そういちコラム

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現代におけるコミュニティの衰退・パットナム『孤独なボウリング』を今あらためて読む

よく言われることではありますが、現代社会(先進国)で顕著な変化のひとつに「コミュニティの衰退と個人主義化」があるでしょう。人びとが従来的なコミュニティのつながりを失って、ばらばらの個人になっていく――これは私たちの多くが感じているはずです。

最近、「現代社会におけるコミュニティの衰退」に関する「古典」といえる本を読みました。政治学者ロバート・パットナムの『孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、2006年、原著2000年)という分厚い本。

いろいろ言及されてきた本なので、どんな内容かはおおまかには知っていましたが、このたび「ちゃんと読んでみよう」と思った。

そして読んでみると、やはり「重要な問題提起をした本の迫力や切れ味」を感じます。少し前の本ですが、今も読む価値がある。

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パットナムは、1970年代以降のアメリカで、市民が自発的に参加するコミュニティの活動が縮小していることを、さまざまな調査や統計にもとづいて論じています。

選挙活動への参加の減少 、PTAの衰退 、教会出席の減少 、労働組合への所属率低下 、専門職(医師や弁護士など8つ)の組織における会員率の減少等々。

たとえば、教会に通う人は1950年代末から1990年代末にかけて約3分の1減少した。 労働組合への所属率は1950年代をピークとして、1990年代までほぼ一貫して低下し続けた。

ほんのいくつかの事柄ではなく、一見関係がなさそうな何十という分野の統計を丹念に追いかけて、社会全体の大きな動きを浮かび上がらせようとしているのが、本書の特徴です。

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そして重要なのは(パットナムが指摘するとおり)これらの1970年代以降に衰退した古典的なコミュニティは、1900年代の最初の50~60間年には成長・拡大を続けていたということです。

そもそも、市民のコミュティ活動が盛んなのは、建国以来のアメリカの伝統でした。

1830年代のアメリカを視察し、『アメリカの民主政治』(講談社学術文庫版などがある)という古典を書いたフランスの政治思想家トクヴィルは、同書において「アメリカの民主主義の活力を団体・結社の盛んな活動が支えている」と論じています。トクヴィルは「アソシエーション(結社)の力は、アメリカにおいてその最高の域に達した」と述べている。

アソシエーションは、ここでいうコミュニティの一種です。つまり、1900年代(70年頃まで)のアメリカは、そのようなコミュニティ活動の最盛期だったのです。

「アメリカが最も活力があった時代とコミュニティ活動の最盛期は重なっている」ともいえる。

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また、パットナムの本では「リーグボウリングの衰退」というミクロな現象も取り上げ、それが書名(原題『ボウリング アローン』)になっています。

リーグボウリングとは、地域のボウリング場に通って、チーム対抗戦を一定期間行うこと。アメリカでは一般的なボウリングの楽しみ方だそうです。

しかし、《1980年から1993年の間に、米国内のボウラーの総数は10%増加したが、一方でリーグボウリングは40%減少した》(柴内康文訳)といいます。

アメリカ人は、コミュニティの仲間とボウリングを楽しむよりも、1人でプレイするなどの「孤独なボウリング」を好むようになったのです。

パットナムの原著は2000年の出版ですが、その後の現代社会で「孤独なボウリング」の傾向がさらに深まっていることは、明らかだと思います。パットナムは現代人の多くが感じていることを、統計を用いた研究で示した、といえるでしょう。

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パットナムは、さまざまなコミュニティや団体などの人びとのつながりや、そこから生じる「互酬性(お互いさま)」や「信頼」の世界を、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)と呼びました。

彼の研究は、「現代のアメリカで、社会関係資本が大きく失われつつある」ことを示したものです。それが社会の安定や民主主義にマイナスになることをパットナムは懸念しています。

そして、アメリカで起こったことは、タイミングや内容は多少ちがっても、だいたいほかの先進国でも起こるわけです。

パットナム以後、「社会関係資本」についての研究は、世界的に盛んになりました。社会を支えてきた重要な要素が明らかに壊れてきたという認識が、多くの人に共有されているということです。

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従来のコミュニティが衰退する一方で「現代では、インターネットで新しい人間のつながりが生まれている」という主張もあります。

しかし「インターネットによるコミュニケーションは、それだけでは古典的なコミュニティの代替にはならない」という見解も、もちろん強くある。

パットナムもインターネットについて分析していますが、《コンピュータ・コミュニケーションは、情報の共有、意見の収集、解決策の議論にはよい》が、《合意を達成することが難しく、互いに連帯感を感じることが少ない》と述べています。

この分析は今も通用するように、私は思います。コロナ禍で「じかに会う」のが難しくなることを経験して、なおさらそう思う。とはいえ、たしかにここは議論のあるところです。

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また、パットナム(やその他の研究)によれば、アメリカの市民的な団体・結社は1970年代以後、増加傾向ではあるようです。 そこでは環境保護・福祉の増進・マイノリティの権利拡大などの理想や正義を提唱するものが目立つとのこと。

しかし、そのような現代的な結社は、少数のリーダーと専門家がすべてを仕切る傾向が強い。

その支持者は会費や寄付で資金を提供するが、会合や活動に参加することはめったにない。「お金を出して、あとはリーダーにおまかせ」ということです。

これは古典的なコミュニティの世界とは異質なものです。

パットナムによれば《伝統的な米国市民社会においては、何百万もの普通の男女が互いにやりとりをし合い、特権的立場の人々とも並んでグループに参加》していた。しかし近年はそのようなコミュニティは衰退し、特権的な指導者と多数派の人たちが同志として対話する機会は減ってしまった。

パットナムの研究の流れをくむ、ある研究者は(2000年代初頭に)こう述べています――《この新しい市民社会は、専門職と管理職、それに業界エリートによって支配されている》(パットナム編著・猪口孝訳『流動化する民主主義』ミネルヴァ書房)

このことは、現代にも全体的な傾向としてまさにあてはまると、私は思います。

最近のいろんな市民的な運動は、大勢のばらばらの個人が、それぞれの「理想や主張」を遠い星のように眺めている感じがする。ネットで反応したりお布施をしたり、それなりに賑わっているけど、一方で組織としての実態や厚みという点では弱いのではないか。

「それが市民社会の新しいかたちなのだから、それでいい」という見解もあるでしょう。でもとにかくそれは従来の古典的なあり方とは異質なものです。

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以上要するに、現代社会(先進国)の大きな流れとして、つぎのことがある。

・コミュニティへの参加を通じた社会への主体的関与の少ない、ばらばらの個人によって成り立つ社会が成立した
・その社会を少数のエリートや特権的な人びとが仕切る傾向が強まっている

少なくとも、そのような傾向をうかがわせる重要な研究や問題提起があるということです。

「なんとなく」の感覚ではなく、相当なデータに基づくところが重要です。その問題提起に賛同する・しないにかかわらず、知っておいていい視点だと思います。

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