そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

日本初の鉄道建設・そこには日本人の前向きな面があらわれている

1872年(明治5)10月14日(旧暦9月12日)、新橋~横浜間(約29キロ)を結ぶ、日本で最初の鉄道が開業しました。10月14日は「鉄道の日」

今年(2022年)は「鉄道開業150年」ということで、記念品の販売や関連のイベントなどが行われているようです。

この記事では、新橋~横浜間などの「初期の日本の鉄道建設の特徴」について述べます。

その特徴は ①西欧の後追い ②国家事業として行われた ③政治的な意図の強さ ④技術の自立化の努力 といったことです。

とくに「政治的な意図(その意志決定)」については、「政府内で“鉄道など要らない”という意見も強いなか、強い意志で鉄道建設を推し進めた人たちがいた」ということは、強調したいところです。

また、「技術の自立化」というのは、「日本人が創意工夫を重ねて鉄道という異文化の技術を自分たちのものにしていった過程」であり、やはり重要です。

これらについて以下、述べていきます。

なお、鉄道史の研究者・原田勝正さんの著作――『日本鉄道史』刀水書房、『鉄道と近代化』吉川弘文館を、おもな資料としています。

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世界初の鉄道の営業は、1825年にイギリスではじまりました。ストックトンとダーリントンという町を結ぶ約14キロメートルの区間を蒸気機関車が走りました。

ただし、1830年にはリバプール~マンチェスター間で、より本格的な鉄道路線の営業が始まったので、これが「世界の鉄道の始まり」ともいえます。

そして、その後イギリスでは急速に鉄道建設が進み、1850年にはイギリスの鉄道の総延長は1万キロにも達していました。この時点でイギリスでは「主要都市を結ぶ全国的な鉄道網が完成されていた」といえます。最初の鉄道からたった20年ほどでそうなったのです。

フランス、ドイツなどの西欧諸国でも、1850年頃までにはかなりの鉄道建設がすすんでいました。

また1800年代半ばには、イギリスの植民地であるインドの場合のように、宗主国が植民地に鉄道を建設することもさかんになりました。インドでは、イギリスの綿織物工業の原料であるインド産の綿花をインドからイギリスに大量に運ぶ必要から、鉄道が建設されたのでした。

日本の鉄道建設は、西欧で相当に鉄道建設が進んだあとの「後追い」ということです。これは多くの方がご存じだとは思います。

そして「後追い」であるがゆえに、日本の鉄道の始まりは、西欧の先進国やその植民地とはちがう面を持つことになりました。

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その「ちがい・特徴」としてあげられるのは、まず「国家の事業として最初の鉄道がつくられた」ということ。

150年前に開業した新橋~横浜間の鉄道は、明治政府がイギリスに借金をしてつくったものです。

「政府が鉄道(とくに最初のもの)をつくる」というのは、日本人の感覚だとあたりまえかもしれません。

しかし、イギリスでは1800年代の鉄道建設はもっぱら民間企業によって行われました。フランスでもアメリカ合衆国でも同様です。

ドイツでは、1800年代後半には鉄道の国有化がすすめられますが、初期の鉄道建設は民間によって行われています(「1800年代後半」というのは、それまでいくつもの中小の国家に分かれていたドイツがひとつの国として統一されて以降、ということ)。

なお、日本でも最初期の鉄道は政府によるものでしたが、のちに民間による鉄道建設・経営も活発化していきます。

そして、明治の後半の1905年(明治38)、日本の鉄道路線の総延長は7800キロでしたが、そのうちの2600キロが政府の鉄道で、5200キロが民間鉄道会社の路線でした(日本銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』)。

ただし、この翌年(1906年)からは、国策によって鉄道の国有化が急速にすすめられるようになります。

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では、明治政府はどのような意図で、最初の鉄道をつくったのか?

もちろん「社会・経済の発展に役立てる」ということはあるわけですが、それだけでなく政治的な意図も強くありました。「政治的意図の強さ」も、初期の日本の鉄道建設の特徴です。

鉄道建設が始まった1830年頃のイギリスでは、1700年代末に始まった「産業革命」が相当にすすんでいました。

つまり、蒸気機関を用いた工業がかなり発達していて、その生産力に見合った輸送手段(原材料を運び込み、製品を出荷する手段)が求められていた。その要求こたえるものとして鉄道は生まれ、発達したのです。

一方、明治初期の日本ではまだそのような「産業革命」は起きていません。だから、鉄道というものにどれだけの意義があるかは不明確なところがあったのです。

しかし、明治政府のなかで鉄道建設を推進した大隈重信や伊藤博文といった人たちは、「鉄道で関西と東京などの主要都市を結べば、国家の統一を強める」あるいは「新しい国づくりを民に印象づける」と考えました。

当時、明治政府は生まれたばかり。その基盤はまだまだ不安定です。そんな中で「国をひとつにまとめ、新政府の支配を強めることにつながる」と主張して、鉄道建設を急ごうとした人たちがいたのです。

でも、こういう抽象的な意図だと「ピンとこない」という人も多いはずです。

当時の明治政府のなかには「鉄道なんてまだ日本には必要ない」という意見も有力でした。日本では産業革命もまだ起こっていないし、新しい政府はぜい弱なのだから、そういう考えは常識的ともいえます。

たとえば西郷隆盛は明確に鉄道建設に反対していました。大久保利通は、煮え切らない態度だった。

しかし、大隈や伊藤は自分たちの「上司」である大久保利通などを説得して、鉄道建設を実現させたのです。

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政府は1969年(明治2)の末に、鉄道建設を決定しました。そこにはイギリスからの「外圧」もかなり働いていました。

イギリス側は「鉄道建設に関与して日本への影響力を強めたい」と考えていました。そして、大隈らがイギリスの「外圧」を利用して、政府を動かそうとしたという面もあります。

イギリスは資金面だけでなく、技術面でも人材を派遣するなどして、日本の最初の鉄道建設を支えました。

なお、1870年当時(鉄道開業の2年前)、伊藤は29歳、大隈は32歳。

先見の明のある若いリーダーの熱意で、日本の鉄道は生まれたのです。彼らのような人がいなかったら、いずれは日本に鉄道はできたとしても、それはやや先のことだったかもしれません。

鉄道建設の計画は、当初は東京と関西を結ぶという大規模なもの(東海道線にあたる)も考えられていましたが、予算不足で新橋~横浜という限定されたところからスタートすることになりました。

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また、日本の初期の鉄道の特徴として「自前の技術で築こうとする努力と、その成功」があります。一言で「技術の自立化」と言ってもいいでしょう。

当初、新橋~横浜間の鉄道建設に関与したイギリスの商人は、日本に対し、機関車、車両だけでなく、レールや枕木、その他一切をセットで売り込もうとしていました。

しかし、たしかに機関車、車両、レールは当時の日本ではつくれなかったのですが、枕木については「イギリス製の鉄による枕木よりも、日本には良質の木材があるのでこれを用いたほうがよい」ということになりました。

これは、イギリスから派遣された技師長のエドモンド・モレル(当時30歳そこそこ)が主張したのです。

モレルは「高価な外国製のものばかりを使うのではなく、できるかぎり国産のものも使うべきだ」と日本側にアドバイスしています。また、建設や運営のための人材も、できるだけ早く日本人を育成すべきだと。

これは、当時のヨーロッパ人に一般的な「植民地支配」的な発想とは異なるものです。(私が参照した本の著者・原田さんが述べるように)まさに「技術者の良心」に基づく考え方といえるでしょう。良い人が日本に来てくれたものです。

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このような技師長のもとで、最初の鉄道建設にかかわった日本人は、自前の技術が鉄道に生かせることを自覚して取り組みました。

たとえば幕末の時代に江戸湾で台場(砲台を設置する埋め立て地)の建設に携わった人びとの技術は、高輪・品川の埋め立て(この付近は埋め立て地に鉄道路線をつくった)に生かされました。

日本人は、江戸時代までに相当高度な土木技術を蓄積していたので、鉄道建設の土木的な面にかんしては、当初からかなり「自立」していたのです。

そして、最初の鉄道が開通してから数年のうちには、客車や貨車については(台車のおもな部品を輸入すれば)ほぼ国産化が可能になっていきました。

さらに日本人の機関士も育成され、1880年代になると、日本人技師だけで鉄道を建設することも可能になったのです(機関車の国産化はまだ先)。

こうした「技術の自立化」は、非西欧諸国では日本が初めて成功したことでした。

なお、モレル技師は、そのような日本の鉄道の「自立化」の功労者でしたが、新橋~横浜間の鉄道が開通する前年(1871年)の11月に、結核のため亡くなっています。

***

日本の鉄道の始まりにおける特徴としては、以上のほかに「狭軌」という、世界の主流よりも狭いゲージ(路線の幅)の規格を採用したことなどもありますが、ここでは立ち入りません。

そして、新橋~横浜間で始まった鉄道は、その後急速に社会に受け入れられ、ほかでも次々と建設されるようになり、日本の社会を大きく変えていきました――具体的な経緯はともかく、そのことは誰もが知るとおりです。

「日本初の鉄道」の物語には、日本人の前向きな・建設的な面があらわれていると思います。

そして、そこにはイギリス人の良心的な技師の貢献もあるので、日本人に限らず「人間というものの建設的な面」の話だともいえるでしょう。

だからこの物語については、大雑把でいいので全体的な経緯を多くの日本人が知っておくといいと思います。自分たちの歴史のなかの「建設的な物語」を知ることは、おおいに意義があります。

新橋~横浜間の鉄道のことは、よくテレビなどで取り上げられるのですが、その多くは断片的すぎて、どうもこの「物語」の真価が伝わってこないように思います。残念ながら私のこの記事も不十分です。

