そういちコラム

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今日の名言 アンネ・フランク 戦争の責任は偉い人たちだけにあるのではない

【今日の名言】アンネ・フランク(ナチスの迫害の犠牲になったユダヤ人少女、1929~1945)

戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけにあるのではありません。名もない一般の人たちにもあるのです。

迫害を逃れて家族や何人かのユダヤ人たちと隠れ家に暮らしたとき、日記に書いた言葉。こういう認識に中学生くらいの少女が達している。大きな苦しみの圧力がそんな思索を生んだのでしょうか。

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上記の言葉を含む1944年5月3日の日記で、アンネはこのように問いかけています。長くなりますが、引用します。

“《隠れ家》のわたしたちは、しばしば絶望的にこう自問します。「……いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間は、おたがい仲よく暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう」”

“そもそもなぜ人間は、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾をいっぽうでつくりだしておきながら、いっぽうでは、復興のためのプレハブ住宅をつくったりするのでしょう?”

“いったいどうして、毎日何百万という戦費を費やしながら、そのいっぽうでは、医療施設とか、芸術家とか、貧しい人たちとかのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう? 世界のどこかでは、食べ物がありあまって、腐らせているところさえあるというのに、どうしていっぽうには、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう? いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?”

このあと、冒頭に引用した言葉が出てきます。

“わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけあるのではありません。そうですとも、責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに立ちあがって、革命を起こしていたでしょうから。”

そして、さらにこう続ける。

“もともと人間には、破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力をふるいたいという本能があります。ですから、全人類がひとりの例外もなく心を入れかえるまでは、けっして戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、つちかわれ、はぐくまれてきたものは、ことごとく打ち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まきなおしに始めなくちゃならないでしょう。”

(『アンネの日記 増補新訂版』文春文庫、深町眞理子訳 以下の引用も同じ)

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アンネのこうした社会観・世界観は、かなり冷徹なものです。通俗的な「戦争や迫害の犠牲になった、悲劇の少女」のイメージを超えています。

「日記」の別の箇所では、彼女は自分たちが暮らしていたオランダの人びとの「甘さ」を批判したりもしています。

アンネの一家は、もともとはドイツで暮らしていましたが、ナチス政権下の迫害を逃れて、ユダヤ人に比較的寛容だったオランダに亡命し、アムステルダムで暮らしはじめました。ナチスの政権が成立して間もない、1933~1934年のこと。

この時アンネは4~5歳で、以後ずっとオランダで育ちました。お父さんは会社の経営者で、アンネは恵まれた家庭で育ったといえます。

しかし1940年5月にオランダは、中立国であったにもかかわらず、ドイツの侵攻を受けて短期間で降伏し、占領されてしまいました(ほかに、西欧では同時期にベルギーやフランスもナチスに征服された)。

その後オランダでは、以前よりもさらに激しいユダヤ人への迫害(強制収容所送りなど)が始まった。アンネ一家は海外に逃げることもできず(逃げるタイミングを逸した)、オランダ人の支援者の助けを得て、1942年7月から隠れ家生活を始めたのでした。隠れ家には、ほかのユダヤ人も何人か暮らしました。

オランダ人にとってナチス支配の時代は、やはり「暗黒」でした。そしてオランダ人は、イギリス・アメリカの連合軍がナチスを打倒して、自分たちを解放してくれることを待望した。

その後1944年6月6日には、連合軍によるノルマンディー上陸作戦(ドイツに占領されていた西欧への上陸作戦)が始まり、いよいよナチスの支配から解放される日も近いのでは、という希望が持てるようになってきた。

なお、アンネや隠れ家の人たちは、ラジオや(差し入れてもらった)新聞・書籍、支援者との会話を通じ、当時の情勢を知っていました。

ノルマンディー上陸作戦の開始から数日後の1944年6月13日の日記で、アンネは以下のように述べています。解放への希望に湧くオランダの人びとに、きびしい目線が向けられている。オランダ人は、他人(イギリス人たち)に助けてもらいたがっているのに、あまりに身勝手で虫が良すぎるのではないかと。

当時のアンネ自身も、解放への期待に胸をふくらませてはいましたが、一方で冷静に事態をみていた。

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“〔オランダ人は〕……怠惰な(!)イギリス人がやっと腕まくりをして本腰をいれはじめたことに満足しているでしょう。そのくせ、イギリスに占領されるのは好まない、などと口をひらけば言いつづけていて、それがどんなに不当な言い草であるか、とんと気づいていないようです。”

そして、こう続けます。

“この種の議論は、せんじつめれば、イギリスは戦うべきだ、彼らの息子を犠牲にして、オランダや、その他の被占領諸国〔ドイツに占領された国ぐに〕のため、死力を尽くして戦い抜くべきだ、というところに落ち着きます。”

“しかもイギリスは、勝ったあとも、オランダにはとどまるべきではない、すべての被占領諸国にたいし、恐縮していままでの怠慢を詫びるべきであり、インドを本来の持主に返すべきであり、そしてそのあとは、国力も弱り、貧しくもなったイギリス本土にひっこんでしまえ、そう言っているわけです。そんなことを主張するなんて、救いがたいおバカさんだとしか言えません”

“オランダ人のなかには、いまだにイギリス人を見くだしたり、イギリスという国や、老貴族ばかりの政府をばかにしたり、英軍を腰抜け呼ばわりしたりしながら、そのくせいっぽうではドイツ人をも嫌っている、そんな身勝手なひとがいますけど、そういうひとは、ここらで一発どやしつけてやる必要があります。”

こういうのを読むと、今の日本でいえば中学生のアンネが、社会に対しみごとな洞察力を発揮していることに感心します。彼女は、閉ざされた環境のなかで限られた情報をもとに、世界の情勢を理解しようと努力した。

たとえば、第二次世界大戦を転機として大英帝国は完全に解体・没落していくという、その後の世界史の転換を、1944年の時点でこの中学生はすでに当然のこととして認識している。

また、「国を守る」ことの困難や、それを他国に依存する状況の歪み、それへの無自覚についても、客観的にリアルに考えている。そして今の日本が、当時のオランダのあり方と重なるところもある。

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彼女はすごいなあ、と感心しながら私はこのくだりを読みました。

しかし感心すればするほど、途中から涙がこみあげてきました。「この娘はもうすぐひどい目にあって死んでしまうのだ」と、やはり思ってしまう。

彼女の「日記」は、以上の引用を含む6月13日から1か月余り後の、7月21日が最後です。

1944年8月4日に、アンネ一家と隠れ家の住人たちは、ナチ当局に拘束されてしまいました。何者かの密告があったのです。

ただし、彼女の日記は当局の押収を免れて、オランダ人の支援者が戦後まで保管し、家族でただ1人生き残ったアンネのお父さん・オットー・フランク(1889~1980)に渡されました。そして1947年に彼女の日記が始めて出版された。

アンネは1945年2月末から3月初めにかけて、強制収容所(絶滅収容所)で亡くなりました。なお、ナチス・ドイツが連合軍に降伏したのは同年5月初めです。

その死は、同じ収容所に送られたお姉さんのマルゴットが亡くなって数日後のこと。衛生状態の劣悪な環境で感染症にかかったためとみられます。拘束されたあと、彼女とお姉さん・お母さんはお父さんと引き離されてしまった。

しかしそもそも、アンネがいつ・どのようにして亡くなったのか、詳細はわかっていません。そして、彼女の亡骸も確認されていないのです。