そういちコラム

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ナイチンゲールは何をした人?「白衣の天使」ではおさまらない

5月12日は、フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910 イギリス)の誕生日です。そしてこの日は、彼女の誕生日にちなみ「看護の日」とされているそうです(1990年制定)。

ではそもそも、ナイチンゲールは何をした人だったのでしょうか? 多くの人を救った立派な看護師? 

それはまちがいではないのですが、不十分な答えです。

答えを言います。ナイチンゲールは「看護という専門分野の確立者」です。

彼女以前には、看護という仕事は、専門知識や高いスキルを要するとは思われていませんでした。「誰でもてきる」と誤解されていた。

しかし、彼女が看護の現場でリーダーとして活躍し、さまざまな改革を行い、看護師を養成する学校を立ち上げ、当局や世論に働きかけたことによって、変わっていったのです。

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ナイチンゲールが有名になったのは、クリミア戦争(イギリス・トルコなどとロシアの戦争、1853~1856)で、イギリス軍の野戦病院の看護婦長として活躍したときからです。当時の彼女は30代半ば。

彼女が派遣される前、スクタリ(戦場となったトルコの地名)の野戦病院の管理・運営はガタガタでした。

不衛生な環境に多くの傷病兵が詰め込まれ、薬品その他の医療物資が不足していました。食事の質にも問題がありました。このため、病院内では「本来は死なずにすんだはずの患者」が、おおぜい亡くなっていました。

彼女は病院の管理体制を立て直して、多くの兵士の命を救いました。

彼女が率いる看護師チームは、病院内を清掃し、寝具や衣類を清潔に保ち、さまざまな医療物資を調達し、食事を改善しました。この現場の改革を、私たちが一般に「看護師の仕事」と思う患者のケアを行いながら、すすめていきました。

しかし、この改革は、戦いの連続でした。イギリス陸軍という官僚機構との戦いです。

当初、陸軍当局は病院の管理に問題が生じていることを認めようとはしませんでした。「物資は十分に行きわたっている」と言い張った。

現場から「もっと物資を」と訴えても、積極的に動こうとはしなかった。いざ何かを調達するとなっても、陸軍の部署間のさまざまな調整や手続きが煩雑で、なかなか進まない。

ナイチンゲールたちを敵視する、反改革派の妨害もありました。ナイチンゲールを誹謗中傷するウソだらけの「秘密報告書」が出回ったりもしました。

しかし、新聞の現地取材・報道によって、世間は野戦病院のひどい状況を知るようになりました。ナイチンゲールたちが求めるさまざまな救援物資を送るための「基金」がつくられ、多くの資金が集まりました。

そしてナイチンゲールも、いろいろ手配をして独自に物資を調達しています。彼女は上流階級の出身で、政界や実業界に支援者がいたので、そういうことができたのでした。

しかし、そうやって寄せられた物資を、陸軍の官僚たち(一部の軍医も含む)は活用することを拒んでいます。「物資は足りている」と言ってきた自分たちの体面を気にしたのです。

せっかく届いた物資(栄養補給のためのライム果汁)が、1か月間まったく支給されないまま、ということもありました。これは、ライム果汁が「支給規則」のなかの項目に含まれていないためでした。

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以上はほんの序の口です。ナイチンゲールのクリミア戦争における活躍では、切迫した現場での「腐敗し、硬直化した官僚機構との戦い」が延々と続きます。

それでも、あの手この手でなんとか戦いを続けて、彼女は成果をあげていきました。

たんに「戦う」だけでなく、現場の医師たちとの信頼関係構築には気を配ってもいます。現場での取り組みのほかに、政府高官の支援者と連携して、世論に訴えるさまざまなキャンペーンや権力者への根回しも行いました。

また、環境の変化と死亡率の相関関係など、現場で起きていることの統計的分析にも力を入れています。

のちに彼女は野戦病院の状況について、数値やグラフを駆使した詳細な報告書を作成・公表しています。彼女は、こうした統計研究の先駆者です。『統計学者としてのナイチンゲール』(多尾清子著、医学書院)という本もあるくらいです。

そして、戦争のあとはイギリスで陸軍全体の保健・衛生の改革運動に取り組みました。「二度とあの野戦病院のような惨状をくりかえさない」という思いからです。これは彼女にとってクリミア戦争での活動以上の大仕事で、さらなる官僚機構との戦いが続いたのでした……

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このようにナイチンゲールは、「白衣の天使」という表現などではとてもおさまらない、ものすごい人でした。「戦う大天使」という感じです。

そして、今の世界には「ナイチンゲール」がもっと必要ではないかと思うのです。近年のコロナ禍では、とくにそう思いました。

ただし、それは現場で献身的に働く医療・看護のスタッフという意味での「ナイチンゲール」ではありません。そのような現場を支えるために戦う指導者としてのナイチンゲールということです。

そしてその「現場」は、医療・看護に限らない。社会のいろんな場所に「ナイチンゲール」が求められているのではないか。

だから、医療従事者に限らず、政治家や官僚やそのほかのリーダー的な人が「ナイチンゲール」にぜひなってほしいし、誰かがならないといけない。

自分にはとてもできないと思う人も(私もそうですが)、そういうリーダーがいたら、ぜひ応援していきたいものです。

でも、どこにいるのでしょうか? きっと、社会のあちこちのどこかで戦っているはずですが……

(参考文献)
板倉聖宣,松野修編著『社会の発明発見物語』仮説社(1998)、長島伸一著『ナイチンゲール』岩波ジュニア新書(1993)、多尾清子著『統計学者としてのナイチンゲール』医学書院(1991)など

 

近代イギリス史の研究者による、コンパクトで読みやすく、信頼できる伝記。ナイチンゲールについての最初の1冊としておすすめ。

2冊目としておすすめ。原著は2010年で、新しい研究を踏まえ、ナイチンゲールの仕事の重要な面を、的確に読みやくまとめています。

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香川は栄養学の開拓者。看護の人ではないが、人びとの健康にかかわる新しい科学を切りひらいたという意味で「日本のナイチンゲール」みたいな人だと思います。