もっとしっかりと構成された、読みやすい名文による「読み物」か、丁寧に・かつコンパクトにつくられた映像作品があるといいのですが。

*新橋~横浜間の鉄道開業当時に用いられた、イギリス製の機関車。JR桜木町駅前の「JR東日本ホテルメッツ」などが入るビルの1階で展示されています。当時の横浜駅は、今の桜木町駅の場所にあったのです。2021年秋に撮影。

最初の鉄道が開業した当時の横浜駅(上記の機関車とともに展示されているジオラマ)

参考文献

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レジー『ファスト教養』・ファスト教養をただ非難するのではなく「生き方」をまじめに考える本

レジ―著『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書、2022年)を読みました。レジ―さんは、企業に勤める傍ら、音楽をはじめとするポップカルチャーについて、ブログやその他のメディアで発信している方で、1981年生まれ。

「ファスト教養」は、著者のレジーさんの造語だそうです。

本書によれば、ファスト教養とは

“ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそが大事」という画一的な判断に支えられた情報”

といえるものです(10ページ)。

著者はこう述べています。

“ここ数年、「ビジネスパーソンには教養が必要」といったメッセージがさまざまなメディアで取りざたされるようになった。たとえば、書店を見渡してみると、ビジネス書のコーナーに『教養としての○○』という本が並んでいるさまをよく目にするだろう”

そして、“最近の「教養が大事」論は、過去のものとはやや位相が異なっている” “今の「教養」がとくに色濃く帯びているもの。それは、ビジネスパーソンの「焦り」である”と。

つまり、“手っ取り早く何かを知りたい、それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう”という思いが、今のファスト教養と深く結びついているというのです。(9~10ページ)

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また、ファスト教養の特徴として、“特定のテーマを深く掘り下げるのではなく「何となく役立ちそうな話について」「大雑把に理解する」ことを「身につけておくべき教養」として重視する姿勢”(19ページ)があるとも述べています。

「役立ちそうなことを、浅く、大雑把に」ということ。それは「コスパ重視」の発想ともいえる。

なお、「役立ちそう」というのは、狭い意味でのハウ・ツーや、仕事で使えそうな思考法・発想法などにかぎりません。

そこには歴史や芸術、音楽などの文化的知識も含みます。芸術・音楽もいわゆる「高尚」なものにかぎらず、マンガ・アニメやポピュラー音楽なども対象です(むしろそういうポップカルチャーの教養が現代では「偉い人と話を合わせる」うえで重要になっている)。

そして、そういう「教養」を身につけることが、偉い人と話を合わせたり、自分を立派にみせたりする(差別化する)うえで有効だ、つまり出世や成功に役立つ――そういう考えが近年は有力になっているとのこと。

ひろゆきさん、中田敦彦さん、堀江貴文さんなどの著名な「教養系YouTuber」といわれる人たちは、そのような「ファスト教養」の時代の代表選手ということです。

本書では、こうした「ファスト教養の時代」を代表する発信者・著者を何人もとりあげて、分析・論評していきます。

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そして、こういうファスト教養的なものの対極には、古典的な教養観があります。

それは、教養を「役に立つかどうかではなく長いスパンで考えた時に人生を豊かにするもの」とする見方である――著者はそうまとめています(50ページ)。

たしかにそういう教養観というのは、古くからあります。私もこの手の教養観を持つ1人です。

しかし、著者によれば「昨今の社会には教養をこのようなのんびりした場所から追い出そうとする磁場が確実に形成されている」というわけです(50ページ)。

そして、その背景にはグローバル化によるビジネスの競争激化や格差の広がりといったことがある、というのが本書の論調です。

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著者のレジーさんは、基本的にはファスト教養に疑問や批判的な思いを抱いています。本書の「結論」ともいえる最後の第六章は「ファスト教養を解毒する」という題になっています。ファスト教養には「毒」「害悪」があるというわけです。

しかし、本書は「ファスト教養」を「くだらない」と切り捨てるだけの本ではありません。

著者のレジーさんは40歳過ぎの、仕事や家庭生活で忙しいビジネスマンです。同年代や自分よりも若いビジネスパーソンが、「じっくり古典を読む」ような教養よりもファスト教養的なものを求める、その状況についての理解があるわけです。

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その「理解」は随所にあらわれていますが、とくに、映画『花束みたいな恋をした』を取り上げた箇所(後半の第五章)での掘り下げにはひきこまれました。

この映画は、東京の大学に通う男女(演:菅田将暉・有村架純)が出合って別れるまでの何年かを描いたものだそうです(私はみていないのですが、レジーさんの解説でみたくなった)。

2人を結びつけるうえで重要だったのは、映画や音楽など共通のカルチャーへの関心だった。しかし、菅田さん演じる青年は、大学時代はイラストレーター志望だったが、卒業後は一般的な企業に就職して営業マンとして忙しい日々を送るうちに、かつてのようなカルチャーへの関心を失っていく。

彼の本棚にはハウツーもの(あるいはファスト教養)のビジネス書が並ぶようになり、有村さん演じる彼女(社会人になってもカルチャーへの関心を失っていない)との溝ができていく……

この映画で登場する、青年の本棚のセットには、彼が手に取りそうな実在のビジネス書がいくつも並んでいるのだそうです(真剣に撮った映画は、必要に応じそういうところまできちんとつくり込まれているものなんでしょうね)。

そしてレジーさんは、それらのビジネス書のタイトルをいちいち片端から読み取って、その本の内容に触れながら青年の置かれた状況や問題意識を推測したり、こんな本も読んだらいいのではないか、などと論じたりてしています。

ここまでレジーさんが論じるのは、教養・カルチャーに関心を持つ青年が社会に出たときに感じる「ギャップ」や「壁」のようなものを、ご自身も体験してきたからでしょう。

なお、レジーさん自身は、大学卒業後は「(関心のある分野の)志望企業に就職できた」と述べていますが、それでも社会人の世界への違和感はおおいにあって当然だと思います。

***

本書から話がそれますが、読書好きで思想にも関心のある学生だった私(バブル世代)にも、世代はちがうものの、この映画の主人公の様子には身につまされる感じがあります。

あの青年のように、若いサラリーマンになった私も、大学時代にはまったく手をださなかったハウツー的なビジネス書をかなり読むようになりました(今もある程度読んでいます)。

しかし一方で通勤電車のなかで、たとえば岩波文庫の哲学や社会科学の古典を熱心に読んでいたりもした。

「こんなことをして何になるんだろう」と思いながらでしたが、「これをやめてしまうと、自分の大事な世界が失われる」と思ってしがみついていたところがあります。

そして、その延長線上にあることを、中高年になった今も続けています(でも社会的・経済的には何にもなっていませんが)。

そういう自分の体験もあるので、映画『花束みたいな恋をした』について述べた箇所は、本書でもとくに印象に残っています。そして、普遍性のあるテーマを、抽象論ではなく生き生きと目に浮かぶかたちで伝える、本書の重要な箇所だと思います。

***

くりかえしますが、この本は「上から目線で、ファスト教養をただ非難した本」ではありません。

「ファスト教養とどう向き合っていくべきかを考えたい」として語りはじめた最後の章で、著者はこう述べています。「単純に割り切ることなどできない」という思いの言葉です。

“ビジネスに役立つなどと小賢しいことを言わず、大雑把に物事を知ることに満足せず、さまざまな領域に対して探究心を持って取り組む。それこそが、ファスト教養にがはびこる世の中における本来あるべき知的態度である――
というようにまとめることができたら、どんなに楽だろうか”(186ページ)

時間的に余裕がなく、「成果をあげろ」と駆り立てられている多くのビジネスパーソンが、ファスト教養的なものに魅力を感じるのは無理もないことだ。

そんなビジネスパーソンたちに対し「もっと勉強をしろ」といっても意味はないだろう……そんなことを、この最後の章ではまず述べています。

つまり、本書はスパッと「こうだ」という結論を打ち出していないところがある。「歯切れが悪い」ともいえる。

でも、その「歯切れの悪さ」にこそ、真実がこもっているように、私は思います。だからこそこの本は単なる「お説教」「糾弾・告発」にならずに済んでいる。

***

では、「考えが深まらない」のかというと、全然そんなことはありません。

この本は2000年代以降のビジネス書や「ファスト教養」的なコンテンツを幅広く見渡して分析や位置づけを行っています。

つまりこのテーマを、じつに深く研究し、考察しているのです。現代のビジネス書の世界、ビジネスパーソンの読書・勉強について考えるうえでおおいに参考になる、幅広い見識が得られる本です。

そして、本書の情報や見解に触れると、自分なりに考える刺激を得ることができる。

この本は「『より良く生きるにはどうするか』という問題をまじめに考える本」だと、私は感じました。

ただしそれは「巨匠や達人に教えを乞う」のではなく、今の社会の現場を生きる、現役のビジネスパーソンであり知識人でもある著者が悩みや迷いを抱えつつ述べたことを通して考えるわけです。

だからこそ、「青年の理想」みたいな明快だけどフワフワしたものではなく、現実的で真剣な考察になっている。そういう考察では、簡単に明快な結論は出ないものです。

ただし、本書の最後の最後には、シンプルなメッセージが出てきます。

「無駄なことを一緒にしようよ」という言葉です。これはSMAPの楽曲「Joy‼」(津野米咲作詞・作曲)の一節。

この言葉から「どうしたらいいか」を明確に導きだすことはできないでしょう。でも、本書を一通り読んだ後だと「これ、だいじだなあ」と心に響きました。

***

じつは、この本を読んでいて、私は少々疲れました。自分自身の活動について直接に・真正面から考えさせられる内容だったからです。

私は数年前に『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)という、いかにも「ファスト教養」的なタイトルの、初心者向けの世界史の概説・入門書を出版したことがあります。

