そういちコラム

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漢字の書体(楷書・行書・草書など)の歴史・「初めに楷書」ではない

漢字の書体で、私たちがまず習うのは楷書(かいしょ)という、字画を略したり続けたりせずきちんと書く書体です。

楷書

そして、やや崩れたやわらかい書体である行書(ぎょうしょ)や、さらに崩れた、流れるような書体の草書(そうしょ)もあります。

草書(左)・行書(右)

では「楷書」「行書」「草書」が生まれた順序は、どうだったのか? 初めに楷書があり、それを行書→草書と崩していった?

いえ、実はそうではないのです。

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2000年ほど昔の、秦・漢の頃の古代中国では隷書(れいしょ)という古いタイプの「きちんとした書体」が公式でした。

隷書

隷書以前には、今も印鑑に用いられる篆書(てんしょ)という、画数が多く複雑な字体が一般に用いられていました。

しかし、秦の始皇帝の時代(紀元前200年代後半)に、従来の篆書(大篆という)を簡略化して書きやすくした、新しい篆書(小篆)がつくられました。それとともに地方ごとに異なっていた書体の統一もはかられた。

これは当時すすめられた度量衡(重さや長さの単位)の統一と重なる動きでした。

そして、小篆をさらに整理して隷書が生まれたのです。隷書は、その後の漢字の書体の原点です。

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それから、隷書を崩した早書きの書体として草書が生まれました。隷書から草書が生まれるまでには、それほど時間はかかっていません。

秦・漢(前漢)の時代の国家・行政の発達によって文書が増えるなかで、簡略な公式書体である隷書や、その早書きの書体である草書は生まれたといえるでしょう。

その後、草書を公式化する方向で行書が生まれます。初期の行書は、後漢の時代の西暦100年代に成立しました。

そして200年頃(後漢末から魏晋南北朝の初め)には、初期の楷書が生まれました。ただし、初期の楷書はまだ未熟で、隷書に近いものでした。

その後、魏晋南北朝時代の300年代には「書聖(最高の偉大な書家)」といわれる王羲之(おうぎし)が活躍するなど、芸術的な書の世界が開花していきます。

その基礎には100年代に発明(大幅に改良)された「紙」という新しいメディアの普及がありました(紙以前には「竹簡」「木簡」という、竹や木を細く・薄く切った板などに書いていた)。

「墨・筆で紙に書く」ことが一般化し、それによって行書や楷書などの書体も、さらに深く追究されていったのです。

そして唐の時代(600年代~)には、バージョンアップした新しい公式な書体として楷書が確立したのでした。これが今に至る「漢字のスタンダード」の書体となりました。(石川九楊『漢字とアジア』ちくま文庫、阿辻哲次『漢字の社会史』PHP新書、『「書聖 王羲之」展 図録』東京国立博物館などによる)

つまり書体の歴史としては、隷書→草書→行書→楷書という順序なのです。

このように「実際の経緯が、ぱっとみて連想するのとはちがう」というのは、ときどきあることです。

左から隷書・草書・行書・楷書

そして、楷書というのは、一見したところ「出発点」のようにみえて、じつは「到達点」だったともいえるでしょう。

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楷書の歴史をみていると、私は哲学者のヘーゲルなどが説く弁証法的な「正→反→合」の発展過程のことを思い出します。

つまり、まず「正」という出発点がある。つぎにそのアンチテーゼである、対極的な方向への展開があるが(「反」)、さらにつぎの段階ではまた出発点の「正」の方向へ戻ってくる。

しかし、それは出発点にそのまま戻るのではなく、これまでの過程をふまえた進歩があり、一段と高い次元にバージョンアップしている(「合」)。

漢字の書体の歴史の場合は、「正」にあたるのが隷書で、「反」は草書、そして「合」へと向かう過程に行書があり、到達点である「合」が楷書です。

「正→反→合」の発展過程の事例として、楷書誕生の経緯は、まさに典型的です。

そういう「歴史などにおける事象の発展過程」を考える哲学的な視点からも、漢字の書体の歴史というのは興味深いと思います。

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