ロシアによるウクライナの侵攻は、日本がかつて中国で行った戦争に似ていると、最近思うようになりました。
つまり、満州事変(1931~1933)およびその後の日中戦争(1937~1945)の経緯は、今のウクライナの戦争と共通性があるのではないか。なお、満州事変は「日中戦争の前段階」といえるでしょう。
まず、侵略・侵攻を行った国の「世界での立ち位置」が似ています。戦前の日本も今のロシアも、世界で指折りの軍事大国でしたが、経済力・技術力は今ひとつ。
1930年頃の日本は、アメリカ・イギリスに次ぐ世界第3位の規模の海軍を持っていました。しかし、石油や鉄などの重要な資源の多くを、アメリカやイギリスの植民地に依存していた。技術や産業も、アメリカやイギリスにはとてもかなわなかった。
これは、今のロシアと似たところがあります(ただし、ロシアは資源大国だというちがいはあります)。
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ウクライナ侵攻や、日本による中国の満州や華北などへの侵攻は、どちらもアメリカなどの覇権国が仕切る国際秩序への挑戦でした。
そしてその「挑戦」の動機となる世界観も、かつての日本とロシアのあいだには共通性があります。
どちらの考え方も「周辺国を支配下において大きなブロック(支配圏)をつくることで、覇権国に対抗する」ということです。
ただし、ちがいもあります。かつての日本の場合、資源小国だったので、満州や華北などの中国、さらには東南アジアを支配することで「自給自足の経済圏」をつくることが重要な意味を持っていました。
これに対し今のロシアの場合は、自給自足ということよりも、軍事的なブロックをつくりたいという動機が強くあるようです。
しかし「ブロック」をつくる発想は、どちらにも共通しています。その発想にとりつかれてしまった、といってもいい。
「ブロックをつくらないと、覇権国(アメリカなど)に従属させられて、主権を失ってしまう」という世界観が、満州事変にもウクライナ侵攻にも強く作用しています。
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そして、侵攻が始まって戦争が拡大し、泥沼化していく過程も、かなり似ています。
まず、どちらも侵略を受ける国の「周辺地域」への侵攻から始まったこと。
2014年にロシアが占領したクリミア半島は、長いあいだ(1700年代から1950年代まで)おもにロシアの支配下にあったので、ウクライナでは「周辺地域」という面があります。日本が中国で侵攻を開始した満州も、中国では「周辺地域」です。
そして「周辺地域」は、優位な大国がその気になれば、かなりあっさりと占領できてしまうものです。侵略を受けた側の危機感や抵抗が比較的かぎられるからです。だから国際社会も、結局はその侵攻・占領を黙認してしまう。
近年のクリミア半島占領は、まさにそうでした。
満州事変でも、日本軍は比較的容易に広い範囲を占領してしまいます。そして傀儡国家の「満洲国」を当時の中国政府に認めさせた。国際社会は非難したが、断固たる措置をとったたわけでない(日本と戦争になるのは避けたい)。結局、「満洲国」は既成事実化していきます。
これは、やはりクリミアの件と似ていませんか?
