そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

体系だった世界観・なぜカルトにひきつけられる?

昨日(3月20日)は1995年に地下鉄サリン事件が起こった日で、新聞・テレビなどで、当時をふりかえる報道がありました。オウム真理教というカルト教団が、都内の地下鉄に猛毒のサリンをまいたテロ事件。あれから27年も経つのですね。

当時の私(読書が生きがいの、若手のサラリーマンだった)は、「なぜあんなカルトにはまってしまう人がいるのか」ということがおおいに気になったものです。とくにオウムの中心メンバーの多くは高学歴の若者だったので、「そんな人たちがなぜ?」とやはり思いました。

そして以下に述べる「カルトの魅力」について、仮説的なことを考えました。

ある種の強い魅力があるから、カルトにひきつけられる人がいる。それがすべてではないにせよ、ひとつのポイントではあるはずだと。そしてこのことは、今も考える意味があるはずです。いろんな「フェイク」や「トンデモ」がはびこっているのですから。

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カルト的な世界の魅力のひとつに、一応は体系だった世界観を与えてくれるということがあります。まず、「教祖」の立てた根本原理があって、そこからこの世界のいろんな現象を説明していきます。森羅万象を教義と結びつけて、まとまった世界観を示そうとします。ときには、新しい科学の成果も取りあげて、説得力を持たせようとしています。

「体系だった世界観」といっても、どの程度手の込んだ、もっともらしい体系をつくれるかは、ケース・バイ・ケースです。

子どもが見たって「これはおかしい」と思えるような教義や集団もありますが、中には指導的なメンバーが人生経験豊富な大人で、哲学や科学にもかなり通じたインテリだったりすることもあります。そういう知的水準の高い、手の込んだ体系をつくれる集団は、それなりに多くの信者を獲得できるでしょう。

体系というのは強いものなのです。だから、論理や思想というのは、真理であるかどうかにかかわらず、昔から体系を志向してきました。

たとえば、今は世界的な大宗教になっている教えだって、もともとは「教祖の思いや言葉をかき集めたもの」から始まりました。そしてのちの時代に、「体系」が整えられていったのです。

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学校教育は、体系だった世界観をなかなか与えてくれません。高校の教科書を見てください。どの教科書も、すごい分量の知識がつまっています。これがいけないのです。

これらの知識を消化して、まとまったひとつの世界をイメージすることは、ほとんど不可能です。生徒はもちろん、先生だって消化しきれない。たとえば、歴史の授業では出てくる事件が多すぎて、全体的な歴史の流れがわかりません。

大学に行けばどうなのでしょうか? 大学でも、たぶん駄目です。大学の一般教養の講義は、「担当教官の専門に関する狭い範囲のことだけ」というのが多いです。

たとえば、あまり聞いたことのないひとりの思想家について一年間延々と講義したり、「西洋史」の授業といいながら、狭い地域の限られた時期について、こと細かに教えていたりします。世界を広く見わたす感じは、ありません。大学に入ったころ、私はそれでがっかりしました。

「世界は全体としてどうなっているんだろう?」「人間とは何だろう?」――それを知りたいという欲求に、学校の授業はなかなか答えてくれません。

それが、単に学校への不信にとどまらず、授業内容の源泉である科学や学問そのものに対する失望につながることがあります。とくに、まじめで思いつめやすい人の場合、そうなります。失望して、「世界観を与えてくれる教義」にひかれる人もいるはずです。科学や学問の代用品に走るのです。

少し勉強すればわかるのですが、そんな「代用品」よりも、本物の科学や学問が描き出す自然や人間や歴史のほうが、ずっと奥が深くて魅力的です。そのことを初心者にもわからせてくれる授業や本の少ないことが、困ったことなのです。

私のことを言えば、もの書きとしての自分の仕事は「ほんものの科学や学問が描き出す世界」を、入門的な読みやすいかたちで書くことだと思っています。

以前に出版した世界史の入門書――高校生にも読めるように世界史のおおまかな全体像を述べている――は、そうした仕事の一部です。ささやかでも、そういうことを続けていきたいと思います。

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