そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

計量カップの考案者・香川綾という昭和の巨人

あなたは、台所で使う「計量カップ」や「計量スプーン」(大さじ・小さじ)を生み出したのが、日本人であることを知っていますか? 

それらは、医師で栄養学者の香川綾(かがわあや、1899~1997)が、1948年頃に考案したものです。3月28日は彼女の誕生日です。

香川は、カンや目分量に頼っていた料理の世界に、分量や時間を数値で計ること(計量化)を持ちこみました。「調味料などを計量化すれば、初心者でも名人の味をかなり再現できる」というのです。

「誰もが美味しい料理をつくれるようになれば、人びとの食生活が向上し、健康の増進につながる」と、彼女は考えました。

この香川の業績は、テレビで紹介されることもあります。しかし、彼女は「計量カップ・スプーンの発明」だけで片づけられる人物ではありません。

香川の自伝と娘の香川芳子による評伝などを読んだことがありますが、香川綾という人は「昭和の巨人」の1人だと、私は思います。

彼女は栄養学という20世紀の新しい科学の、日本での開拓者であり、社会運動家・教育家・学校経営者でもありました。

私たちの生活を改善する、ある種の総合的な科学の創始者で、その実践者なのです。

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香川は、東京女子医専(今の東京女子医大)で学び、医師となりました。しかし卒業後は臨床にはすすまず、東大の島薗順次郎教授の門下となって研究の道へ。

島薗は脚気の原因であるビタミン(B1)不足の研究を行うなど、栄養学に基づく予防医学の第一人者でした。やがて香川は島薗の導きで「栄養と料理」をテーマとする研究を始めました。女性の科学者は皆無だった昭和初期(1920年代)のことです。

「栄養バランスのよい、しかも美味しい家庭料理を普及させ、人びとの健康を増進する」ことが彼女のテーマでした。そのために栄養学とともに「料理の科学」を探究したのです。それは当時、先例のない研究でした。

たとえば、和洋中の一流の料理人の協力を得て料理をつくってもらい、「素材や調味料を何グラム使い、何分加熱しているか」などを計測して、膨大なレシピのデータベース(紙のカードに書いたもの)をつくる。そしてこれを栄養学的に分析する。

そうやって栄養と美味しさを兼ね備え、家計も考慮した献立を提案したのです。

また、栄養学や料理を学ぶ学校を設立するとともに、今も続く雑誌『栄養と料理』を創刊。彼女の学校は、最初は自宅で始めた料理教室でしたが、やがて本格的な専門学校になりました。さらに、栄養の知識を普及する民間組織も創設しています。社会への情報発信と教育・啓蒙の活動を、組織のリーダーとして行ったのです。

以上はおもに昭和の戦前期の、彼女が30歳頃~40代のときの業績です。

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その後戦争で、彼女の学校は校舎を空襲で失うなど、大きな被害を受けました。しかし戦後に再建し、短大・大学(女子栄養大学)に発展していきました。

また「料理の科学」のための道具として、1948年頃に計量スプーンや計量カップを考案。これは従来のスプーンや升をもとに、メートル法(15cc、5㏄など)で規格統一したものです。

さらに1956年頃には、献立の指針となる食品分類「四つの食品群」(のちに四群点数法)を提唱。

この食品分類は実用性の高いすぐれたもので、高校のおもな教科書にも採用されました。欧米の通説に基づく旧文部省の見解は「六群」の分類ですが、それを押しのけてしまったのです。その分野の基礎的な「分類の枠組み」を築くのは、研究者として大きな業績です。

このように「計量スプーン」は、香川の仕事の一端にすぎません(ただし、彼女の精神を象徴するものではある)。

こうした彼女の仕事は、おおぜいの協力にささえられていました。医学者の夫・香川昇三(1945年に51歳で亡くなった)、彼女に共感する科学者や料理家、資金その他で支援した実業家、弟子や教え子、地域の人びとなどが、彼女をささえました。彼女の熱意と努力、そして人柄が多くの人をひきつけたのです。

そして彼女のもう一つのテーマは、社会における女性の活躍でした。

医師や科学者の世界で男女差別に苦しんだことは、彼女の出発点です。家事・子育てと多忙な仕事の両立は、つねに彼女の課題でした。

また、彼女の学校が育成する栄養士は「女性が多い専門職」の代表格のひとつです。栄養士の育成は「女性の自立」ともかかわっていました。

どうでしょうか。これだけいろんな要素がある大物なので、もっと知られるようになっていいはずです。たとえばNHKの朝ドラのモデルになる可能性もあるでしょう。

なお、「適切な食事で健康を守ること」については彼女自身もそれを実践し、80代の終わりまで、大きな病気をしたことはありませんでした。

1997年に98歳で亡くなった彼女の遺体は、本人の希望で解剖され、高齢者の健康に関する貴重なデータが得られました。人びとの健康のために生涯を捧げ、貢献した彼女でしたが、死んでもなお貢献し続けたのでした。