第一次世界大戦(1914~1918)は、西欧とロシアの狭間(はざま)である東欧の地域での、大国が中小の国家を攻撃する地域紛争をきっかけに始まりました。今のウクライナ情勢をみているとそのことを連想し、恐ろしくなります。
第一次世界大戦勃発の経緯は、以下のとおりです(3分で読めます。関連地図は末尾に)。
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1914年6月28日(以下、日付はすべて1914年)、バルカン半島のボスニア(当時オーストリア領)の都市サラエボで、セルビア人青年がオーストリアの皇族を銃で暗殺しました。
セルビア人は当時、オーストリアの圧迫を受けていて、それに反発・抵抗する一派による犯行。「サラエボ事件」といわれるものです。
当時のオーストリアは、今とちがって周辺のさまざまな国・民族を支配する「帝国」でした。そして、オーストリアはボスニアやセルビアのあるバルカン半島で勢力を拡大しようとしていた。
バルカン半島は、東はロシア、西はオーストリアやドイツなど、大国に囲まれた狭間の地域です。
7月28日、オーストリアはサラエボ事件の報復としてセルビアに侵攻。ここまでは大国が近隣の中小国を攻撃した「地域紛争」です。
しかし、バルカン半島の周辺にはさまざまな立場の大国があり、セルビアでの戦争をめぐって、それぞれの大国が敵・味方に分かれて対立することになっていきました。
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まず、オーストリアとセルビアの戦争に、ロシアがセルビア側として介入してきました。当時のロシアは、バルカン半島に勢力を伸ばそうとして(今もそうですが)、オーストリアと対立していたのです。
そしてオーストリアには、民族的に近いドイツという仲間がいました。8月1日、ドイツはオーストリアの味方をして、セルビアの後ろ盾であるロシアとの戦争を始めました。
当時のドイツは、イギリスやフランスよりもやや遅れて近代化が始まったものの、急発展の結果、ヨーロッパ最大の工業力を持つ超大国になっていました。
そしてドイツは、先に近代化をすすめ、アジア・アフリカの植民地支配などで優位に立つ英仏に対抗心を抱いていました。英仏も、ドイツをけん制していた。当時のドイツの立ち位置は、現代の「新しい超大国」である今の中国と重なるところがあります。
また、当時のドイツはバルカン半島やアラブ地域で勢力を伸ばそうとしており、その地域ですでに一定の勢力であった英国と対立していました。ロシアとも競合していました。
さらに、ドイツとフランスのあいだには国境をめぐる深刻な対立がありました。
こうした情勢のもと、ロシアと戦争を始めたドイツとしては「宿敵」の英国やフランスが恐ろしいものです。ロシアとの戦争をしているあいだに、宿敵が攻めてこないか。
実際、フランスはロシアと協力関係にあり、いつでも戦争ができる態勢に入っていました。
そこで、ドイツの権力中枢では「攻められる前にフランスを攻める」という方針が力を持つようになり、それが実行されました。8月3日、ドイツとフランスの戦争が始まりました。
こうなると、英国もだまっていません。8月4日、英国はドイツに宣戦布告。こうして、ヨーロッパ全体を巻き込む「世界大戦」が始まったのです。
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もちろん、今の世界情勢がそのまま第一世界大戦当時と重なるということではありません。
しかし、ロシアと西欧の狭間である、東欧での地域紛争が世界大戦になってしまった事例が、過去にあったということです。
第一次大戦のオーストリアとドイツにあたるのが、今のロシア。そのロシアに中国が同調しています。今のアメリカと西欧は、第一次大戦の英仏にあたる。ヨーロッパを舞台にした、「主流と反主流の大国の対立」という構図はどちらも同じ。
オーストリアがセルビアに侵攻したとき、世界大戦になるとはまず予想できなかった。しかし、国家間の力学や指導者の思惑などが働いて、あっという間に大戦になってしまった。
今回のウクライナ侵攻について解説する識者のなかに、「世界大戦」への恐れを語る人もいますが、その前提には第一次世界大戦のことがあります(ただし、第二次世界大戦の経緯にも今回と重なるところはある)。
「(東欧での)地域紛争→世界大戦」の古典的事例として、第一次世界大戦のことは知っておいていいと思います。
【第一次世界大戦時のヨーロッパ】
*網かけ:ドイツなどの「同盟国」陣営(英仏側は「連合国」という)
*グレーの太線:同盟国が最も進出した前線
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