そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

「本格派の女優」をめざして努力したマリリン・モンロー

6月1日はマリリン・モンロー(1926~1962)の誕生日。おもに1950年代に活躍し、今も語り継がれる映画女優。

その「死の謎」や、いくつものゴシップもありますが、20世紀半ばの時代を象徴するアイドルとして特別な存在です。

彼女(本名はノーマ・ジーン・モーテンセン)は「恵まれない環境で苦労して育った」といえます。

母親は未婚のまま彼女を生み、生活が苦しかったので他人に彼女を託したこともありました。母娘で暮らした時期もあったのですが、8歳の頃に母が精神を病んだため、その後は孤児院やいくつかの里親の家庭で育てられた。

成長した彼女は、16歳で一般男性と結婚。だが結婚生活は長くは続かず、20歳の頃(1946年)にはかけ出しの女優として活動を始めました。

しかしマイナーな映画やテレビドラマで多少の仕事はあったものの、なかなか芽が出ない。そこでピンナップ・ガール(今の日本でいうグラビア)の仕事で食いつないだ。

ところがグラビアの仕事から人気が盛り上がるなどして、ついに映画の主演の仕事を次々と得ることに。それらの映画(1953年公開の『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』など)が大成功して、一挙にスターとなったのです。

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彼女は、セクシーな魅力で人気者になりました。それを彼女はよろこぶ一方、「もっと演技力のある本格派の女優になりたい」と真剣に願っていました。

彼女は「マーヴェラス・アクトレス(すばらしい・すごい女優)」になりたいと、よく口にしていたといいます。

ただし、アメリカ文化研究者・亀井俊介さんの『マリリン・モンロー』(岩波新書)によれば、“マリリンが本当に求めていたのは、狭い意味でのいわゆる「演技派女優」になることではなかった”のだそうです(この記事の情報の多くは同書による)。

亀井さんによれば、マリリン・モンローが考える「マーヴェラスな女優」というのは、肉体や容姿の力と魂の力が合わさったもので、その境地をめざして彼女は努力したのだと。

彼女は、グラビアの仕事をしていた頃から借金をして、ハリウッドの演技学校に通っています。自分の教養不足を痛感して、カルフォルニア大学で文学講座の聴講生にもなりました。

また彼女は、スターになってからも撮影の合間によく本を読んでいました。

それは彼女の一般的なイメージと食いちがっていたし、読む本の選択も自己流な面が強かったので、周囲には馬鹿にする人もいました。それでも彼女は本を読み続けたのでした(「読書するマリリン・モンロー」で画像を検索すると、いくつか写真が出てきます)。

そして人気絶頂の50年代半ばには、仕事を犠牲にしてハリウッドを離れてニューヨークへ行き、演技指導の巨匠のもとに通ったりもしています。

彼女は後期~晩年の作品では、批評家も認める名演技を残しました。

たとえば『王子と踊子』(1957年)では英国アカデミー賞主演女優賞の候補となり、『お熱いのがお好き』(1959年)ではゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞しています。彼女はまさに「マーヴェラスな女優」になったのです!

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今でこそ、女優が「セクシー路線から演技力のある本格派へ」というのは、十分にあることです。しかし、モンローの時代には「女(女優)は、可愛いければそれでいい」という偏見も強く、彼女はなかなか理解されず悩みました。

ほかにもさまざまな心労が重なって彼女は心身の健康を害し、36才で亡くなりました(睡眠薬の飲み過ぎによる。自殺・事故・他殺の諸説あり)。

今も「カワイイだけで終わりたくない」と、努力する若い女優やタレントが、どこかにいるはずです。男子にもいるでしょう。もしマリリン・モンローがみたら、「がんばってね!」と心から応援してくれるにちがいありません。

 

このブログでは、短い人物伝をいくつかのせています。

参考文献
マリリン・モンローについての本はたくさん出ていますが、アメリカ文化研究の著名な学者による、冷静で客観的なスタンスの本として、この本はおすすめです。