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そして「周辺地域」の占領から数年経って、侵略を受ける国の「本体」「中核地域」への侵攻が始まったということも、ウクライナの戦争と日中の戦争の共通点です。
これは数年のうちに「周辺地域だけでは、足りない」「その国の全体や中核地域をおさえることが、自分たちの構想を実現するうえで欠かせない」という方向に傾いていった、といえるでしょう。
満州を占領した日本(とくに軍部)は、「やはり華北もおさえないと満州を守れない」と考えるようになっていきました。
また「満州よりも資源が豊富で大きな市場でもある華北を支配したい」という欲望も、日本の支配層の間で大きくなっていった。
プーチンのロシアは「ウクライナ全体をおさえないと、NATO(≒アメリカ)の脅威を防げない」という思いを強くしていった。
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そして、「侵略の対象である相手への低評価」ということも、かつての日本と今のロシアの共通項です。
当時の日本の軍人のなかには「中国は弱いから、一撃を加えればすぐに屈服する」という者が少なからずいました。そして、プーチンのロシアは「ウクライナの軍事作戦はきわめて短期で完了する」とみていた。
しかし、日本もロシアも相手の頑強な抵抗にあって苦しむことになりました。つまり、戦争が泥沼化していった。
こうなったのは、日中戦争でもウクライナの戦争でも、自国の中核的な地域への侵攻に対し、危機意識が高まって結束したことが大きいです。
また、侵略を受ける側の政府が「周辺地域」を占領された経験に学んで、軍事力の充実を図って備えていたことも重要でした。
しかし、侵略する側は「前に(満州で、クリミアで)戦ったときには弱かった」というイメージが抜けないので、侮っていたわけです。
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そして「指導者や政府(蒋介石の国民党、ゼレンスキー政権)も、たいした力量ではないし、国民も支持していない」という当初の見立ても、全面戦争が始まって侵略を受けた側が「徹底抗戦」の構えをみせると、成立しなくなってしまいました。
蒋介石もゼレンスキーも、全面戦争の前には国内でも国際社会でも評価は高くなかった。しかし、「侵略と戦う勇敢な指導者」「正義や自由を守る英雄」になっていった。
そのイメージの形成に、アメリカなどの覇権国側のメディアが大きな影響をあたえたことも、日中戦争とウクライナの戦争で共通しています。日中戦争でも、そのようなメディアの報道が大きな意味を持っていました(とくに写真の影響は大きかった)。
そして、日中戦争でもウクライナの戦争でも、侵略を受ける側へのアメリカなどによる支援が、戦局を左右するきわめて大きな要素だったことも共通しています。
どちらの戦争でも、アメリカ(日中戦争ではイギリス、ソ連も重要)は、参戦はしないものの、侵略を受けている側を軍事的におおいに支援しました。この支援が侵略と戦う側にとっての大事な「命綱」だった。
そういう状況を、ウクライナの戦争で私たちは今まさにみていますが、それは日中の戦争でもあったことです。
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どうでしょうか? 時代や国がちがうので、当然いろんなちがいはあるでしょう。しかし、「時代や国がちがうのに、これだけ似たところがある」ともいえる。
おそらく、かつての日本や今のロシアの行動は「既存の国際秩序に反発する軍事大国が暴発するとき」の典型的なパターンを示しているのだと思います。
だから、満州事変や日中戦争のことは、今後のウクライナ情勢を考えるうえで参考になるはずです。
では、日中戦争が泥沼化した後の日本は、どうなったか?
日本は、今のロシアが受けているようなアメリカからの経済制裁が一層厳しくなり、資源小国だけにおおいに苦しみました。そして、アメリカから「石油も売らない」と言われて非常に追い詰められると、さらに暴走していった。1940年から1941年にかけてのことです。
やがて日本の指導層のあいだでは「東南アジアの資源(とくに石油)を手に入れて、事態を打開しよう」という考えが有力になっていった。
そしてその計画は、1941年12月に実行されます。また、東南アジアを攻めるにあたって、脅威となりうるアメリカ海軍を封じ込めるため、ハワイの真珠湾の米軍基地に対する奇襲攻撃も、同時に行なわれました。
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こういう日本の行動から、つぎの教訓が引き出せるかもしれません。
ひとつは、「侵略者側の国は、簡単にはあきらめない」ということ。常識では考えられないほど、頑なであり続ける可能性があるということです。
もうひとつは、侵略国に対するアメリカ(覇権国)の対応の「さじ加減」の重要性です。
日本が対米戦争にふみきったのは、たしかに日本の暴走ですが、アメリカの日本への対応にも粗雑で硬直した面があったと、私は思います。そして、そういう「ミス」はアメリカ自身にとっても大きな不利益を生んだ。
この手の「ミス」を今回のロシアに対して犯さないことが、アメリカや世界にとって大事だと思います。「この際ロシアを徹底的につぶしてしまおう」なんて考えてはいけない。
それにしても、本当にむずかしい問題です。過去の歴史的経験もあるのに、この難問をまだ人類は克服していない。でも「日中戦争のときよりは、人類も賢くなっている」と信じたいです。
参考文献
私そういちの世界史専門ブログの、このテーマについてのより詳しい記事。この記事の2~3倍の分量で、またちがった書き方をしています。
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