そういちコラム

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レーニン・20世紀の革命を発明した男

ロシア革命(十月革命、1917)を指導し、初の社会主義国家・ソビエト連邦(ソ連)を建国したレーニン(1870~1924)。4月22日はレーニンが生まれた日。

「レーニン」は、数多くあった彼のペンネームのうち最も有名なもの。本名はウラジーミル・ウリヤーノフといいます。

レーニンが革命を実現した具体的な経緯については、短い記事ではとても書ききれません。この記事ではその人物像についての簡単なスケッチを書きます。

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レーニンがつくったソ連という国は、ロマノフ王朝が支配するロシア帝国が1917年に倒れたあと、さまざまな経緯を経て1922年に成立しました(そして1991年に崩壊した)。

ロシア帝国は、皇帝が絶対的な権力を持つ専制国家で、貴族などの少数者を除く圧倒的多数の人びとは極端に貧しく、奴隷的な状態に置かれていました。

レーニンは下層の出身ではなく、ロシア人の下級貴族の生まれです。お父さんは平民出身ですが努力を重ねて教育行政官として出世し、貴族になった人でした。

恵まれた家庭に育ったレーニンですが、ある時期からロシアという彼の祖国である専制国家を、強く憎むようになります。

そこにはひとつの原体験がありました。彼が17歳のとき、尊敬する大学生の兄が皇帝暗殺の企てに関与したとして逮捕・処刑されてしまったのです。当時すでに父親は病気で亡くなっていました。

その後レーニンと家族(お母さんと姉・妹)は、世間から冷たい仕打ちを受けました。こうした体験は、レーニンに大きな影響をあたえたでしょう。

レーニンは非常に秀才でした。最初に入った大学は、彼の学生運動や兄の件の影響で退学になってしまいました。しかし20歳のときには、名門ペテルブルク大学の卒業検定試験を受け、首席で合格しています。

卒業後は弁護士になりましたが1年半で辞めて、マルクス主義の運動にのめり込んでいきました。20代の終わりには逮捕・投獄ののち、3年余りシベリアに流刑になったことも。その後、いくつかの著作などによって理論家・活動家として頭角をあらしわたのです。

彼の活動を、妻のクルプスカヤや、夫の遺産を受け継いだお母さんが金銭面も含め支えました。クルプスカヤも活動家で、レーニンとともに流刑になっています。

レーニンはこの女性たちをはじめ、無名の活動家の頃から多くの人の支援を受けてきました。人に助けられる才能、あるいは人を利用する才能があったのです。

シベリアの流刑から釈放されると、彼は西欧に亡命し、諸国を転々としました。1905年にロシアで「第一革命」といわれるクーデタ・革命(結局は鎮圧された)が起きた際には帰国しましたが、それ以外は1917年の革命まで国外で活動しました。

1917年には、参戦した第一次世界大戦(1914~1918)が泥沼化し混迷するロシアで、レーニンとは別の勢力による革命が起こったのです。その動乱に乗じて、レーニンは自分の革命(十月革命)に成功したのでした。

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革命のための、何年にもわたるぼう大な読書や著作活動、さまざまな議論を通じて、彼のなかにはひとつの確信が成立していました。それは「自分だけがマルクスの理論という“真理”を正しく完全に理解している」という確信です。

そしてその確信を支えたのは、彼の知識人としての能力でした。これはレーニンという独裁者の特徴です。

独裁者は誰もが「自分だけが正しい」と言います。しかし自らの主張や分析を、本格的な著作で自在に書くことができた独裁者は、レーニンくらいのものです。少なくとも彼はその最高峰です。ほかの独裁者も著作を残していますが、配下の知識人に書かせるか、その助けを借りています。

そして彼の著作で展開された主張や理論は、多くの知識人からみて、相当に手ごわい本格的な内容だったのです。もちろん信奉者にとっては、それは「神の言葉」でした。

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そういう異常な自信・全能感を持つ知識人が、革命によって権力を得たらどうなるか。

レーニンは、当時の多くの革命家とちがい、「民衆とともに」という理想を捨て、「少数の指導的な革命家による独裁」に徹しました。自分とその配下の指導的な革命家は「何が正しいか」を知っている。だから社会のすべてを指導しなくてはならないと考えたのです。

そして理想国家建設のためには、人びとの権利を侵害することに何のためらいもありませんでした。ロシア帝国時代の体制側の人びと――貴族・資本家・富農を処刑することはもちろん、労働者や農民に対しても、わずかでも必要があれば弾圧するのはあたり前でした。

十月革命以後に、抵抗勢力とたたかう部下にあててレーニンが書いた、こんな手紙が残っています――「衆人監視のもとで、富農や金持ち100人以上の首を吊れ」「それを周辺100キロ以内の人民が目撃し、震えあがるようなやり方で実行せよ。そして何が正しいかを悟らせよ」というのです。

「強制収容所」という、「誤った思想の人間を教育する」という建前の、人権無視の刑務所を生み出したのもレーニンの政府でした。

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レーニンは自分が主導する理想国家建設の理論や方針に、すべてを従わせようとしました。そして質素な服装でぜいたくもせず、理想のために1日十数時間も必死に働いたのです。

毛沢東をはじめ、のちの革命家の多くはレーニンを手本にしました。レーニンは、20世紀の「革命」を発明したのです。

しかしレーニン流の革命は、恐怖の独裁国家を生み、今ではその多くが崩壊しました。彼はたしかに巨大でしたが、「多くの問題の根源」だともいえます。

そして今後の世界で、マルクス主義を掲げていなくても、レーニン的な発想の恐ろしい革命が起こることは、あり得ないとは言い切れないと思います。(ロバート・サーヴィス『レーニン(上・下)』岩波書店などによる)