世界史の全体像を、過去数千年の“繁栄の中心の移り変わり”という視点で述べた本です。

この本は「世界史という教養を、浅く、大雑把に」という読者のニーズにこたえるものとして出版されたといえるでしょう。

私は世界史などの歴史の探究をライフワークにしてきましたが、学者でも学校の先生でもない元会社員です。

私のような人間が世界史の本を出せたのは、本書のいう「ファスト教養」的なムーブメント(たとえばビジネスマン出身の出口治朗さんの世界史本のヒットなど)がたしかに影響している。

私は、「世界史という手ごわい対象について、初心者の読者に読みやすく伝える」ことに徹底的にこだわってこの本を書きました。

その意味で、レジーさんの本書が引用している、中田敦彦さんが自分のYouTubeについて語った言葉には、共感するところがあります――“果物でいえば皮をむいて一口大に切って一つずつ楊枝にさして、あとは口へ運べばおいしくいただける状態にまで、それぞれの本を加工してあげる”

ただし、レジーさんも述べているように、この「加工」で果物本来の味を台無しにしてはいけないわけです。

果物本来の味、つまり私の本なら「世界史の奥深さ」などを「信頼できる知識・情報に基づいて」伝えないといけない(それはむずかしいことですが、読者から頂いた好意的な感想から、そのような「めざすところ」をある程度は達成できたと感じてはいます)。

「多くの人に容易に食べてもらうための加工」によって、素材・対象の味わいやあり方を台無しにしないことこそが、「良心的な啓蒙的著作」と「ファスト教養」を分けるということなのでしょう。

「良心的な啓蒙」とは、別の言い方をすれば「知識の民主化」です。

「ファスト教養」ではなく「知識の民主化」に貢献する――自分としてはそういう仕事をしたいものだと、本書を通じてあらためて思いました。

そして、そのためにはどうしたらいいか。

それこそ単純に「もっと勉強すればいい」ということだと思います。

ある文化・教養が食べやすい形で加工されている場合、「そのコンテンツの作者がどこまで勉強しているか」が、ファスト教養かそうでないかを決める。なお、この場合の「勉強」は、単に知識量だけではないはずです。

ただし、それは「程度の問題」でもあるでしょう。このあたりについては、おおいに関心のあることなので、またいつか論じたいと思います。

一気にわかる世界史

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専制国家・中国と、多元的で「民主主義」のインド

先日(2022年9月30日)アップした当ブログの記事で、「中国は権力集中の専制構造の社会で、日本は権力分散の団体構造の社会」ということを述べました。

現代中国の研究者にも、歴史学者にも、つぎのようなことを言う人がいて、私も「そうだな」と思うのです。

・中国は、バラバラの個人である14憶人が、トップの権力者によって束ねられている(権力集中の専制構造)
・日本は、大小さまざまな団体や、いろんなレベルの階層ごとに権力が分散(権力分散の団体構造)

現代中国の研究者の益尾知佐子さんは「中国人の組織ではボスと部下たちは基本的に1対1の権威関係で結ばれている。部下たちは互いに独立し、協力しあうことはあまりない」と述べています。

たとえば飲食店で厨房とホールが互いの仕事を手伝うことはめったにない。これは従業員どうしの関係が悪いのではなく、相手のテリトリーを犯すと、ボスに認められたその人の立場を否定することになるからだ……そんなことを益尾さんは述べている。

これに対し日本では厨房とホールが互いに手伝うのは普通のことであるはずです。

***

権力集中の社会は、「正解」がわかりやすい、先進国を追いかける「模倣」の段階では効率がいいところがあるのでしょう。権力者が示した「正解」の方向へみんながまい進して、それでだいたいまちがいないからです。

でも、先進国に近づくほど「何が正解か」は不明確になるので、中国における権力集中の弊害は、今後大きくなるかもしれない。

一方日本では、いろんなレベルの組織・団体が、慣習やしがらみに制約をうけて、身動きがとれない状態になっていると感じます。

***

そんなことを、先日のブログ記事では書きました。

この記事に関し、SNS上で友人からこんな主旨のコメントがありました。

「なぜ中国では民主主義が根付かないのか? それは、中国のような人口の多いところで、民主主義で多様な意見をみんなが述べて議論し始めたら、収拾がつかなくて何も決まらないか、内紛になるからではないか」

「だから今後も中国に民主主義が根付くことはない。「皇帝」が治めるしかない――なんの勉強もしていないシロウトの見方ですが、そんなふうに考えます」

これに対し私はつぎのような内容のコメントをしました。

「私も、人口は政治体制と関係があるかもしれないと思うこともあります。でも、アメリカやインドのような、専制国家ではない人口大国もあるわけです。私はやはり歴史(どう国家が形成し展開してきたか)がやはり重要だと思います」

「中国の場合は、“地域社会やさまざまな団体などの中間的な権力が徹底的に潰された末に成立した帝国“」と“そのような帝国が正統的なものとしてくりかえしあらわれて支配し続けた歴史”が今も影響し続けているという感じがします」

すると、今度は友人から、以下の主旨の質問が。

「ではインドってどういう政治体制なのでしょう? アメリカや中国の体制はある程度イメージができるのですが、インドは人口があんなにいるのに、専制という様子もないし、民主制なのでしょうか? 」

***

インドについて、私たちはアメリカや中国にくらべて、わずかの情報やイメージしかもっていません。

大きな書店や図書館で「各国事情、国際情勢」のコーナーの棚をみると、アメリカや中国関連の本がたくさんあるのにくらべ、インド関連の本はかぎられています。

インドは中国と並ぶ人口大国で、世界のなかでまぎれもなく大きな存在ですが、私たちの関心はたしかに薄いです。「インドの政治体制は(ざっくりと)どんな感じなのか」について自信をもって答えられる日本人は少数派かもしれません。私も現代インドについて、ごく大雑把なことしか知りません。

以下は、友人の問いに対するコメントに大幅に加筆・修正したものです(片山祐ほか『アジアの政治経済入門』有斐閣、近藤治『インドの歴史』講談社現代新書などによる)。

***

インドは、複数の政党や、各種の利権団体が存在し、選挙が機能しているという意味で、民主主義といえます。

しかし、昔からの地主が地方議員や首長に立候補して、地主のもとで働く農民が否応なくそれに一票入れて……みたいなことが横行する「民主主義」です。

中国では、分裂の時代もありましたが「専制権力に一元的に統合された時代」が「正統」であり、一種の「デフォルト」です。

一方インドでは分立・分裂が「正常」で、統一帝国の時代は比較的短いです。「インド」とされる文化圏全体を統一した王朝は、紀元前200年代のマウリヤ朝(アショカ王による統一)や、1600年代以降のムガル朝くらいのものです。

あとは、北インドを統一したグプタ朝(西暦300年代に繁栄)が「半分統一」といえるくらい。

しかも「統一」が安定した期間は比較的かぎられています。統一かそれに近い状態は、支配者(皇帝)が三代くらい続くと、あとは崩れていく――それがくり返されてきました。

***

「統一国家の期間が短い」というのは、地理的に大小さまざまに区分される複雑な地形などの条件が大きく作用しています。インドは中国の中核地帯のように大きな平地が広がる地形ではない。

そこで、地方政権が割拠しやすかったのです。中国のように、一元的で巨大な権力集中は起きにくかった。

そのような歴史から、インドでは地域レベルや、職種・身分単位のさまざまな権力が重なり合って成立する、多元的な社会になっている。

また、イギリスの植民地だった時代(1800年代後半以降)に、さまざまな地方権力・団体を統治する手段として一定の議会政治も発達しました。

つまりイギリスによって、その支配を正当化し反抗の動きをコントロールする手段として、議会による自治が(限界はあるものの)インドに導入されていたのです。その議会政治に、地方権力者・地主などを議員として参加させました。

その結果、一定の民主主義的な政治家が育成され、国民も選挙というものに慣れていったわけです。

なおイギリスは、インド人が団結して反抗しないよう、インドにおけるさまざまな権力の分立・社会の分断を促す政策や工作も行っています。

***

あと、インドの独立(1947年)は独立戦争ではなく、イギリスとの話し合いでなされました。だから、独立戦争を戦った強力な革命勢力は存在しません。

たとえば、「暴力」による革命を起こし、革命を防衛する戦争を遂行した、ロシア革命におけるボルシェビキ(のちの共産党)のようなものは成立しませんでした。このことも独裁・専制の体制にならなかった要因のひとつだと思います。

私には、インドの「民主主義」は、有力者の談合の手続きのように思えます。

しかし有力者(地主や資本家、それと結びついた政治家)も「民衆の支持を得ておかないと、社会主義の革命が起きる恐れがある」と考えて、それなりに気を使ってきた。

それで恐ろしい専制権力が成立せず、国家の大規模な内紛も起きないのなら、結構なことだとも思えます。

ただ、インドの民主主義は盤石かというと、かならずしもそうではないかもしれません。

1970年代のインドでは、非常事態宣言が出されて議会が停止するという事態もありました(1975年)。

このときはインディラ・ガンジー首相と、その強権的な政治姿勢に反発する与党の一派や野党との対立が激化していました。それで反対派が投獄され、労働運動などが弾圧された末に非常事態宣言となったのです。

今のインドにも、ヒンズーとイスラムそれぞれの原理主義者のあいだの対立など、火種はいくつかあるわけです。社会の対立が激化すると、対立する片方が権力の側であれば、民主主義をやめて敵を力で押さえ込むようになることはあり得るはずです。

