そういちコラム

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「文化」を繁栄の基盤にした衰退期のベネチアに学ぼう

今の日本にとって最重要の長期的課題は「これからの繁栄の基盤をどうするか」ということではないでしょうか?

この数十年の日本の繁栄の基盤は、「家電や自動車などの工業製品をつくり、輸出すること」でした。

しかし、この基盤は近年かなり揺らいでいます。中国などの新興の工業国の台頭や、IT化の進展などの環境変化が、その背景にあります。

日本の「繁栄の基盤」について、これまで前提とされていたのは、従来からの「経済大国」路線を、時代にあわせて更新していくことでした。

つまり「最先端の技術でさまざまな産業を発展させて、世界との競争に勝ち抜く」という路線です。でも、それはもうむずかしくなってきている――そう感じている人も増えてきたのでは?

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そこで、ほかの選択肢を考えるうえで、世界史上に参考になる事例があります。

それは、衰退期のベネチア(ヴェネツィア)共和国です。ベネチアは、その長い歴史のなかで、環境の変化に応じて繁栄の基盤を変えているのです。

ベネチアは、中世イタリアの有力な都市国家のひとつ。「共和国」というのは、国王ではなく、貴族によって選挙された元首が統治する国だったからです。

ベネチアは最盛期には人口十数万(このほか周辺の植民地に150万人ほど)でしたが、そのうちの1000~2000人くらいの貴族の集団が支配する国でした。

その歴史は、西暦400年代から1700年代末までの長きにわたります。

西ローマ帝国の末期に、ゲルマン人や遊牧民の攻撃から逃れた人びとがこの地に移り住んだのが、その歴史の始まりです。そして、1797年にナポレオン軍に屈してベネチアは独立を失い、共和国の歴史はおわりました。

ベネチアには、最初は漁業と塩づくり以外、何の産業もありませんでした。しかし、900~1000年代から東方との貿易業で台頭していきます。東側にビザンツ帝国という、ローマ帝国の末裔の大国があり、そこで仕入れた品物を西欧の国ぐにに売ることを始めたのです。

そしてさらに、イスラムの商品や、東方のインドや中国からの品物もあつかうようになり、ばく大な利益をあげました。

その東方貿易のおもな商品は、香辛料と絹でした。西欧の毛織物や金属製品をビザンツやイスラムで売ることもさかんに行いました。造船業、海運業も発展し、強力な海軍も保有していました。

貿易業とその関連産業を繁栄の基盤として、ベネチアは1300~1400年代に絶頂をきわめました。

しかし1400年代末頃から、急激な環境変化が起きました。「大航海時代」が始まって、西欧の国ぐにが直接アジアへ航海し、香辛料などのさまざまな商品を仕入れるようになったのです。

その先鞭をつけたのはポルトガルで、1500年代後半になると、オランダやイギリスが台頭しました。

その結果、ベネチアの東方貿易のビジネスは大打撃を受け、衰退していきました。

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そこでベネチアはどう対応したか。まず、毛織物や絹織物の製造に積極的に乗り出しました。

ベネチアは狭い都市で、大きな工場のための土地や工業用水の確保が難しかったので、もともとは製造業はさかんではありませんでした。しかし、織物の製造という、当時を代表する産業に活路を見出そうとして、方針転換をはかったのです。

しかし、ベネチアの織物の製造は、あまり成功しませんでした。ベネチアの毛織物は、品質は高かったのですが高コストで、西欧の製品との競争に敗れ、生産は衰えていきました。

1600年代以降、ベネチアの製造業は絹織物、芸術性の高い工芸品、高級家具などのとくに高付価値のものに特化していきました。

また、経済が貿易主導から内需にシフトするということも起こりました。貿易業、海運、造船が衰退する一方で、食料品店、飲食業、その他のさまざまな小売業やサービス業が、1500年代後半から伸びていきました。

そしてベネチアの港も、かつての国際商業の拠点から、周辺地域の物流を担うローカルな港に変化しました。しかし、船の出入りは活発で、かたちをかえて繁栄し続けたのです。

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そして、1600年代以降の衰退期のベネチアは、「文化国家」として評価されるようになります。

多くの劇場がつくられて、オペラという新しい芸術が人気を呼ぶ。みごとな趣向をこらした祝祭・イベントがさかんになる。出版や学芸もさらに活発に。ベネチアには多くの書店が軒を並べていました。

新しい、凝ったデザインの建築も多くつくられました。イスラムから入ってきた飲料であるコーヒーを提供するカフェが、ヨーロッパで最初にオープンするといったこともありました。

そして、こうした文化の振興には、貴族などのリーダーの意思が働いていました。国際社会でのベネチアの地位が低下するなかで、文化的な発信を強化して、国の威信を復活させようとしたのです。

その結果、1700年代になると、ベネチアは「観光立国」化していきます。多くの人びとがさまざまな楽しみや文化を求めて、ヨーロッパ中からベネチアを訪れるようになりました。

ほかの都市にはない独特の景観。さまざまなグルメ、演劇・音楽、イベントを楽しむことができる。みごとな工芸品やファッション。本屋や図書館も充実。さらにカジノや娼館のような「不道徳」な楽しみの場所でも、ベネチアは有名でした。

衰退期のベネチアは、高付加価値の一定の製造業、内需中心の経済、文化を基盤とする観光業などで成り立つようになりました。そして、国民の生活は高い水準を保ち続けたのです。

つまり、衰退期のベネチアは「文化」を繁栄の基盤にしたのです。

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ベネチアのたどった道は、日本にとって参考になるように思います。日本には「ベネチア化」という選択肢があるのではないか。

最近の日本は、かなりベネチア化しているように思えます。経済の内需主導、高付加価値といったことは、かなり言われます。

また、さまざまな日本文化や日本的サービスが海外の人びとから支持されるようになり、海外からの観光客が急激に増えました。

しかし、衰退期のベネチアのような文化力を、日本は保持できるのか?

もちろん可能性はあるとは思います。一方で不安も多々あります。

文教予算や研究費で、主要国に後れをとっているようではおぼつかないです。多くの文化人が「日本では欧米にくらべて芸術・コンテンツに対する公的支援が少ない」とぼやいていたりもする。

政治家や役所は、文化が繁栄の基盤になり得ること、つまり何らかのかたちで結構なお金になることを、あまり認識していないのではないか?

高付加価値の産業も観光立国も、基礎となるのは広い意味での文化力であるはずです。

 

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