そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

「太陽の塔」という幸せなプロジェクト

先日、NHKの『歴史探偵』という番組で、1970年の大阪万博の「太陽の塔」についてやっていました。戦国時代や幕末などのいかにも「歴史」という感じではないテーマは、この番組ではめずらしい。

太陽の塔については、私も関心があります。この番組の内容と重なることも多いのですが、記事を書きたくなりました。

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太陽の塔は、万博の公式のシンボルとして建てられたのではありません。公式のシンボルタワーは別のものが建っていました。

そして、岡本太郎(1911~1996)が万博で依頼されていたのは、塔をつくることではなく、メインゲートに接する広場での展示の企画でした。

広場は日本を代表する建築家・丹下健三(1913~2005)の設計で、高さ30メートルの鉄骨構造の大屋根が覆うモダンな空間にする計画でした。

岡本はこの大屋根を突き破る、「モダン」とは本来相容れない、あのオバケみたいな塔(それも巨大な70メートルの高さ)を提案して、それを力技で通してしまいました。

完成した塔は圧倒的な存在感で、「大阪万博といえばあの塔」ということになった。

そして、当初は万博の終了とともに取り壊されるはずだったのに、今もあの塔だけが万博記念公園に建っている。

(以上、平野晴臣『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』PHP新書 による)

「太陽の塔」は、ふつうなら「あり得ない」プロジェクトだったといえるでしょう。

岡本太郎の発想や構想力、それを実現させた説得力は、たしかにすばらしい。

しかし、あの構想を受け容れて、自分の計画に取り込んだ丹下健三も偉かった。自分の本来の世界とは異質な要素を組み込むことで、すばらしい何かが生まれることを、丹下は理解した。

そして2人のとびぬけた発想が、それが「計画外」であっても実現できてしまう――『歴史探偵』の番組でも言っていましたが、そういうことは硬直化した今の日本社会ではまず無理でしょう。きっと「それは調整が難しいです」という話になるはずです。

あるいは、今どきの「さまざまな識者や国民の声をふまえて」みたいな意思決定の仕方では、太陽の塔のような常識を超えた(一見するとヘンテコな)プランはボツになってしまう。

『歴史探偵』で紹介されたVTRで、岡本と丹下は、完成した太陽の塔が大屋根を突き破って立つのを一緒にみながら、嬉しそうに笑っていました。「あの巨匠が、こんな表情をするんだ…」と思えるような笑顔でした。

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『歴史探偵』では触れていませんでしたが、太陽の塔の内部は生命の歴史を表現した巨大なオブジェを中心とする展示スペースになっていました。

近年、その内部の展示が修復されて公開されるようになりました。私も見学したことがあります。

塔のなかをつらぬいて生命進化の系統樹をあらわすオブジェがそびえていて、その系統樹の枝のうえに生命の歴史のなかのさまざまな生物のフィギュアが配置されている。

見学者はそれらを取り巻く階段(万博当時はエスカレーター)をのぼって生命の歴史をたどっていく。系統樹の頂点には、人類とその未来が待っている……

以上の説明ではまったく伝わらないでしょうが、とにかく太陽の塔の内部の展示は、哲学的なコンセプト、科学の知識や世界観、造形のセンス、工芸的スキル、素材や音響やライティングの技術など、当時の最先端のものを多く含む、さまざまな文化的・技術的要素をみごとに総合したものになっていました。

太陽の塔内部

この展示は、岡本太郎が総合プロデューサーではあるのですが、具体的には当時の若手のアーティスト、文化人、技術者、事務方などが汗をかいてつくりあげたものです。

その中核の1人として当時30代の(『日本沈没』が大ヒットする前の)SF作家・小松左京(1931~2011)もいました。小松は博識や豊かなイマジネーションを生かして、展示の主要部分のコンセプトづくりやその具体化に奔走しました。

万博についての小松の回想録「大阪万博奮闘記」(新潮文庫の1冊に収められている)を読むと、太陽の塔のプロジェクトが、いろんな反対・批判や危機をのりこえて、どうにか実現した様子をうかがい知ることができます。

太陽の塔が「ゴタゴタによって潰れた、幻のプロジェクト」に終わった可能性は、おおいにあったのだなと、この回想録を読んでつよく感じました。

いろいろ大変だったとはいえ、小松は太陽の塔の仕事について、めったにない楽しい仕事だったとふりかえっています。そして、太陽の塔プロジェクトで集まったチームについて、こう述べています。

“若い事務局員も含めて、…こんな臨時かきあつめの混成部隊で、よくこんな気持ちのいい連中が集まったと今でも不思議に思う”

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太陽の塔のように、いろんなことをのりこえて、大方の想像をこえるすばらしい何かをつくりあげるプロジェクト、そしてそこで汗をかいた人たちが「あれはほんとうに楽しい仕事だった」といえるようなプロジェクト。

そんな幸せなプロジェクトは、現代の日本ではやはり以前よりも成立しにくくなっているように思います。

創造的な・幸せなプロジェクトなどというのは、もともとむずかしいことではあります。とくに大規模なものほどそうでしょう。

しかし近年は、その理想はさらにあり得ない感じになっていると、私には思えます。それは社会の「劣化」ということではないでしょうか。

でもやはり「幸せなプロジェクト」は、これからの日本でもあり得ないわけではない、という希望も持っています。

そもそも私が不勉強で、その存在を知らないだけかもしれません。「昔はよかった」みたいな話だけではダメですね……