***

以上に対し、友人からは「なるほど。人口は同じくらいでも、中国とは全然事情が違いますね」とのコメント。

中国とインドは同じような人口規模の大国で、どちらも古い歴史を持っているのですが、その歴史の中身は全然ちがう。対照的といってもいいのです。

そしてその歴史のちがいが、現在の社会体制にもたしかに反映しています。

中国とインドを比較すると「社会は歴史的につくられる」という基本的なことを、あらためて強く感じます。また、両者を比較することで、それぞれの国への理解も深まるはずです。

そして、頂いたコメントから、考えや知識を整理したり深めたりすることができました。こういうことがたまにありますが、ブログの大きな楽しみです。

 

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ボーア研究所のコペンハーゲン精神(わけへだてのない協力・自由な討議・ゆとりとユーモア)

「量子力学」の建設者、ニールス・ボーア(1885~1962、デンマーク)は、アインシュタインと並んで、20世紀を代表する物理学者だといわれます。

でも「量子力学とは何か」をきちんと説明する能力が私にはありません。とりあえず「現代物理学の重要な領域で、原子や素粒子などの、極小の世界の状態を説明する科学」というくらいのイメージで、以下読んでいただければ。

***

ボーアとアインシュタインはどちらも20世紀物理学の巨人ということですが、アインシュタインのほうがジャーナリズムでの扱いなどから一般には名前が知られています。

でも、ボーアのほうがアインシュタインよりもはるかにまさっていることがあります。それは、多くの弟子を育てたことです。

アインシュタインは、ほとんど弟子をとりませんでした。

一方、彼が所長をつとめるコペンハーゲン(デンマーク)の「ボーア研究所」には、世界中から物理学者が集まりました(日本人も行っています)。そして、ボーアを中心にワイワイ議論しながら研究を進めました。そうして多くの人材が育っていったのです。

20世紀なかばには、世界のおもな原子物理学者の何割かは「ボーアの弟子か孫弟子」という状況になっていました。

「大家」には、自分の仕事を進めるだけでなく、このように弟子を育てる義務があるのではないでしょうか。ボーアは、その義務をみごとに果たした人といえます。

***

そして、ボーア研究所に集まる人たちのあいだでは「コペンハーゲン精神」というものが共有されていました。

それは「創造的な研究の場における精神」とでもいうべきもので、要約するとつぎの事柄から成っている。(吉原賢二『科学に魅せられた日本人』岩波ジュニア新書などによる)

①わけへだてのない協力の精神
②型にはまらない自由な討議
③ゆとりとユーモアのある探究

これは具体的にはどんな様子なのか? 

1920年代にボーア研究所に在籍した日本人の物理学者(堀健夫、京大物理学科を1923年に卒業)は、ボーア研究所での日々をふり返って、こう述べています。

《コペンハーゲン・スピリットというふうな名前もついているボーア研究所の雰囲気というものは、まことに我々の驚嘆に値するもので、日本における雰囲気とは全く違っておりました》

そして、こんな様子を述べています。

とにかくコロキウム(討論会)が、頻繁に行われる。日程が決まっているわけではなく、誰かが討論の材料を持ってくると、すぐにボーア先生自身が各研究室をまわって『今から集まれ』と招集して始まったりする」

コロキウムの議論の活発なことといったら、それこそ本当に日本では経験できない活発さ。お互いがじつに無遠慮に質疑応答を行っている。ボーア先生をはじめ、世界のそうそうたる科学者たちが、そんな議論をしている」

ボーア先生は知識や趣味の豊富な人だった。物理学以外の話もいっぱいした。例えばツタンカーメンの王墓の話を(考古学者の本を読んだ受け売りで)、延々と語っていることもあった。それが面白かった」

ボーア先生からは、いろんな遊びもみせていただいた。例えばハンカチの両方を持って、これを離さないで結ぶことができるか?という問題を出し、先生はこういうふうにしてやるんだと実演して、みんながあっと驚くとか。ほかにもいろんな遊びをした」(西尾成子『現代物理学の父 ニールス・ボーア』中公新書)

***

たしかに創造的で楽しそうですね。

仁科芳雄(1890~1951)という物理学者(昭和の戦前から戦後まもなくの時期の日本の物理学のリーダー)も、1920年代にボーア研究所に派遣されているのですが、2年の滞在の予定だったところを5年に延長しています。

派遣元の日本の研究機関(理化学研究所)が費用を出してくれるのは2年間だけだったので、後半の3年間は自費での滞在です。

それだけ研究者として「有意義で居心地が良い」と感じたのでしょう。

ただし、自費での滞在になってから、ボーアのとりなしでデンマーク政府から仁科に奨学金が出ています(本当にいい先生)。(『科学に魅せられた日本人』)

***

さて、近年の日本の科学者たち(とくに若手)は、厳しい環境に置かれていると聞きます。そのような報道・レポート・著書がいろいろあります。

そういう厳しさのなかにある科学者からみれば、コペンハーゲン精神なんて、まさに「夢物語」「ファンタジー」「お花畑」なのでしょう。

でも、それではやはりいけないはずです。

ボーア研究所に集まったような世界レベルのエリート科学者じゃなくても、コペンハーゲン精神的なものは、人が創造的な仕事をするうえで大事なことでしょう。

なにしろ「わけへだてのない協力の精神」「型にはまらない自由な討議」「ゆとりとユーモアのある探究」です。

これは、多少とも創造的であろうとするなら、大事であるにきまっていると思います。

でも、日本にかぎらず、世の中の多数派の組織はコペンハーゲン精神とは対極の精神で日々運営されているのでしょう。

つまり「上下関係に(ものすごく)こだわる」「形式・前例・建前に縛られた、忖度に満ちた言動」「組織のエゴや、個人レベルの利己主義」が、場合によって濃淡はありますが、私たちの組織ではしばしば力を持っている。

もちろん「ゆとりとユーモア」なんて思いもよらない……

なお、すべての組織がコペンハーゲン精神でないといけない、などということはありません。この精神になじまない活動も、社会にはいろいろあるでしょう。でも、先進国ほど、この精神は大事になるはずです。

また、創造的であることが求められる組織でコペンハーゲン精神的なものを大切にして日々活動している人も、世の中にはいるとは思います。でもその人たちは、自分たちが圧倒的な少数派だと感じているはずです。

***

なぜ、コペンハーゲン精神はないがしろにされるのか? ここではとても論じきれません。いや、私もじつはよくわかりません。

しかし、この世界には例外的ではあっても、コペンハーゲン精神がかなり実現している場もあるはずです。そういう場を多くつくった社会や組織は、ほかの集団よりも多くの創造的・生産的活動を積み重ねて発展しているでしょう。

そして、そういう社会・組織では「コペンハーゲン精神」なんてわざわざ言わないはずです。

でも、どうして「コペンハーゲン精神」が私たちにはなかなかできないんでしょうね? これは宿題にしておきます。人類の課題といってもいいでしょう。

ボーア

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ル・コルビュジエ・「無名の若者が巨匠になるまで」の典型

ル・コルビュジエ(1887~1965)は、20世紀を代表する建築家です。なお、ル・コルビュジエはペンネームで、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレといいます。10月6日は、彼の誕生日。

彼は、数々の邸宅や公共建築のほか、大風呂敷な都市計画などで知られています。積極的に文章を書き、講演をして、世界中から(日本からも)弟子が集まりました。カリスマ性のある巨匠らしい巨匠でした。

2016年には、彼の一連の作品(上野の国立西洋美術館を含む)が世界遺産となっています。

***

そんな巨匠も、当然ですが最初は無名の若者です。

スイスの田舎町(フランス系住民が主流の地方)で時計の装飾加工の職人の子として生まれ、地元の美術学校で彫金を学び、時計の装飾の仕事をめざしました。

しかし17歳のとき、美術学校の恩師の紹介で地元の住宅建設の仕事に助手として参加し、建築を志すように。彼はこの恩師から文化・芸術の新しい潮流について教わり、影響を受けています。

その後20歳のときには建築の仕事で貯めたお金で、長い旅へ。ヨーロッパ各地の建築を見て、建築家たちを訪ねました。著名な建築家の事務所で何か月かアルバイトをしたこともあります。

旅から戻ると彼は22歳のときに、地元で事務所を構え、住宅設計の仕事を始めます。そして、1年ほどギリシャなどをめぐる旅をしたほかは、8年のあいだ地元で活動して数件の住宅を設計したのでした。

***

そして30歳のときには一旗あげようと、パリへ。地元で多少の実績を積み、そのまま故郷にいればやっていけるはずでしたが、広い世界で活躍したかったのです。

でも、田舎で数件の家を建てただけの若い建築家が、パリで仕事を得るのは容易ではありません。たとえば「給水塔の設計」のような地味な仕事で食いつないだのですが、苦しい生活が続きました。

仕事が来ない中、33歳のとき、仲間と文化・芸術の雑誌を創刊。彼ともうひとりの仲間が記事のほとんどを書く、手作り感覚の雑誌でした。「ル・コルビュジエ」のペンネームは、この雑誌の頃からのもの。

彼はこの雑誌で、自分の先鋭的な建築論・芸術論を展開しました。これが一部で評判となり、「最先端」好きの一部の金持ちから住宅の仕事が入るように。

***

そして40代前半には、サヴォア邸(1931)のような代表作のひとつも誕生しました。その頃から「一流」と認められ、公共建築も手がけるようになっていきました。

その後、第二次世界大戦(1939~45)の厳しい時代を経て、戦後の60歳~70歳代の時期には、大きな傑作をいくつも残しました。集合住宅・マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952)、ロンシャンの礼拝堂(1955)、ラ・トゥーレット修道院(1959)――こうした仕事で彼は、20世紀を代表する巨匠になったのです。

