そういちコラム

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古代ギリシア・アテネの民主政・その驚くべき達成について知ろう

紀元前400年代の古代ギリシアでは、何百もの都市国家(ポリス)が並び立ち、当時の世界で最も進んだ経済・文化が栄えていました。

最も有力なポリス・アテネ(人口20~30万人、都市部に限れば10~15万人)では、市民が主役の民主政治(民主政)が行われました。

その民主政が完成形となり、活力があったのは紀元前400~300年代前半。古代ギリシア史では「古典期」といわれる時期でした。

アテネの民主政については、私たちは学校の授業で習って、なんとなくわかった気になっているはずです。

しかし私は、社会人になってから本を読んでアテネの民主政について多少とも知り、おどろきました。今から2400年前に、こんな高度の政治制度を発達させた文明があったのかと。

この記事では、古典期アテネの民主政の驚くべき達成について、その一端を簡単にご紹介します。

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古典期のアテネ(やその他の民主的なポリス)では、市民が広場に集まって国政について議論を行いました。このことは、多くの人が知っているでしょう。この集まりを「民会」といいます。市民権のある成人男子は、誰でも民会に参加できました。

では民会は、どのくらいの人数が集まり、どのくらいの頻度で開催されたのでしょうか? 

答え――アテネの民会の定足数は6千人。そして月に4回は集まったのです。つまり、6千人以上が年に数十回集まって国政を議論した。そんなにも頻繁だったのです。しかも集まるたびに1日がかり。

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民会はアテネの最高決定機関でした。しかし、そのような全員参加型の機関は実務的には機能しにくいです。

そこで、市民の代表500人による「評議会」という機関があり、民会を補佐することになっていました。評議会は民会に提出する議案を決める権限があるなど、国政の中枢といえる機関でした。

そして、この500人の評議会は、「フェレー(部族、部会などと訳される)」という行政的な単位から選出されました。

アテネには10のフェレー(十部族)が置かれ、各フェレーから50人ずつの代表が評議会のメンバーに選ばれます。軍隊の司令官(将軍職)も、各フェレーから1人ずつ選ばれる。フェレーという単位は、アテネの国制の柱でした。

そして、フェレーを構成するにあたっては、人口のほか、都市部・沿岸部・内陸部といった地域特性のバランスも考慮されていました。

これは、フェレーのあいだで人口やその他の属性でばらつきが生じないように配慮されていたのです。つまり、伝統や慣習に基づく線引きでフェレ―を決めたのではないということです。

これには、かつての貴族政の名残や家柄による対立、地域間のあつれきなどに左右されてきた、従来の政治を一新するねらいがありました。

なお、村落レベルの細かい区分として、デーモスという単位が設けられ、その数は100数十ほど。このデーモスを基礎にフェレーは組織されました。

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そして、評議会のメンバーには任期があり、再選も制限されていました。権力の集中を避け、市民の平等をはかるためです。その他のさまざまな役職についても同様の制限がありました。

権力の集中を避ける平等主義は、アテネの民主政の基本原則でした。これは徹底したもので、アルコン職というポリスのトップについても、市民のあいだのくじ引きで決める制度になっていました。

また、独裁者になろうとする人物を市民の投票で追放する制度も設けられていました。その投票では、陶器のかけらに追放すべき人物の名前を記したので「陶片追放」といいます。これについては、知っている人は多いかと思います。

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ただし、軍の司令官である将軍職は、抽選ではなく選挙で選ばれ、例外的に再任やほかの職との重任が可能で、任期に制限はありませんでした。

戦争という非常事態の指導者については、専門性のあるリーダーを置くことにしたわけです。

そして、この将軍職のなかの実力者が、抽選で選ばれるアルコンにかわって、アテネの事実上のトップになっていきました。

紀元前400年代後半、アテネの指導者として市民の絶大な支持を得て活躍したペリクレスは、将軍職に十数年間続けて選ばれています。しかし、あくまで市民に選ばれる指導者であり、その権限もさまざまな制約を受け、独裁者になることはありませんでした。

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どうでしょうか? このようにアテネの民主政は、相当に考え抜かれた・手の込んだ制度設計でした。

そして、法的なルールが市民のあいだで共有され、政治的な権限が家柄や個人の威光ではなく、組織や役職に基づくことが原則となっています。

しかし、当時のアテネの知識人は「民主政は愚かな民衆が力を持つのでダメだ」と、しばしば体制批判をしました。それでも、弾圧はそれほどは受けませんでした。

たとえばプラトンは、そのような民主政批判をしていますが、基本的にずっと安泰でした。つまり古典期のアテネでは、かなり高度の「言論の自由」があったのです。

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アテネの民主政については、「女性や奴隷に参政権がない」とか「衆愚政治に陥った」といった欠点や限界のほうを、私たちはよく聞かされるように思います。

しかし、以上のようにその一端をざっとみただけでも、相当に高度な制度や運営による政治体制で、決してあなどれないことがわかります。

そして、民主政に活力があった時代にこそ、アテネはおおいに栄えたのです。その期間は100数十年ほど。世界史数千年のなかでは短いともいえますが、何世代にもわたって続いたともいえるでしょう。

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今の私たち日本人は、おそらく古典期のアテネよりもはるかに高度に発達した民主主義の政治体制のもとで生きています。そしてアテネの人びとよりも、はるかに豊富な(民主主義に役立つはずの)文明の道具や制度的手段を持っている。

しかし私たちは、民主主義(民主政)に対し古典期のアテネ人ほどの熱意は持っていないように思います。そして、熱意が足りないので、持っている道具や手段も、十分に使いきっていないところがあるはずです。

つまり、私たちは民主主義の可能性を、まだ十分に開花させていないのではないか。そしてこれは日本に限ったことではない――アテネの民主政について知ってから、私はそんなふうに思うようになりました。

 

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