文章の世界でたくさんの仕事をしている人を見ていると、「多作なのに書くことが尽きない」のではなく、「多作だからこそ、書くことが尽きないのだ」と思えます。
どの分野にも、寡作な人と多作な人がいます。学問の世界でも、めったに論文を書かないまま定年を迎える大学教授がいる一方で、百も二百も論文や著作を発表している学者がいます。
そして、かなりの場合、寡作な人よりも多作な人のほうが、ひとつひとつのアウトプットの質が高いのです。「量」の多い人は、「質」のほうも伴っているということです。
「やはりすごい人はちがうなあ」と言ってしまえば、それまでかもしれません。
でも、「その人がすごいから」というだけでなく、そこには「多作が多作を生む」というそれなりの構造があるように思えます。
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書くことによって、人は多くの情報にめぐり合うことができます。書くために調べものをするときには、いろんな問いかけを持って資料にあたります。
問いかけを持つことで、目的のはっきりしない読書よりも、はるかに多くのことが頭に残るのです。たくさん書く人は、たくさんの知識やノウハウを蓄えることになります。
また、書くことによって、人はいろんなことを考えます。
今書いているテーマに沿ったことだけではありません。その周辺にある、いろんなことに気がつきます。「今度は、このことをやってみたい」と思えるようなテーマを、いくつも発見するのです。
そこで、たくさん書く人ほど、たくさんの書きたいテーマを抱え込むことになります。
そして、たくさん書く人は、たくさんのテーマを次々と消化するだけの知識やノウハウを持っている。だから、たくさんのテーマを次々と消化していってしまいます。
その過程で、さらにまたたくさんの知識やノウハウを蓄え、さらにまたたくさんの書きたいテーマを発見していく……
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残念ながら、私はそこまでの境地を経験したとはいえません。でも、文章を書くことを続けていると「たぶんそうなのだ」とわかる。
そして何より、多作な人の仕事ぶりをこの目で見たり本やインターネットで触れたりすると、そう思えるのです。
この記事は、私そういちのこの本(電子書籍)の一部を編集したものです。
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