***

以上のル・コルビュジエの成長過程をまとめると、こうです。

時計装飾の職人をめざす田舎の少年 → 恩師の導きで建築の仕事を体験 → 海外を放浪 → 建築事務所でバイト → 田舎の若い建築家 → 大都会で開業するが仕事なし → 自分でつくった雑誌で情報発信して仕事が来るように → 先端的な建築家として頭角をあらわす → 一流の建築家として認められる → 世界的な名声の確立 → 20世紀の偉大な巨匠

このように「無名の若者がだんだんと成長し、大きくなる」プロセスを、彼の人生は典型的に示しています。

彼にかぎらず、成功して「巨匠」になった建築家の人生は、概してこういうプロセスをたどるものです。

ここでは立ち入りませんが、たとえば安藤忠雄さんもそうです。安藤さんの歩みは、ル・コルビュジエと重なるところが多々あります。

***

建築家は依頼者あっての仕事です。若手のうちには大きな依頼は来ません。

実績を積むにつれて仕事のスケールが大きくなり、キャリアのピークは人生の後半以降になるのが一般的です。その過程が、建築作品によって視覚的に示されます。

このあたりが、若いときの仕事が主要な業績であることが多い科学者とはちがうわけです。作家や芸術家でも、若い頃の作品のほうが有名な場合は少なくありません。

「人は、一歩一歩成長する」ということをみるには、巨匠建築家の人生が参考になります。

(ジャンジェ『ル・コルビュジエ』創元社などによる)

 

 

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「職業教育を重視した多様な学校教育」を60年前の政府は考えていた?

先日友人と、社会や歴史についての長時間の会話をしていて、日本の教育の話題になりました。友人はこんなことを言いました。

「同じような学校教育を、大半の子どもたちが小学校から大学まで10数年間も受け続けるなんておかしい」

「多くの子どもたちは、高校や大学に進むんじゃなくて、早くに社会に出て働くか、職業の訓練・修行をしたほうが、よほど充実するんじゃないか」

「その一方で、資質のある子どもには然るべき教育をして、社会を引っ張るエリートを育てるべきだと思う」

これは、教育制度を論じるときの用語でいえば、現状の「単線型」ではなく、「複線型」にすべき、ということです。この考えに対し、私は今のところ明確な賛否の意見を持っていないのですが、まずはこの友人の考えについて整理します。

***

今の日本が「単線型」というのは、圧倒的多数が「職業科」ではなく「普通科」の高校へ進学し、高校卒業後は過半数が、専門性の希薄な、普通科高校の延長のような大学に進学する状況をさしています。

元教師だった友人は「学校の勉強が退屈で、うんざりしている子があまりにも多い」と言っていました。

今の学校では、読み書き計算のほか、学問・科学の基礎(一般教養的な事柄)を幅広く教えることを、義務教育だけでなく、多くの高校・大学で延々と行っている。それに対し、多くの生徒や学生は興味を持てないし、内容を消化することもできない、というわけです。

そして友人は、「日本にはエリート教育がない」とも言っていました。

単線的な価値基準(学問・教養重視)のなかで学力=偏差値を競いあうだけでは「偏差値エリート」は生まれても、高い創造性や構想力などを備えた真のエリートは育たない、ということでしょう。

私は、友人の意見に対する賛否ではなく、つぎのような「まとめ」を述べました。「つまり、こういう“複線型”の教育システムがいいというわけだね」と。

・義務教育を終えたところで、高度な学問・科学の教育をするエリートとそうでない子どもに選別する
・エリートでない多数派の子どもには、その個性にあわせて多様な職業教育のコースが用意されている
・選ばれた少数の子ども・若者には、社会の指導者やイノベーションの担い手として活躍するためのエリート教育がほどこされる

*なお「親の経済状況にかかわらず、すべての子どもに求める教育があたえられ、資質があればエリートへの道もひらかれている」というのが前提

「そういうことだね」

「じつはそういう“複線型”の教育制度と“真のエリートの育成”などのことは、1960年代に政府・文部省も構想していたんだ」

「へえ、そうなんだ」

***

1960年に政府(池田勇人内閣)は「所得倍増計画」を打ち出しました。そしてその計画の実現のため、1963年の経済審議会答申では教育・人材開発について系統だった構想を述べています。

なお、このような審議会の答申は「“専門家の提言”の体裁をとった政府の見解」と考えていいです。

その答申には、つぎのようなことが述べられていました。

・不足している若年労働者を確保するため、高校進学率をおさえる(1960年の高校進学率は58%)
・「ハイタレント・マンパワー」(ここでいう真のエリート)を育成する
・高校の新設は、“多様化”のため、普通科よりも職業科に重点をおく

つまり「複線型」の教育を考えていた。

そして、エリートとそれ以外の「選別」は「義務教育終了期において生徒の能力、適性を見出し、その進路を指導していくこと」で行われるのです。

つまり、政府は経済の生産性を高めるうえで、産業界においてつぎのような人材の配置がベストだと考えていたのです。

・まず、エリート大学出身者で構成される「ハイタレント」が頂点として存在する
・つぎに、それに準ずる大卒者たちがいる(1960年の4年生大学進学率は10%)
・高卒(おもに職業科出身)は中間レベルの技術者・専門家。この層をとくに強化していきたい
・多数派の中卒などが「労働力」の供給源となる

また、現代の日本ではあまり重視されていない「公的な職業訓練の充実」ということも、この答申では述べられています。「社会保障の充実」によって、労働者の生活の安定をはかることの重要性についても触れている。

そして、年功序列や、一般的・抽象的な能力や態度によって決める賃金ではなく、同一労働同一賃金原則に基づく「職務給」を賃金の中心にすえるべきだとも述べているのです。

(乾彰夫『日本の教育と企業社会』大月書店、小熊英二『日本社会のしくみ』講談社現代新書などによる)

***

このように1963年の経済審議会答申では、「複線型」の教育の制度が考えらえていましたが、ご存じのように今の日本の教育はそうはなっていません。

これは、企業社会や国民が、この答申が述べる方向を拒否した結果です。

まず、企業(おもに大企業)は、職業科よりも普通科の出身者のほうを好んで採用しました。

企業は、職業科で身につけたスキルをあまり評価せず、さまざまなことに適応できる一般的な教育を受けた普通科の卒業生のほうが、人材として育成しやすいと考えたのです。

つまり、普通科卒のほうが同じ高卒でも、就職に有利だったということ。

これには、当時の日本がめまぐるしく変化する高度成長の時代(年10%の成長率)だったことも影響しています。きわめて早いペースで技術・経営・組織体制が変わっていくなかで、学校の職業教育がその変化に対応しきれないということも多々あったわけです。

そして、普通科は(その教育内容からして)大学進学にも有利です。大学に進学すれば、4年生大学への進学率が10%~10数%の時代(1960年代)ですから、エリート候補生として就職できた。

親や子どもの多数派は、政府の審議会が「高校進学率をおさえよう」「職業科を高校のメインにしよう」とする方針などおかまいなしに、普通科の高校への進学を選択しました。さらにそこから大学進学をめざすケースも増えていった。

そして、明治以降の日本社会では学歴によって社会での「身分」が決まるという面が強くありました(小熊英二『日本社会のしくみ』)。

だから、もともと「高い学歴を得て(わが子と自分の)社会的な地位を向上させたい」という思いが国民のあいだにはあったのです。

経済成長である程度豊かになったことで、上級の学校への進学が多くの子どもたちにも可能になると、その思い(学歴を得たい)を実現する動きが一挙に高まりました。

***

こうして1970年代には「普通科高校に進み、そこからさらに大学に進むのが有利なコース」というのが「常識」となり、ほかの選択肢はマイナーになりました。そして高校でも大学でも、より偏差値の高い学校へすすむことが、きわめて重要な意味を持つようになったのです。

一方、企業社会でも専門的なスキルよりも、抽象的・一般的な「能力」(会社の要求に柔軟に対応できること)で人材を評価する傾向が定まっていきました。

普通科が高校の主流で、大学の専門性が希薄なのは、「抽象的・一般的能力」を重視する企業社会のあり方に対応したものです。

そしてこれは、複線型の多様なあり方が後退して、偏差値のような一元的(単線的)な尺度で人が評価されるようになった、ということです。

これを、教育学者の乾彰夫さんは「教育と社会を貫く一元的能力主義」と呼びました。

乾さんは、1963年の経済審議会の答申などに注目し、当時の政府が意図したものとはちがう方向(一元的能力主義)へ日本社会がすすんでいった経緯や原因を研究しています。その研究は1990年に出版された著作『日本の教育と企業社会 一元的能力主義と現代の教育=社会構造』にまとめられています。

私は、若いサラリーマンだった20代の頃(1990年代初頭)に、書店でたまたまみつけたこの本を買って読みました。そしてずいぶん驚き、感動したことをおぼえています。

乾さんが「一元的能力主義」と呼ぶ日本社会のあり方は、政府が主導して形成されたと思っていたのに、そうではなかった。政府はまったくちがう構想を考えていたのに、国民や個々の企業の選択の結果として、今がある。

このことが、すごく新鮮だったのです。乾さんの本は、私の「社会に対する見方」に影響をあたえた1冊です。

つまりこの本から私は「社会は政府や権力者が思うように動くとはかぎらない」という「あたりまえ」のことを、印象的に学んだのです。

乾さんの研究成果は、教育と労働市場の問題についての専門家や識者のあいだで評価され、共有されるようになっていきましたが、広く一般に知られているとはいえないでしょう。

でも、多くの人が知っておいていいことだと思います。

***

さて、みなさんは1963年の経済審議会答申の考え――「エリート育成」「複線型」「進学率をおさえる」「職能給中心」などからなる構想を、どう思いますか? 

