そういちコラム

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戦争を終わらせる難しさ・千々和泰明『戦争はいかに終結したか』

昨年(2021年)に出版された、千々和泰明『戦争はいかに終結したか』(中公新書)という本があります。世界大戦、ベトナム戦争、湾岸戦争などの1900年代以降のいくつかの大きな戦争の終結過程を述べた本です。

「戦争終結」というテーマは、たしかに重要です。「戦争をいかに防ぐか」とともに研究されないといけない。今のウクライナ情勢などをみていると、まさにそうだと思います。しかし、著者の千々和さんによれば、「戦争終結」の研究は日本では限られているそうです。

本書はつぎのような視点に立っています――「戦争をどう終わらせるか」の主導権は戦場で優勢な側が握っているが、その方向性には2つの選択肢がある。

①さらなる犠牲を覚悟してでも、将来の危険を除去するため、徹底的に敵を打倒する(根本的解決)
②これ以上の犠牲を避けるために、将来に戦争が起こる危険を残したままでも相手と妥協する(妥協的和平)

そして、戦争終結の形態はこの「根本的解決」と「妥協的和平」のジレンマのなかで決まる。

つまり「将来の(戦争の)危険」と「現在の(戦争による)犠牲」をどう評価するか、そしてどちらを重視するか。そのせめぎあいのなかで戦争終結は決定される。

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本書によれば、第二次世界大戦でのヨーロッパの戦い(連合国対ナチス・ドイツ)は「根本的解決」の極みだといいます。

アジア太平洋戦争(連合軍対日本)も、やや妥協はあったものの、これに近い。ナチス・ドイツの政権や日本の軍国主義体制は、徹底的に解体させられました。

一方、朝鮮戦争やベトナム戦争は「妥協的和平」の傾向が強かった。たとえば朝鮮戦争ではアメリカ側は北朝鮮を存続させたまま停戦して、現在に至っている。湾岸戦争も「妥協的和平」が選択され、イラクのフセイン政権は存続した。

しかし、アフガニスタン戦争やイラク戦争では、タリバンやフセインの政権が打倒される「根本的解決」となった。

こういう分析を今のウクライナにあてはめると、どうなるでしょうか。去年出た本書には書かれていないので、自分なりに考えてみます。

まず「戦争をやめるかどうか」は、少なくとも今はロシア=プーチンに主導権がある。

そして、プーチンは「現在の犠牲(軍の損失、経済制裁のダメージ)」がさらに大きくなって、「これ以上犠牲が出ると自分の政権が危うくなる」ことが明白にならないかぎり、戦争をやめないということでしょうか? 

しかし、そもそもプーチンは自国の「犠牲」を正しく認識できるのか? またロシア社会は、私たちが思う以上に「現在の犠牲」に耐えられるのかもしれない……。

そんなふうに考えると、この戦争が止むのはやはり容易ではない気がして、重たい気持ちになります。

今のウクライナの状況をみていると、私たちは「もうこんなことはやめようよ!」と思います。しかし本書を読むと、戦時の指導者の発想は、そのような庶民の常識とはかけ離れていることが伝わってきます。

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本書にあった戦争終結の事例でとくに印象的だったのは、やはりアジア太平洋戦争における日本の終戦(ポツダム宣言受諾)の過程でした。

私はこれまで、この終戦の意思決定には、原爆投下とソ連の参戦の両方が大きく影響したと思っていました。しかし、ちがうようです。

当時の日本の指導者のあいだでは、ソ連の仲介を期待して、それによって有利な講和を連合国と結ぼうという「幻想」が、おおいに力を持っていたのだそうです。

その「幻想の外交」をぶち壊したソ連の参戦こそが決定的で、原爆の投下による影響は比較的小さかったと、本書は強調しています。

広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日の朝でしたが、日本政府はその後2日間を「本当に原爆が使用されたかどうか」の確認に費やしています。おもな閣僚などの指導者が集まる「最高戦争指導会議」は、さらにその1日あとの8月9日に開催されることになりました。

ずいぶんゆっくりしていますが、これはソ連からの外交交渉の返事を待っていて、その返事が来る予定(8日深夜~翌日未明)にあわせて9日に会議が設定されたからだと、本書では述べています。(同書153~157ページなど)

つまり、9日の最高戦争指導会議は、広島への原爆投下を受けたものではなかった。以上は、先行研究や近年に明らかになった新資料に基づく主張です。

しかし、8日深夜(日本時間)にソ連は日本に宣戦布告して、翌日未明に満州に攻め入ってきた。これがソ連の「返事」だった。

そして、9日に最高戦争指導会議などでポツダム宣言受諾の方向での議論が始まり、10日未明の「御前会議」でポツダム宣言受諾の方針が決まったのでした。ただし「国体護持(天皇制の存続)」の条件は外せない、ということになりました。

このときの終戦に向けた議論において、指導者たちが最も気にかけたのは「国体の護持がどうなるか」でした。なお、9日午前には長崎に原爆が投下されています。

その後、「国体護持」を条件とした日本のポツダム宣言受諾の申し入れは、アメリカ側に拒否されます。13日の最高戦争指導会議は行き詰ってしまう。結局、14日の御前会議で、天皇の決断によって全面的にアメリカに従う内容でのポツダム宣言受諾が決まった。そして、翌8月15日に「玉音放送」となりました。

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「幻想の外交」や「国体の護持」などにこだわって、右往左往している間に多くの人が死んでも、なかなか戦争終結を決められない――今の私たちには考えられない、指導者の感覚。でも、それだから無謀な戦争をしたわけです。

そしてこういう異常な発想におちいった指導者が「もう無益な戦いはやめよう」という常識的な方向で意思決定するのは、非常に困難なのでしょう。

現在の世界でも、このことは変わっていないのではないか。恐ろしいけど、そう思えてなりません。

 

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