そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

なぜ古代ギリシアで民主政が生まれたのか・さまざまな条件が重なった例外

昨日の当ブログの記事は「古代ギリシアのアテネの民主政が、驚くほど高度に発達したものだった」というものでした。

アテネの民主政のことは学校で習うので、私たちは「知っているつもり」になっている。

しかし、多少突っ込んでその制度などを調べると、じつに手の込んだ、考え抜かれたものであることがわかる。そして、そこには市民のあいだの平等を徹底しようとする原理・原則が貫かれている……

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その記事に対し、はてなブログのお仲間である「とびまる」さんから、早速つぎのような感想・質問をいただきました(記事のコメント欄より)。

“読んでいて疑問だったのが、「(制限はあるにしても)なぜこの制度が成立したのか?」でした。世界史専門ブログのほうで経緯を読んで腑に落ちましたが……(中略)……暴君の経験がそこまで集団の広がりを作れるものなのか、他にも要因があったのかは気になりました。
単純比較はできませんけど、投票率や政治参加につながるヒントがあるのかもしれませんね。”

ありがたい、重要な問いかけのコメントです。

なお、「世界史専門ブログ」というのは、私がはてなブログで別に運営しているもので、そこにアテネの民主政についてのより詳しい記事があるのです。

その記事では「民主政が完成する以前に、アテネでは民衆の支持をもとに暴君が生まれ、大きな害悪をなした(まるで近現代史のファシズム)」「のちのアテネでは、その反省に立って権力の集中を防ぐさまざまな制度設計がなされた」という主旨のことを述べています。

しかし「それだけではないだろう」と。私も、まさにそうだと思います。

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このとびまるさんのコメントに対し、コメント欄で返信させていただいたのですが、この場でそれに補足して述べたいと思います。以下、私のコメントを大幅に補足・改訂したものです。

頂いたご質問をきっかけに、以前から考えていたことを、はなはだ不完全ですがある程度文章化できました。そのようなきっかけをいただき、深く感謝しております。

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(以下、私からの返信コメント)

とびまるさん、ありがとうございます。重要な疑問・ご質問だと思います。

「古代ギリシア、とくにアテネの民主政はなぜ生まれたのか」というのは、たとえば「イギリスの産業革命はなぜ起こったのか」と同じような、世界史の大問題ではないでしょうか。

そして、こういう大問題は、大きな歴史の流れをみていくしかないように思います。

まず、古代ギリシアの文明は、隣接する西アジア(古代オリエント)の先進文明の影響を受けて成立・発展しました。

西アジアとは、「文明発祥の地」とされるメソポタミアやエジプトのほか、その周辺のシリア、アナトリア(トルコ)、ペルシア(イラン)などをふくむエリアのことです。

古代ギリシアの文明の起源は、紀元前2000年頃にまでさかのぼります。しかし、その段階で栄えた都市や王国(エーゲ海を中心とする)は、紀元前1100年代に滅亡してしまいました。

その原因はよくわかっていませんが、この時期に西アジア各地でもさまざまな国家・文明の崩壊が同時多発的に起きています。

そしてその後何百年ものあいだ、ギリシア史では「暗黒時代」といわれる、社会がリセットされる混乱の時代が続きました。

その後、紀元前700年代になると「ポリス」といわれる都市国家が成立して安定するようになり、いわば「新生」のギリシアの文明が成立しました。これが私たちになじみのある「古代ギリシア」です。

そしてこの新生のギリシアは、一度文明社会がリセットしたあとに成立したので、若く未成熟な社会だったのです。

ポリスの時代の初期のギリシア人は、海をはさんで向こう側のエジプト、アナトリア、シリアなどの西アジアからさまざまな技術・文化・学問を吸収しました。

貿易での交流、ギリシアからの留学、西アジアからの技術を持つ人びとの移住、ギリシア人が傭兵としてエジプトに出稼ぎに行ったことなどを通じて、ギリシア人は当時の先進文明に積極的に学び、急速に発展していったのです。

古代ギリシアとその周辺(斜線はギリシア人のおもな居住地)

 

その結果古代ギリシアは、当時の世界における新興地域として、比較的未成熟な・平等性の高い状態のまま、高度な文明社会を実現しました。

これは、先進国を後追いして急速に発展したので、そうなったのです。外部のすぐれた成果に学んで後追いするのは、短期間で成果を上げやすいです(近現代の日本の近代化も「後追い」で急速にすすみました)。