私は、この答申が打ち出した構想は「これからの日本の教育や企業社会を考えるうえで、参考になる」と思います(このことは小熊英二さんも述べています)。

今の日本の教育のあり方は、いろいろと批判されているわけです。「右肩上がり」の時代が終わって30~40年が経ち、ここでいう「一元的能力主義」や「日本的雇用システム」はすっかり時代に適合しなくなっている――そんなことがさかんに言われます。

そこで「従来のシステム」にかわる何かを考えないといけない。

そのとき、高度成長の初期の時代に、このような「今とは根本から異なるシステム」が構想されていたことを知るのは、意味があるでしょう。

その「今とは異なるシステムの構想」は、日本の今後を考えるうえで、ひとつのたたき台になるかもしれません。

でも、この答申(1963年の経済審議会答申)が述べる社会なんて、やはり嫌だと思う人もいるはずです。

15歳でエリートとその他に選別され、多数派の子どもは早期に就職するか、職業訓練の世界へ進むことが求められるのです。そして、教養や学問を深く学ぶことは、特権的なことだとされる――これを「おぞましい」と思う人の気持ちも、私はわかります。

また、「企業社会というのは厳しくつまらないものだ。学校生活(のん気で、やはり楽しいこともある)を十分に経験してから社会に出たほうが、人生を充実して生きることができるのではないか」――そんな見方もあるはずです。

あるいは、「普通科や大学の一般教養的な教育には、個々の人生を豊かにするだけでなく、社会・経済の発展に寄与する“人材開発”としての意味がやはりあるはずだ」という考えもあり得るでしょう。

もちろん、それには学校での教育内容が、大幅に改善される必要があるはずです。

***

このように、今の私にははっきりした見解を打ち出すことはできません。

とにかく、ほかにもいろんな論点はあると思います。また、「今とはちがう別のシステムの構想」は、この「1963年の経済審議会答申」が描くもの以外にもあり得るでしょう。

でも、この「答申」を通して考えると、何のたたき台もないまま考えるよりも、ずっといろんなことに気がついて、考えが明確になるように思います。

 

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「専門の事典を手元に置いて、ちょっと調べる」習慣のすすめ

私はいくつかの小型の専門事典(辞典)を手元において、ときどき参照しています。

「インターネットでたいていのことは調べられる」というのは、たしかにそうでしょう。私もインターネットで調べたり、確認したりということはしょっちゅう行っています。

でもその一方で「これは自分のテーマ・関心領域」と思うことについては、紙の本である専門事典・小事典を手元において、必要に応じて参照するようにしています。

紙の事典の良さは、おもに2つあります。

ひとつは、情報の信頼性です。

紙の専門事典は、その分野で認められた専門家がとくに慎重に書いて、さらにほかの専門家や編集者のチェックを受けた内容でできているのです。「誰が書いたか不明で、特段のチェックを受けていない」という多くのインターネットの記述とは、わけがちがいます。

もうひとつは、説明が簡潔であること。

記述のスペースが非常に限られるので、基本的な要点だけが書かれている。ウィキペディアでは、細かい記述が延々と続くことがありますが、紙の事典はそれがない。だから、説明が頭に入りやすいのです。

もちろん、そんな「簡潔な説明」では物足りないことも多々あります。

でも、事典というのは「ちょっと調べる・確認する」ことが最も大事な用途だと思います。

そしてその「ちょっと」の情報は、「ちょっと」であるだけに正確なことがやはり重要です。

信頼性に不安がある、消化しきれない知識を100抱えこむよりも、精選された正確な知識を5つくらいしっかり身につけたほうが、きっと役にたちます。さらに詳しいことが必要だったら、そのテーマに関連する本を読めばいいのです。

***

今の私は世界史をメインテーマにしています(世界史の概説・入門書の商業出版をしたことがあります)。

そこで『角川世界史辞典』などを手元において、ときどき参照しています。

世界史上の人名については、水村光男編著『世界史のための人名辞典』(山川出版社)『東洋の歴史13 人名辞典』(新人物往来社)を愛用しています。

世界の科学史上のとくに有名な科学者については、板倉聖宣『科学者伝記小事典』(仮説社)を参照します。日本史については『角川日本史辞典』を手元においています。

そして、特定の地域・文化についての事典である『アメリカを知る事典』(平凡社)、『岩波イスラーム辞典』なども使っています。

また、若い頃(1980~90年代)は哲学や科学の古典を読むことへの関心が強かったので、わかりやすく哲学用語を解説した、思想の科学研究会編『哲学・論理学用語辞典(増補改訂版)(三一書房)、あるいは講談社現代新書の1冊で出ていた、伊藤俊太郎編『現代科学思想事典』をよく参照していました。

ただ、この2冊は1970年代の出版なので、内容的には相当にアップデートが必要だとは思います。でも、古典的な項目・説明をわかりやすく知るうえでは今でも役立つはずです。

また、私は法学部出身で、若い頃の会社勤めでは法務系の仕事もしていたので、『法律学小事典』(有斐閣)もよく手にしていました。

***

ここであげた、私が愛用する(愛用したことのある)事典におおむね共通するのは、「初心者向けに、わかりすく簡潔に書かれている」ということ。

あたりまえのことですが、事典を読んで「その説明がむずかしかったり煩雑だったりして頭に入らない」というのでは事典の意味がありません。

「自分にとって分かりやすく、使いこなせる」ということが、「手元においてちょっと調べる」事典では何よりも大事です。

アマゾンでの事典についてのレビューのなかに「この事典は初心者・学生レベルだ」として低い評価をしているケースがありますが、そういうものこそが「自分にぴったり」ということは多々あるはずです。

また、内容だけでなく、手に取りやすいサイズ・形状も重要でしょう。

***

私にとって「専門の事典を手元に置いて、ちょっと調べる」ことを習慣にしてきたことは、いろんな本や論説を理解し、自分でものを考えるうえで大きな助けになったと思っています。

自分の関心領域について、専門家をはじめ相当なレベルにある方にとっては「専門事典を手元に置く」というのは、あたり前のことだと思います。

でも、「事典を使うのはあたり前ではない」という方にも、これまで何度か会ったことがあります。

関心領域があるのに、まだその分野の事典を持っていない方は、古本で十分なので、ぜひ買うことをおすすめします。

***

なお、「これといった関心領域はない」という方にも、おすすめの事典があります。

それは『新世紀ビジュアル大辞典』(学研)という広辞苑サイズの事典で、「辞書+1冊版のミニ百科事典」といえるもの。

簡単な国語辞書的な情報のほかに、科学・自然・地理・歴史・人名などの幅広い分野の項目があり、1万を超えるカラーの図版がのっています。図鑑の要素もあるわけです。各項目の説明は、ごく短い。

まさに「ちょっとした調べもの」の事典。また、子どもによっては、この事典のいろんな項目を次から次へと読んで、ハマることがあるかもしれません。

この事典、昔はかなり売れたようですが、最後の版が出たのが2004年で、それ以降新版は出ていません。たしかにインターネットの時代には消える運命の本なのでしょう。

でも、1冊の限界まで詰まった分量(3000ページを超える)や細かいカラー印刷は、「紙の事典」としてある種の到達点のような感じもします。図書館にときどき置いてあるはずです。

***

あと、インターネットで紙の事典(百科事典)の記事が読めるサイトとして「コトバンク」があります。

「コトバンク ○○○←調べたいワード」で検索すると、その項目についての記事が平凡社や小学館などの百科事典にあれば、それらの百科事典の記述が出てきます(図版はカットされています)。これも、私はよく使っています。

ただしコトバンク(にある百科事典の記述)には、かなり昔の記述が多い、新しい事象の項目はない、などの限界はあります。しかし、「古典的な事柄・説明をちょっと確認する」のにはたいへん便利です。

私そういちの本

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「権力集中」の中国と、団体・階層ごとに権力が分散する日本

中国社会の特徴として、「トップへの権力集中」ということがあると思います。

つまり「絶対的な権力者がいて、その権力者によってバラバラな個人が束ねられる」という専制的(独裁的)構造がある。

中国は、今も昔も専制的な「皇帝」が支配する社会です。毛沢東にしても習近平にしても、世襲ではないものの、権力のあり方は王朝時代の皇帝とよく似ています。

中国社会のこうしたあり方――専制的・独裁的な構造について、現代中国の外交政策などの研究者・益尾知佐子さんは、こう述べています(『中国の行動原理』中公新書、2019年)。

“中国人の組織ではボスと部下たちは基本的に一対一の権威関係で結ばれている。部下たちの関係はほぼフラットで、互いに独立し、協力することもあまりない”(同書72ページ)

益尾さんによれば、中国の飲食店では社長(ボス)が割り振った各自の持ち場を超えて従業員どうしが協力しあうことは少ない。

たとえば、厨房のスタッフがフロアに出て皿を片づけたり、テーブルを拭いたりすることはめったにない(日系などの外資ではちがっていたり、ごく最近は多少の変化があったりするかもしれませんが)。

そしてそれは「従業員どうしの関係が悪いのではなく、相手のテリトリーを犯すことは、ボスに認められたその人の立場を否定するマナー違反になるからだ」ということを益尾さんは述べています。(73ページ)

***

こうした中国の組織のあり方は、たしかに日本とはちがいます。日本の飲食店なら、厨房とホールが互いの仕事を手伝うのは、普通のことです。つまり、問題が発生すると「誰もが組織のためにできるだけのことをする」というのが日本の組織。

そして益尾さんは“こういう〔日本的な〕組織では、権威は多くの人物に分散”し、“組織内で誰が実権を持つのか特定しにくい”と述べています。(70ページ)

