そういちコラム

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「技術革新がペースダウンしている」という説

美術・音楽・文学などのさまざまな表現で、20世紀末以降「新しいものが生まれにくくなっている」ということは、専門家やマニアのあいだでたまに言われます。私もそのように思っている1人。

ただ、文化的な領域で「何が新しいか」は、感覚的・主観的なところがありますね。だから「新しいものが生まれにくくなっている」というのを誰かに伝えようとしても、話がかみあわないことが多いです。

そこで、「創造」のなかでも文化よりはいくらか客観的な議論ができそうな「技術革新」のことに、話を絞りたいと思います。

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「技術革新が今後どうなっていくか」については、識者のあいだではっきりと対立があります。

この問題を論じる識者のうちの多数派は、「技術革新は今後さらに加速する」と言っている。そして驚異の未来技術や、その影響などについて語る。

しかし一方で、技術革新について「この数十年間でペースダウンしている」と指摘する比較的少数の論者もいるのです。

たとえば経済学者のタイラー・コーエンは「アメリカ人の暮らしは、インターネットを別にすれば、1950年代以降たいして変わっていない」と述べています。

自動車・冷蔵庫・電気照明といった現代的な暮らしの基本的な道具は、当時すでにあった。《生活は便利になったし、身の回りのモノの種類も増えたが、変化のペースは祖父母や曽祖父母の世代に比べて緩やかになった》とコーエンは言います。(『大停滞』NTT出版、2011年、池村千秋訳)

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そして経済学者のロバート・J・ゴードンは、アメリカにおける技術革新の停滞と、今後の経済成長の低下の可能性を、コーエンよりもさらに詳しく大著で論じています(『アメリカ経済 成長の終焉(上・下)』日経BP社、2018年)。

ゴードンによれば、1870年から1970年は急速な進歩や成長が起こった「特別な世紀」だそうです。その「世紀」でアメリカは世界をけん引しました。

そしてゴードンは、1870年以降のアメリカについてこう述べています。

《わずか一〇〇年で、日常生活は様変わりした。屋外での肉体労働は空調の効いた室内での仕事に代わり、家事は家電製品が担うようになり、暗闇には灯りがともった。人びとは孤立して生活するのではなく、移動できるようになった。……カラーテレビで届けられる世界各地の映像を居間で楽しむこともできる。何より重要なのは、新生児の寿命が四五歳ではなく七二歳に延びたことだ》(『アメメリカ経済 成長の終焉(上)』高遠裕子・山本由美訳)

たしかに1870年からの100年の変化は、すごかったと思います。

そしてこのような重大な革新は1970年頃には(アメリカでは)終わったのだと、ゴードンは言うのです。それ以降のITなどによる現代の進歩・成長は、限定的で「期待外れ」なものになったと。

《一九七〇年以降の経済成長は、目をみはるものである反面、期待外れでもある。一九七〇年以降の進歩が、娯楽、コミュニケーション、情報の収集・処理といった人間の狭い活動領域で起きてきたことに気づけば、このパラドックスは解消する。人々の関心が高い、食料、衣服、住居、交通、健康、自宅内外での労働環境といった分野では、一九七〇年以降、定性的にも定量的に進歩のペースは鈍化している》(『アメメリカ経済 成長の終焉(上)』)

つまり、1970年代以降の技術革新は、経済や生活を根幹から変えるものではなく、枝葉のきめ細かい改良にすぎないというのです。

自動車、水洗トイレ、有線の電話、冷蔵庫、テレビ、旅客機などのほうが、パソコン、インターネット、スマホよりも私たちの暮らしや社会に大きな変化を与えたというわけです。

だって、スマホがない暮らしと、上記の自動車以下の20世紀的な文明の利器がない暮らしをくらべたら、どっちがマシですか(どっちもイヤでしょうが)? 

こうした見解を、有力な経済学者が述べている。いろんな批判を浴びてはいますが。

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今の世界では、コーエンやゴードンのような見解に賛同しない意見のほうが多数派でしょう。「進歩や成長が終わるという悲観論はまちがいだったことが、これまで歴史によって何度も証明されてきた」ともよく言われる。

「新しいものが生まれにくくなっている」ことについて、「いくらか客観的なテーマを」ということで、私が「技術革新の停滞」のことを友人に話すなどしても、やはりなかなか賛成してもらえません。「世の中では普通はそんなこと言ってないよ」「近頃だっていろいろ新しいことが起きてるじゃないか」という反応です。

また仮に「近年は進歩が緩やかで限定的になった」のが正しいとしても、情報分野のような、ゴードンにいわせれば「狭い活動領域」での革新が、今後さらに巨大な地平を切り開く可能性は否定できないはずです。

たとえば、AI技術にその可能性をみる人たちがいる。情報分野のほか、生命科学に期待する人たちもいる。

つまり「これからとんでもない革新が起きるかもしれないじゃないか」ということです。まあ、そうかもしれません。

ただ、つぎのことくらいは言えるのではないでしょうか。

たしかに未来はわからない。それでも私たちは「進歩や成長の終わり」を、「あり得ること」として考えに入れていいのではないか。

「急速な進歩が続くのは当然」と決めつけるのは、狭いものの見方ではないか。

これまでの近代における進歩は、一貫した力強いものだった。だから、私たちはその経験にとらわれているのかもしれない。

「進歩の終焉」は、ほんとうにあり得ないことなのだろうか?

そういう問いかけを頭の片隅に入れておいたほうが、社会に対する見方の幅が広がると思うのですが、どうでしょうか。

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 参考文献