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ここはひとつのポイントではないかと思います。「内部での平等性が高い(その意味で未成熟な)高度文明社会」というのは、世界史上では例外的なものです。

当時の(前近代の)文明社会は、高度に発達すれば、その結果として西アジアや中国の専制帝国のように、少数者に富と権力が極端に集中する超格差社会になるのがふつうでした。古代ギリシアは、それらとは異質な類型だったのです。

一方、文明が未発達な社会では、人びとの格差は小さく、平等性は高いのが一般的です。そして、そこに一定の民主主義がみられることも少なくない。

しかし、そういう社会が文明化して国家を形成した場合、発展するにつれてほとんどは専制的な格差社会になっていく。古代ギリシアのように「高度の文明社会なのに、平等で民主的」というのは、やはり珍しいのです。

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ポリスの時代の古代ギリシアにも、もちろん格差はありました。しかし、西アジアにあった格差に比べれば、はるかに小さなものでした。

たとえば、ポリスの最盛期(紀元前400年代)よりもやや後の時代ですが、こんなことがありました。

紀元前300年代後半にアレクサンドロス大王(当時ギリシア世界を支配していたマケドニア王)の軍勢が、西アジアの大帝国だったペルシアの王朝を滅ぼしたときのこと。ギリシア世界の住人であるマケドニア軍の司令官が、君主のいなくなったペルシアの宮廷で、残っていた料理人に命じ、ペルシア王たちの食事をつくらせてみた。

すると、質素に暮らしている自分たちからみれば異様なほどの、沢山の豪華なメニューが並んだ。このときの司令官はギリシア社会では上流のエリートですが、彼からみても、ペルシアの宮廷のぜいたくは途方もないものでした。

つまりギリシア人の社会は、ペルシアと比べればはるかに格差が小さい平等社会だったのです。

このような社会が、地理的な位置関係などによってギリシアに生まれたのです。

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そして、これも地理的なことが作用していますが、数多くのポリスが並立して切磋琢磨しあう環境も、大きな意味があったでしょう。

またそれらのポリスの多くは、さまざまな情報や刺激を得てそれを活用する機運のある、海洋・商業国家でした。

ポリスのあいだでは対立や戦争も多くありました。しかし、ポリスのあいだには価値観・文化で共通の基盤があり、深い交流に基づく切磋琢磨が続いたのです。

それらのポリスが、経済・文化などの文明の諸要素を発展させるとともに、社会の構成員のあいだの平等性を比較的保ったまま、平等性を原理とする政治制度も発達させていった。

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その一方、アテネでは人口の2~3割を占めた奴隷に、つらい労働をいろいろと押しつけています。奴隷制度の発達と、市民をはじめとする奴隷以外の人びとの自由や権利の拡大は、古代ギリシアではオモテとウラの関係にあると思います。

ただし、ギリシアのポリスのあいだの切磋琢磨で生まれたものにはいろんな方向性があって、アテネ的な民主主義のほかに、たとえばスパルタ的な社会主義・全体主義的な「平等国家」もありました。

数多くのポリスがいろんな方向で発展するなかで、アテネというひとつの「頂点」が生まれたのだと思います。

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以上のような説明だけでは、抽象的で説得力が足りないとは思います。

ただ、「アテネの民主政はなぜ生まれたか」は、「これとこれの要素や原因があったから」という感じでスパッと説明できるものではないと、やはり思います。大きな歴史の流れからみていくことが必要なのでしょう。

そして、「現代政治の投票率や政治参加につながるヒント」を、以上の考察から得られるかというと、私にはよくわかりません。

ここで述べた大きな歴史の動きよりも、アテネの政治の具体的なあり方やエピソードのほうが、現代へのヒントがあるようにも思います。

ただ、大まかな話として「民主主義は、人間社会においてさまざまな条件が奇跡的に重なってはじめて成立する、例外的な制度である」ということは言えると思います。

現代を含む歴史上のほとんどの社会にとって、これを定着させ、維持していくのは簡単ではないはずです。

しかし、だからといって「民主主義は人間や社会の本性から外れている、否定されるべきだ」というのは、まちがっていると思います。価値あるものは、維持するのが難しくて当然です。

なお、以上にかかわる「古代ギリシアと古代オリエントの関係」「古代ギリシアの文化・技術的達成」については私の世界史専門ブログで2~3の記事があります。ただ「アテネの民主政の成立」を直接に説明したものではありませんが、ご覧いただければ幸いです。

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