つまり、中国の組織が基本的にボスと構成員との“一対一の関係性の束で成り立っている”のに対し、日本の組織は“縦に連なる重層的な関係性”で成り立っていると。(75ページ)

たしかにそうだと、私そういちも思います。

大企業でいえば、日本ではCEOだけに権力がとことん集中するのではなく、各部門のさまざまなレベル(役員から中間管理職まで)に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なって企業全体が構成されているということです。

そして、このような組織のあり方は、中国でも日本でも国家全体の構造にまで及んでいる、というわけです。

うんと単純化していえばこうです。

・中国は、バラバラの個人である14憶人が、トップの権力者によって束ねられている(権力集中の専制構造)

・日本は、大小さまざまな団体や、いろんなレベルの階層ごとに権力が分散(権力分散の団体構造)

***

こうした中国と日本の社会構造のとらえ方は、歴史研究の世界でも近年はかなり一般的なものです。

たとえば、中国史の研究者・足立啓二さんは、中国の専制国家体制を論じた著書で「中国は長い歴史のなかで、中間的な団体の存在が弱い、権力集中型の社会を形成してきた」ということを述べています。

一方日本社会は、さまざまな団体が力を持ち、それが積み重なってできている「団体構造」だと。

“団体性を持たない社会と、意思決定の集中化した巨大な政治的統合。この両者の組み合わせは、実に専制国家の指標である”

“封建制(そういち注:武家が支配する体制)の成熟以来、日本社会は集団重積型の構造を特徴としてきた。日本社会は閉じられた集団を単位とし、……集団の集合として上位の集団が形づくられている”

(足立『専制国家史論』柏書房、1998年、3㌻、70㌻。ちくま学芸文庫版・2018年)

このように、足立さんのような歴史学者の見解と、益尾さんのような現代中国ウォッチャーの見方は、大筋で一致しているということです。

***

この30~40年の中国は、「権力集中」のメリットを生かして発展してきたように思います。

つまり「改革・開放」ということで、日本や欧米の技術・経済を模倣して急速にキャッチアップしてきた。

一定の「正解」「お手本」があり、それを模倣していく過程では、「権力集中」の社会は成果をあげやすいです。

キャッチアップの過程では、権力者が「これが答えだ」と方向を示し、そこへ向かって人びとがまい進するという運動は効率がいい。

それは権力者の示す「答え」が、おおむね正しいからです。先進国の先例を踏まえているので、そうなります。

しかし、キャッチアップが相当にすすんで、世界の最先端に近づくにつれ、「何が答えか」ということはわかりにくくなっていきます。権力者が「これが答えだ」と示すことが本当に正しいとはかぎらない――その度合いが高くなっていく。

本来、最先端の未知の世界を切りひらくには、いろんな人が多様な方向性で摸索・探究をして、そのなかから実験的に「真理」「解」をつかみとっていく活動が必要です。

そういう「未知をきりひらく」活動は、民主主義的で自由な社会ならではのもの。絶対的な権力者が「何が正解か」を決める社会では、そういう活動はおさえられてしまう。

今や技術も経済も相当に発達した中国社会ですが、そろそろ「最先端の未知をきりひらく」壁につきあたり、停滞が起きる可能性はあると思います。

ただし、まだまだ「キャッチアップ」「模倣」によって発展する余地が残っているかもしれません。

あるいは、先端的な研究をするエリートのあいだでは、かなりの「民主主義」「自由」を認め、創造性を発揮できる体制をつくって「壁」を乗りこえるかのかもしれません。

しかし、いずれにせよ「権力集中」の社会であることの問題・限界は、これから中国でいろんなかたちであらわれるように、私は思います。中国はそれをどこまで克服できるのか――そんな関心を私は持っています。

***

では、「団体構造」である私たち日本は、どうなのか?

高度成長期(1950年代~70年代)の日本もまた、欧米の技術や経済に学んで出した「答え」の方向で発展してきました。

ただしその「答え」は特定の権力者の指示というより、いろんなレベルの団体・組織のなかで共有され、その方向に向かってみんなでまい進してきたのです。そして1980年ころまでには、「キャッチアップ」をほぼ完了したのでした。

しかし、その後はキャッチアップのときの勢いは失われていきました。

「最先端の未知をきりひらく」ことが、できないわけではないにせよ、先進国になってからの40年ほどのあいだ、思ったほどはできなかったようです。それが経済成長(低成長の長期化)にあらわれている。

この数十年の日本では「国家を支配する専制権力が、人びとの創造性を縛る」ということはなかったでしょう。

でも、それぞれの組織や団体のなかの慣習やしがらみ(とくに成長期の成功体験に基づく)が、人びとを縛っている。

さらに、いろんなレベルの団体・組織どうしの「調整」にばかりにエネルギーを費やして、どの方向にも踏み出せない傾向がますます強くなっている。

つまり、日本の「団体構造」は、中国の「権力集中」よりも先にマイナス面が強くなって久しいのではないか。

***

以上、このところ「日中国交正常化50周年」ということで、中国についていろんなメディアで取り上げていたので、「日本と中国が今どのような地点にいるのか」について、自分なりに考えてみました。

メディアでは「日本は中国とこれからどう向き合うべきか」といった問いかけがなされ、識者がいろいろ答えていました。

たしかにそれは大事な問いだとは思います。

しかし一方で「日本自身がこれからどうするか、どうやって力をつけるのか」ということが、じつは中国との関係において非常に重要なのかもしれません。これは、日本に長年暮らす中国人の研究者・柯隆(か・りゅう)さんがある番組で述べていたことで、私ははっとさせられました。

たしかに、日本が「中国とどう向き合うか」を深刻に考えるようになったのは、日本が停滞し、中国が相対的に強く・大きくなったからでしょう。

だから、今後の日本が経済・社会の「力」を高めていくことこそが、中国とのいろんな問題を日本にとって好転させていく原動力になるのではないか――しかし、それはなかなかたいへんなことだとも思います。

 

柯隆さんの中国論の著書

「ネオ・チャイナリスク」研究

「ネオ・チャイナリスク」研究

  • 作者:柯隆
  • 慶應義塾大学出版会
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日本社会の「団体構造」と、日本企業の「メンバーシップ型」の雇用はつながっていると思います。つまり日本人は、特定の仕事(ジョブ)に担い手ではなく会社組織(団体)のメンバーとして雇われる(正社員の場合)ということ。

「分断」のある幸せと心配

昨日の安倍元総理の国葬についての報道を、テレビでみました。

献花のための長い列、その一方で反対派のデモ。反対派のデモは警察官に誘導されていました。デモに対し怒りをあらわにして暴れようとする賛成派の人もいましたが、警察官がなだめて制止している姿も映されていた。

こういう様子を「分断」というわけです。

たしかに「意見の対立する人たちが同時に隣接して存在する」というのは「分断」を絵に描いたような様子でした。

ただ、このときデモにも献花にも参加していない大多数の人たちは、自分の日常を送っていたわけですが。

でもとにかく、このように「分断」のあることは、じつはそれなりに幸せなことだと思います。私たちの国で、相当な民主主義や法治が機能していることを、それは示しています。

政府のやることに反対する人たちのデモが(少なくともその一部は)警察に粛々と誘導され、その反対派に怒る人が警察になだめられる場面もある――なんて平和な法治国家だと思います。

一方、世界には反政府デモの参加者が、警察にボコボコにされ連行される国(たとえば最近のロシア)もあるわけです。それどころか、デモ参加者が軍や警察に撃たれてしまう国(たとえば最近のミャンマー)、そもそも反政府デモなんてあり得ないという国(たとえば北朝鮮)もある。

今の日本はそうではない、もっと真っ当な体制なわけです。このような民主主義や法治の体制こそ、私たちが大切にしなければならないことのはずです。

***

でも、私は今回の様子をみていて「分断は疲れる」とも思いました。社会がまとまらないことへの「苛立ち」を感じたといってもいい。

ただ、私自身はこの葬儀に対しそれほど強い関心や利害がないので、その「苛立ち」はかすかなものでした。でも、もっと強い関心や利害のあるほかの問題だったら、またちがっていたでしょう。

そして、多くの人たちのあいだでそういう「苛立ち」あるいは「閉塞感」が積み重なって強くなっていったら?

