう。
たとえば、ナチズムの人種差別思想について説明したところ、「人種差別は英米にもあるし、そちらのほうが元祖では?」といった話が出たことがありました。
「戦争というのは、どんなものであれ絶対的な悪でしょう?(絶滅戦争や通常戦争といった区別に何の意味があるのか)」と戸惑う人もいます。
これは講師役の私としては「かみあわないけど、どうお伝えしようか……」と悩む場面です。
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たしかに、人種差別は英米にも(その他の国にも)あることです。しかし、ナチズムの「人種差別」は、それらとはやはり異質の次元にあると、私は思います。
その強固な観念に基づく体系性は独特のものですし、それが巨大な戦争の動機や指針になったという点でも、特異なものだと思います。いわゆる・一般的な意味での「人種差別」は、数千万人を殺戮する戦争の動機にはならないはずです。
たしかに一般的な人種差別とナチズムの人種差別は、つながっているのでしょう。通常戦争と絶滅戦争も、つながっているはずです。
その一方で、両者の異質性・次元が異なる面を理解しなければ、あの戦争の真の恐ろしさはみえてこないように思うのです。「つながっている」ことは「同一である」あるいは「その延長線上にある」のとはちがう。
しかし、そのような異質性の理解のベースになる概念は、抽象的な説明だけでは伝わらない……
そこで、本書『独ソ戦』です。本書は、具体的な一連の事実を通して「“絶滅戦争”を核とする第二次世界大戦」という理解・イメージを、多くの人にもたらしてくれる本です。
また、そのように読むことをおすすめします。そのように本書を読むことで、戦争とは何か、その恐ろしさ、といったことへの理解はきっと深まるはずです。
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