そういちコラム

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「私的なテロ」の時代・「テロへの共感」に気をつける

安倍元首相の殺害事件から、もうすぐ4週間が経とうとしています。いろんな事実が明らかになり、人びとや識者のいろんな反応・主張をみていると、いくつか気になること、「それはどうなんだろう」と思えることもある。

ひとつは、「政治的な主張に基づく犯行ではないから、これは単なる殺人事件であって、テロと呼ぶべきではない」という主張です。

私が(ネット上で交流がある)信頼する人のなかにも、この主張に賛同する方はいました。その人は、この犯行に対し自分の政治的主張を重ね合わせる論調に嫌気がさしていたようです。

たしかに「今の政治が悪いから、こんな事件が起こった」「いや、保守政治を批判する言論が事件を引き起こした」みたいな論調は、私も賛同できない。でも、だからといって「これはテロではない」とも思いません。

「これはテロではない」という主張は、「テロ」への理解が古いまま更新されていないから出てくるのだと思います。

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そもそもテロとは何か。最も本質的には「社会の秩序に不安や恐怖を与えることを狙った暴力」だと、私は考えます。あとのことは枝葉です。

そのような「テロ」は、これまでは右や左の政治的主張と結びつくことが多かった。そこで政治的組織の背景を持つ傾向があった。

ところが今回の犯行は、その類型に当てはまらない、個人的犯行の可能性が高いです。そして、「カルトの宗教団体によって悲惨な境遇に陥った人物による、個人的な復讐」といえるようです。

しかしこの犯行は、現代の日本の政治家で最重要の1人を殺害することで、社会の秩序や人びとの心に衝撃を与えました。そして、それこそが犯人の直接の狙いだった可能性が高い。

さらに、その「衝撃」がカルト教団への関心を呼び、教団への社会的な攻撃につながっていくことを意図したものであるようです(それをどの程度明確に認識しているかは別にして、そういう意図があることは、犯人の供述や状況証拠から伺える)。

これはまさに「社会の秩序に不安や恐怖を与える暴力」ということです。そして、これからの「テロ」は、こうなっていくのではないか。

つまり、今回のように政治的意図ではない「個人的な思い・恨み」をストレートに打ち出して、組織的背景を持たない個人によって行われるケースが増えるのではないか。古典的な右翼や左翼が後退していることは、その背景にあるでしょう。

かつては「個人的な社会への怨念」を政治的主張に昇華させて、あるいはそれにすり替えてテロを行うことが多かった(ここでは立ち入りませんが、そもそも「政治的主張」と「個人の怨念」は簡単には区別できないところがある)。

しかしこれからは、「個人の怨念」が直接にテロを生み出すようになっていく(その可能性がある)ということです。それは「非政治的テロ」「私的なテロ」とでも言ったらいいでしょうか。

また、この犯人はインターネットや流通のサービスなどを通じて、犯行に用いた武器をつくるノウハウや材料などを入手しています。「個人によるテロ」を可能にする「社会インフラ」が、現代社会では成立しているようです。

「政治的主張に基づく組織的なものこそがテロ」という見方では、これからの時代のテロを理解することはできないでしょう。

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そして、もう一つ気になるのは、犯人に同情・共感する人が、SNSなどのネット言論をみるとかなりいるということ。

もちろん、犯人が復讐しようとしたカルト教団やその犠牲者の存在、そして教団の政治への浸透といったことは、深刻な社会問題であり、社会や政府はそれに対応すべきだと思います。

この件について、政治家のなかには、この期に及んで「何が問題なのか」などと開き直ったり、「うむやにして乗り切ればいい」と腹の中で思っていたりする向きもあるようですが、それでは信頼を失うことになるでしょう。

しかし、だからといって、このような殺人が正当化されるはずもない。「それとこれとは話が別」ということ。

犯人への共感がただちに「犯行の正当化」につながるわけではありませんが、「同情・共感」は「正当化」の下地になります。

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そして、このような「テロへの共感」は、五・一五事件や二・二六事件のような戦前昭和に起こった一部の軍人によるテロ(要人殺害などを行った)でもありました。

それは「政治や資本家が腐敗し、人びとが苦しむ状況を是正して日本を良くするために、この軍人たちは立ち上がったのだ」という見方です。

たとえば五・一五事件では当時の犬養首相が殺害されているのですが、この主張によれば、殺された首相は死に値する「悪」で、テロを起こした軍人たちは「正義」だということになる。そんな主張は、後世の私たちからみれば明白に「おかしい」と思えるはずです。

こうしたテロのあとに議会政治や良識のある言論は崩壊して、日本は軍国主義へ大きく傾き、破滅的な戦争にすすんでいきました。その歴史を私たちは知っているから、なおさら戦前昭和のテロを肯定する気にはならない。

しかし、同時代のかなりの人たちは(政府内部の人びとも含め)テロリストに同情・共感したのです。同時代の渦中では、そういうことが起きる。

そのような「テロへの共感」こそが、社会を壊す、最大の力ではないかと私は思います。テロそれ自体だけでは、民主主義や社会の秩序は壊れない。しかし、そこに人びとの「テロへの共感」が加わったときは、怖いのです。

そこで大事なのは「テロに屈してはいけない」というアナウンスよりも「テロへの共感に気をつける」ことだと思います・

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以上をまとめれば、「テロが個人的な怨念や、組織的背景のない個人によって実行される、いわば“私的なテロ”の時代になってきた」「そのようなテロに共感する言論がインターネット上でそれなりに力を持っている」――こういう状況がある。

そして「私的なテロ」は、「自分と同じような等身大の人間の犯行」として、組織的なテロよりも感情移入しやすい面もあるかもしれません。

このような状況は、抽象的にたとえれば「社会の免疫力の低下」ということだと思います。社会を壊すがん細胞や病原菌による攻撃の頻度が高まり、それを否定して潰す社会のエネルギーが落ちているということ。

でも、自覚して生活を整えれば、免疫力は上がるものです。病が悪化しないうちの、早めの自覚や努力が大事である。「免疫力」の側に、微力でも自分は立ちたいものだと思います。

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