近現代の世界史をみると、そんな「苛立ち」「閉塞感」が強くなると、「民主主義や法治の面倒な縛りを超えた、強力な権力を人びとが望むようになる」という事例が散見されます。「権力」のことは、ソフトな表現では「リーダーシップ」といいます。

その極端で大規模な事例としては、ナチスの台頭や昭和戦前期の日本の政治情勢がある。

当時、ドイツでも日本でも議会政治や政党の腐敗・行き詰まりに国民は失望し、苛立っていました。その行き詰まりを打破するための路線をめぐって、右と左の激しい対立(今でいう分断)もあった。

そこで、強力で明確な方向性をもつ権力を待望する空気があったわけです。「強いリーダーシップによっていろんな問題を一挙に解決してほしい」という「一挙解決願望」(私の造語です)が高まっていた。

また、「一挙解決願望」の高まりということは、現代においても、いくつかの国でポピュリスト政権が成立した際にもみられたことです。

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結局、いわゆる「右」だろうと「左」だろうと、その動きに関して一番気をつけないといけないのは、民主主義や法治のシステムを「面倒」あるいは「無力」だと否定する傾向ではないでしょうか。

そして、その傾向を後押しするのは、国民のあいだの「分断・対立への苛立ち」や、そこから生じる「一挙解決願望」です。

この点に関し、今の日本は、まだ真に「危険」な状態ではないと思います。今回の国葬における「分断」の様子は、それを示している。

でも、「いずれどうなるかわからない」と、心配な気持ちにもなります。

たとえば、今回の国葬について、その実施を国会で決めるなどの、政権としては(いろいろ面倒ではあっても)やろうと思えばできたはずの手続きをふまなかったことは、気になります。

今回の国葬じたいは、大きなイベントではあっても国の命運を左右するほどのことではないので、その決定の手続きなど、たいしたことではないのかもしれない。また、国葬に賛成であれば「良いことを決めたのだから、手続きのことなどどうでもいいではないか」と考える人も、中にはいるでしょう。

でも、このような「権力が“民主主義や法治の縛り”から自由になろうとする傾向」こそ、気をつけなければいけないと私は思います。

その傾向がとことん強くなった先には、「分断を生む対立意見の存在は許さない」という権力が生まれる可能性があるわけです。

GDPとは「総買い物額」だと理解しよう

最近、つぎのような報道が出て、ネット上でも話題になっていました。たとえば日経新聞(2022年9月19日)では「止まらぬ円安、縮む日本」という見出しでこう報じています。

《ドル建てでみた日本が縮んでいる。1ドル=140円換算なら2022年の名目国内総生産(GDP)は30年ぶりに4兆ドル(約560兆円)を下回り、4位のドイツとほぼ並ぶ見込み》

1968年に、日本のGDPは、西ドイツ(東西統一前)を抜いて世界2位になりました。日本が高度経済成長期(1955頃~1975頃)の只中にあった時代のこと。

以来長いあいだ日本は世界2位でしたが、2011年に中国が2位になり、日本は3位となった。

そして今、4位のドイツに追いつかれてきた。

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まあ、中国の人口は日本の11倍もあります(2020年の日本の人口:1.26憶人、中国:13.4憶人)。だから、一定の経済発展(つまり1人あたりGDPの上昇)があれば、GDPで日本を抜いてしまうのも、まだわかる気がします。

でも、ドイツの人口(約8400万人)は日本の66%(7割弱)です。

「日本のGDPが、日本の7割の人口のドイツに追いつかれる」というのは、「日本の1人あたりGDPがドイツよりもかなり下回っている」からです。

さらに円安によって、ドルに換算した1人あたりGDPは、一層ドイツと差がついてしまった。今、ドイツの1人あたりGDPは、ドル換算で日本の1.5倍になっている。

「1人あたりGDP」は、とりあえずは「その国の経済の発展度・生産性を示す数値」と、おおまかには考えればいいでしょう。

これに対しGDPは「その国の経済規模」をあらわします。

近年の日本は経済発展が停滞している。そのため、成長の勢いがあり、巨大な人口を擁する中国ばかりか、日本よりも人口の小さなヨーロッパの先進国ドイツにもGDPで追いつかれる可能性が出てきたのです。

そこには、今年に入ってからの急激な「円安」ということは、たしかに大きく作用している。

しかしベースには「この30年くらい日本の1人あたりGDP(経済の生産性)がほとんど上昇せず、かつ人口も増えていない」ということがある――これは、いろんなところで言われていることですね……

***

さて、ここからが本題。といっても「日本の衰退」についてではありません。

以上の話で、キーワードは「GDP」「1人あたりGDP」ですが、これらの言葉・概念について、あなたは中学生に説明できますか?

そういう説明ができるということが、「ほんとうにわかる」ということだと、私は思います。

そして、「GDP」「1人あたりGDP」についてしっかりした理解・イメージを持っていないと、上記の「日本のGDPがドイツに追いつかれる」みたいな話は、なかなか頭に入らないはずです。

あとは「円安」といった為替のこともありますが、こちらについてはここでは立ち入りません。

***

そもそもGDPとは何か? 「その国で一定期間(典型的には1年間)に生産された付加価値の合計」といった説明がよく述べられます。

でも、これでは中学生には(まったくの初心者の大人にも)わかりませんね。

私はかつて(もう何年もやっていませんが)「まったくの初心者向け」の経済に関する勉強会で講師役をやっていたとき、つぎのような説明をしていました。

GDP(国内総生産、gross domestic productの略)とは、一言でいうと「国内全体の、みんなの1年間の買い物の総額」のことです。

つまり、私たちがスーパーで食料品を買ったり、デパートで服や靴を買ったり、ローンを組んで自動車やマンションを買ったり、美容院に行ったり、旅行で電車に乗ったりホテルに泊まったり……そんなふうにして、国じゅうで1年間に使った金額です。

この「買い物額」の合計(総買い物額)がGDPです。

つまり、「GDPとは総買い物額」である。

なお、「四半期(3ヶ月)」のGDPというのもありますが、最も一般的なのは「1年間」でみた数字です。

「何を買うか」は、モノを買う場合とサービスを買う場合があります。食料品や洋服や自動車やマンションを買うのは、モノを買うこと。

髪を切ってもらう、電車に乗る、ホテルに泊まる、というのはサービスを買っています。理容のサービス、輸送のサービス、宿泊場所の提供というサービスです。

「GDPは総買い物額である」というのは、うんと単純化した説明です。補足すべき点もあります。しかし、最初に入るときのイメージとしては、とりあえずこれでいいのです。

***

以上が基本の基本ですが、ここからは「中学生にもわかるレベル」をやや超えた話をします。

そして、「みんなの買い物額」というときの「みんな」というのは、私たちのような「個人」のほかに、企業が設備を買ったり、国や自治体(合わせて政府)が公共の事業を行ったりする、「企業や政府による買い物」も含まれます。

GDP=個人の買い物+企業の買い物+政府の買い物

ということです。より詳しくはほかの構成要素もあるのですが、まずはこれでおさえればいいです。

そして現代の日本の場合、大雑把にはGDPの6割弱が個人の買い物(個人消費)、2割弱が企業の買い物、2割が政府の買い物となっています。

なお、GDPという数字は、政府の専門部署が、企業の売上をはじめとするさまざまな調査のデータをもとに、いろいろな計算をして出した数字です。

これには、たいへんな手間がかかります。だから、信頼できる数字を出すには、しっかりした政府や企業の組織が、社会に存在していることが必要です。

さて、ドル換算だと金額のイメージがわきにくいので、以下、円の金額で述べます。

2020年(年度)の日本のGDPは、536兆円です(「名目値」という数字)。

この数字(500兆円余り)は、日本の人口は日本の人口(1.3憶人、あるいは1.25憶人)とともに覚えておくといいでしょう。

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以上述べたように、GDPは「国全体の、みんなの買い物額」です。そして、これを国の人口で割った「1人あたりGDP」という数値があります。

買い物の額というのは、実際には人によってまちまちですが、平均値を求めたのが、1人あたりGDPです。ただし個人の買い物だけでなく、企業や政府の買い物も含めた合計額を、人口で割って求めます。

1人あたりGDPも、社会や経済を知るうえで重要な数字です。場合によってはGDP以上に重要ともいえます。

日本の1人あたりGDP(2020年度)は、426万円です。

536兆円÷1.26憶人=426万円/人

そして、この1人あたりGDPが高いほど、その国の「お金持ち度」は高いといえるでしょう。たくさんの額の買い物ができるのはお金持ちです。

そして「お金持ち度」とは、ややむずかしい言い方をすれば「経済の発展度」「経済の生産性」ということです。

***

そして、ここからがとくに大事なところです。

536兆円÷1.26憶人=約426万円/人

この式は、「じつはこういうことだ」と考えてほしいのです。

426万円/人×1.26憶=536兆円

つまり「年間に400万円余りの買い物をする個人が1.3憶人集まって、500兆円余りの規模の経済ができている」ということを、この式はあらわしています。

ただし、この「1人平均400万円余りの買い物」というのは、個人だけでなく企業や政府の分も入っています。企業や政府は個人が働いたり税金を納めたりして支えているので、「個人の活動の延長線」にある「個人の一部」と考えましょう。

以上、要するに

1人あたりGDP×人口=GDP

ということです。

***

この式で国の経済をイメージすることはすごく大事です。

なぜなら、その国の経済というのは結局、その国の日々の個人の活動の集合体なのですから。

つまり、「1人1人の暮らしが集まって経済はできている」ということ。

そして、個々人の活動(経済では買い物額であらわされる)が活発なほど、その国の経済は発達した高度なものであると、おおまかにはいえるでしょう。先進国といわれる国の国民ほど、多くの金額のモノやサービスを日々消費しながら生活しています。

以上のような、国の経済についての基本的なとらえ方を「1人あたりGDP×人口=GDP」という式はあらわしています。

この式の「経済入門」における重要性は、一見なんでもないことのようですが、私のささやかな発見だと思っています。

この式について、何人もの「経済についてまったくの初心者」の方々に話して、その人たちが少しでも経済を知るうえでおおいにプラスになったと実感しています(秋田総一郎著『人口とお金持ち度で見渡す世界の国ぐに フラッグス・る?』楽知ん研究所刊・2004年などで述べている)。

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さいごに、1人あたりGDP、人口、GDPの関係を図で表すと、こうなります。

タテ軸に人口、ヨコ軸に1人あたりGDPを取ると、国のGDPは、つぎの図のような長方形の面積であらわすことができます。

以上述べた「GDP」「1人あたりGDP」の概念、そしてこの長方形の図のイメージは、「経済についてはまったくの初心者」という方であれば、ぜひマスターされるといいと思います。

そうすると、たとえばこの記事の最初に述べた「日本のGDPがドイツに追いつかれる」といった話が、明確に理解できるはずです。

また、ここに書いたようなことは「とっくにわかっている」という方は、初心者の方にGDPについて説明する機会があったら、説明の仕方の参考にしていただければ、と思います。

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