そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

「分断」のある幸せと心配

昨日の安倍元総理の国葬についての報道を、テレビでみました。

献花のための長い列、その一方で反対派のデモ。反対派のデモは警察官に誘導されていました。デモに対し怒りをあらわにして暴れようとする賛成派の人もいましたが、警察官がなだめて制止している姿も映されていた。

こういう様子を「分断」というわけです。

たしかに「意見の対立する人たちが同時に隣接して存在する」というのは「分断」を絵に描いたような様子でした。

ただ、このときデモにも献花にも参加していない大多数の人たちは、自分の日常を送っていたわけですが。

でもとにかく、このように「分断」のあることは、じつはそれなりに幸せなことだと思います。私たちの国で、相当な民主主義や法治が機能していることを、それは示しています。

政府のやることに反対する人たちのデモが(少なくともその一部は)警察に粛々と誘導され、その反対派に怒る人が警察になだめられる場面もある――なんて平和な法治国家だと思います。

一方、世界には反政府デモの参加者が、警察にボコボコにされ連行される国(たとえば最近のロシア)もあるわけです。それどころか、デモ参加者が軍や警察に撃たれてしまう国(たとえば最近のミャンマー)、そもそも反政府デモなんてあり得ないという国(たとえば北朝鮮)もある。

今の日本はそうではない、もっと真っ当な体制なわけです。このような民主主義や法治の体制こそ、私たちが大切にしなければならないことのはずです。

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でも、私は今回の様子をみていて「分断は疲れる」とも思いました。社会がまとまらないことへの「苛立ち」を感じたといってもいい。

ただ、私自身はこの葬儀に対しそれほど強い関心や利害がないので、その「苛立ち」はかすかなものでした。でも、もっと強い関心や利害のあるほかの問題だったら、またちがっていたでしょう。

そして、多くの人たちのあいだでそういう「苛立ち」あるいは「閉塞感」が積み重なって強くなっていったら?

近現代の世界史をみると、そんな「苛立ち」「閉塞感」が強くなると、「民主主義や法治の面倒な縛りを超えた、強力な権力を人びとが望むようになる」という事例が散見されます。「権力」のことは、ソフトな表現では「リーダーシップ」といいます。

その極端で大規模な事例としては、ナチスの台頭や昭和戦前期の日本の政治情勢がある。

当時、ドイツでも日本でも議会政治や政党の腐敗・行き詰まりに国民は失望し、苛立っていました。その行き詰まりを打破するための路線をめぐって、右と左の激しい対立(今でいう分断)もあった。

そこで、強力で明確な方向性をもつ権力を待望する空気があったわけです。「強いリーダーシップによっていろんな問題を一挙に解決してほしい」という「一挙解決願望」(私の造語です)が高まっていた。

また、「一挙解決願望」の高まりということは、現代においても、いくつかの国でポピュリスト政権が成立した際にもみられたことです。

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結局、いわゆる「右」だろうと「左」だろうと、その動きに関して一番気をつけないといけないのは、民主主義や法治のシステムを「面倒」あるいは「無力」だと否定する傾向ではないでしょうか。

そして、その傾向を後押しするのは、国民のあいだの「分断・対立への苛立ち」や、そこから生じる「一挙解決願望」です。

この点に関し、今の日本は、まだ真に「危険」な状態ではないと思います。今回の国葬における「分断」の様子は、それを示している。

でも、「いずれどうなるかわからない」と、心配な気持ちにもなります。

たとえば、今回の国葬について、その実施を国会で決めるなどの、政権としては(いろいろ面倒ではあっても)やろうと思えばできたはずの手続きをふまなかったことは、気になります。

今回の国葬じたいは、大きなイベントではあっても国の命運を左右するほどのことではないので、その決定の手続きなど、たいしたことではないのかもしれない。また、国葬に賛成であれば「良いことを決めたのだから、手続きのことなどどうでもいいではないか」と考える人も、中にはいるでしょう。

でも、このような「権力が“民主主義や法治の縛り”から自由になろうとする傾向」こそ、気をつけなければいけないと私は思います。

その傾向がとことん強くなった先には、「分断を生む対立意見の存在は許さない」という権力が生まれる可能性があるわけです。