世界史の流れは、かつては広くみられた奴隷的な人びとを、少数の例外にしていきました。とくに現代の先進国ではそうなっている。
しかし現代にも奴隷はいます。例えば借金返済のため、違法な奴隷的労働を強いられる人たち。
そして、奴隷をもっと広く「意志に反することを強制される人」と定義すれば、さらに大勢いるはずです。
例えば喫煙者が今の「禁煙」拡大の世論の中で、タバコをガマンするのはそう。感染予防のためのマスクの着用でも、同じことがいえます。
もっと死活問題的な例だと、ダムや原発の建設について地元で賛成・反対の多数決が行われ、少数派が決議に従う、というのもそう。
税金もそうです。増税に反対の人も、国会で決めたことには従わざるを得ません。予算の使い方も同じことです。
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こうした現代の「奴隷」には、たいていは「民主主義」「多数決」がかかわっています。多数決は、少数派をその決定に従わせ、奴隷的な状態におくものなのです。
板倉聖宣さんという学者は、「最後の奴隷制としての多数決原理」などと述べています。
そして多数決については、その恐ろしい面を理解して「できるだけ決議をしないことが大切だ」といいます(『社会の法則と民主主義』仮説社)。
たしかに、「これが正しい方針である」などと、やたらと決議したがる組織や国家は、「民主主義」を掲げていたとしても、じつは「圧政」が行われている傾向があるのでしょう。
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今の民主主義は、社会の人びとがその立場や状況に応じて一種の持ち回りで「奴隷」になっている、といえるのでしょう。でも、じつは特権的な人が「持ち回りの奴隷制」の外にいたりするのかもしれない。
現代の社会において、やはり奴隷制は完全には克服されていないのです。何らかのかたちで「奴隷的状態を押しつける対象」を探し求める動きは、絶えずあるように思います。
とくに現代の日本のように経済の停滞が続くと、優位にある人びとが、不利な条件の人びとにいろんなことを押しつける傾向が強くなる。
あるいは、さまざまな問題を先送りにして未来に押しつけるというかたちで、「未来の世代」を、今の世代の「奴隷」にしてしまうということもある。
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しかし本来は「みんなが平等に〈奴隷〉を持ち回りで引き受ける」というのが、「あるべき姿」でしょう。実際のところ(前にも述べたように)現代の民主的な社会は、基本的にその方向で運営されていると、私はみています。
さらに、各人に「奴隷」がまわってくる機会をいかに減らすかが、今の文明の課題です。
この基本的な「あるべき姿」や「課題」を、より多くの人が自覚することが、民主主義の取り扱いでは重要だと思います。
その自覚がないと、民主主義は「多数決で勝った側が、都合のいいように新たな奴隷を生み出す制度」になってしまうはずです。
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