勉強では「誰に学ぶか」「誰を先生とするか」ということが、決定的に大事だと思います。
「先生」というのは、「こんなふうに考えることのできる頭になりたい」と思える人です。「その思考のすべてを真似したくなる人」といってもいい。
ここで「勉強」とは、おもに何らかの「学問」や「読み書き」が関わる世界(私が私なりにやってきたこと)を想定しています。それでも「先生が大事」というのは、ほかの世界にもあてはまるはずです。
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しかし、「この人だ」と思える人がいたとして、その人があなたにとって遠い世界の人だったら、どうすればいいでしょう? 先生が高名な文化人や学者などであって、じかに教えを受けることが困難な場合は?
会えなくても、著作をくり返し読みましょう。講演会があれば、行きましょう。
先生は、ひとつしかないあなたの頭をデザインするためのお手本です。「この人だ」と心から思える人を選びましょう。じかに教えを受けることができなくたって、最高の先生をさがすことです.
このように「じかに教えを受ける機会がない先生を尊敬して、作品や言動に学ぶ」ことを「私淑(ししゅく)」といいます。
もちろん、その先生がいる学校や組織に入るなどして、じかに教えを受けることが可能な場合もあります。とくに若い人はそれを摸索してみるといいと思います。
しかし「やはり教えを受けるのは無理」だとしても、私淑すればいいのです。
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担任の先生のように、あなたの身近にいてものを教えてくれる人はもちろん大切です。でも、根本的なものの考え方に関して、安易に「身近な先生」の言うとおりに自分の頭をデザインしてはいけません。
でもかなりの場合、「身近な先生」に情が移ってしまって、「最高の先生」が言っていることよりも、身近な先生の言うほうを尊重してしまうものです。学校でたまたま受け持ちになった先生や、会社の上司などを基準にものを考えてしまう。
身近な先生が駄目な人だと、「オレの言うことだけ聞いていればいいんだ」と言うはずです。自分が最高の先生を求めることなく、身近な先生だけを大切にして育ってきたからです。
もし、身近な先生がすぐれた人なら、「世の中にはすごい人がいるんだ、自分なんかを“先生”にしたら駄目だ」と言うでしょう。その人にはきっと最高の先生がいて、その大切さがわかっているのです。
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私が高校生のとき出会った若い先生が、まさにそんな人でした。
その人は、高校の剣道部でコーチをしていたのですが、部活のミーティングでどういうわけか、哲学の講義を始めてしまう。それが、どの授業よりも面白かった。
しかし先生は「若い人は、私のような“身近な先生”レベルで志や基礎をつくってはいけない」ということを強調していました。
身近な先生に素敵な人がいたら、「あなたの“先生”は誰だったのですか?」と聞いてみてください。傾倒している人や愛読書を聞くのです。「身近な先生の先生」があなたにとっての「先生」になるかもしれません。
私もそうやって、自分にとっての最高の先生をみつけたのです。
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この記事は、以下の私そういちの著書(電子書籍)の一部を編集したものです。