日本の安全保障の法制・方針については、絶えず議論の対立があります。最近の国際情勢(ウクライナ・中国・北朝鮮などのこと)も、安全保障に関する関心を高めている。
「今の日本の周囲にはさまざまな脅威や不安定要素がある。防衛力の強化が急務だ。防衛予算をもっと増やそう」「いや、平和国家として外交努力など別の方向を追求すべきだ。ほかに予算を必要とする課題は山積している」
「今の安全保障のあり方はアメリカ追従で良くない」「でもアメリカ以外に同盟すべき国があるだろうか?」
「集団的自衛権の行使は違憲だ」「いや、憲法解釈を基準に政治の重要なことを決めるなんて本末転倒だ」……
私には、こうした見解のどれにもそれなりの正しさがあるように思えます。ある種の評論家のように「どれもこれもなってない」などとバサバサ斬る気にはなれません。
しかし「どれにも一理ある」なんて、いかにも優柔不断で、言論としては役立たずですね。
それでも、この安全保障の議論のようにみんながいろいろ言えるのは良いことです。その自由や権利こそが最も根本的です。そして、その根本を守るのに「どれにも一理ある」という柔軟さは大事なはずです。
さらにその姿勢は、「未知の難問」に取り組むうえでも欠かせません。
政治の大問題は、たいていは「未知の難問」です。確かな正解など、あらかじめわかるものではない。でも、私たちはなんらかの「答え」を選んで進まないといけない。
その結果、問題がおきるかもしれません。そのときに、かつての戦争のような破局にすすまないで、軌道修正できることこそが重要です。
それには「どれにも一理ある」という見方ができないといけない。「この考えが絶対正しい」という信念に凝り固まっていると、必要な軌道修正ができません。今現在、どこかの国の独裁者は、まさにそういう状態に陥っている。
「どれにも一理ある」というのは、じつは役立たずではないのです。