そういちコラム

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今日の名言 カント あえて賢くあれ(「啓蒙とは何か」より)

【今日の名言】
カント(ドイツの大哲学者、1724~1804)「啓蒙とは何か」より

自分の「悟性(知的な能力)」を使用する勇気を持て!あえて賢くあれ!

世の中には「バカになれ」という人もいるけどご用心。そして「賢くあろうとする」のは、じつは勇気もいる。

「悟性」とは、おおむね「ものを認識する知的能力・判断力」、あるいは単に「知性」と理解すればいいかと。

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この言葉はカントの有名な論説「啓蒙とは何か」(1784)にあります。古代ローマの詩人ホラティウスの言葉をもとにしているそうです。

「18世紀(1700年代)は啓蒙主義の世紀だった」と言われることがあります。

当時のヨーロッパの有力な知識人には「人類は無知で誤りに満ちた状態から、理性の光で世界を正しく認識し、自らを解放しつつある」と説く人たちが多くいました。

別言すれば「人類は幼年時代を脱しつつある」ということ。

その背景には、ニュートン力学に代表される科学や学問の進歩、あるいは自由主義や人権思想の台頭といったことがありました。

辞書的な説明では、「啓蒙」とは「蒙(暗い状態)を啓く(ひらく)」ということです。ヨーロッパの言語でも似たようなニュアンスです(たとえば英語のenlightenment)。

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「啓蒙主義」といわれる思想のメッセージを一言でまとめるなら、こんな感じでしょうか――「人類は理性の力で、輝かしい未来を切りひらくことができる」

後の時代――1800年代から現代にいたるまで、このような思想は、さまざまな批判を受けてきました。「あまりにも能天気」というわけです。

たとえば「20世紀の世界大戦や、そのほかのさまざまな惨事や愚行をみよ、何が理性だ、何が輝かしい未来だ」ということです。

また、「人類のなかで啓蒙の先覚者であるヨーロッパ人が、世界を指導すべきだ」といった白人優越主義、ヨーロッパ中心主義につながるという批判もあります。「何でも科学や理性でわかってしまうなんて幻想にすぎない」という批判も根強い。

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たしかに、これらの「啓蒙」に対する批判は、もっともなところが多々あるとは思います。能天気すぎる啓蒙主義は、私もどうかと思います。

しかし、先日カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)を読み返したのですが、やはり重要なメッセージがそこにはあると感じました。「啓蒙なんてもう古い」などと、簡単に切り捨ててはいけないのではないか。

以下、「啓蒙とは何か」の冒頭の(岩波文庫版の)1~2ページを、長くなりますが引用します。(篠田英雄訳、読みやすさのため、少しだけ表記・語句を変更し、改行を加えた。太字はそういちによる)

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“啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。

ところでこのような未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性をあえて使用しようとする決意と勇気を欠くところにあるからである。

それだから「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を使用する勇気を持て!」――これがすなわち啓蒙の標語である。

“大方の人びとは、自然の方ではもうとっくに彼らを他人の指導から解放している(自然的成年に達している)のに、なお身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、他者がしたり顔に彼らの後見人におさまるのを甚だ容易にしているが、その原因は実に人間の怠惰と怯えとにある。

未成年でいることは、確かに気楽である。私に代わって悟性をもつ書物、私に代わって良心をもつ牧師、私に代わって養生の仕方を判断してくれる医師などがあれば、私はあえてみずから労することを用いないだろう。私に代わって考えてくれる人があり、私のほうに彼の労に酬いる資力がありさえすれば、私は考えるということすら必要としないだろう”

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要するにカントは「自分の頭で考える勇気を持て」と言っているわけです。

「人間はみな考える力を持っているはずだが、怠惰や怯えのせいで、その力を使おうとしていない。それでは体は大人になっても、精神的には未成年のままだ」と。

「啓蒙」についての代表的な古典とされる、カントの「啓蒙とは何か」は、こんな調子で始まります。

たしかに「啓蒙主義」は、近現代の思想の世界では、多くの批判にさらされてきました。でも、ここでカントが述べているような啓蒙の精神の「基本の基本」は、やはり重要だと思います。

ここで引用したくだりを「あたり前のことをくどくど言っている」と感じる人もいるかもしれません。

でも、大哲学者カントが格調高く、全人類に向かって感動的に述べているという感じもしませんか? 

私はそんなふうに感動的に受けとめているほうです。

今も私たち人類は、カントのいう「未成年」の状態を十分には脱していないのではないか。そして自分自身は、ぜひ「未成年」を脱したい、「あえて賢くある」ための努力をしていきたいと思います。

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