そういちコラム

数百文字~3000文字で森羅万象を語る。挿絵も描いてます。世界史ブログ「そういち総研」もお願いします。

ハワード・ヒューズという究極の不幸な金持ち

12月24日のクリスマス・イブになると、私はこの日が誕生日の、ある大富豪のことを思い出します。

20世紀のアメリカにハワード・ヒューズ(1905~1976)という大富豪がいました。彼は早死にした父親が創業した機械メーカーを18歳で相続し、その後まもなく、会社の支配を争った親戚を追放して経営の全権を握ります。

それからは、映画や航空機の事業に進出して大成功。さらに不動産投資などで資産は膨らみ、晩年は今の価値で「資産何十兆円」の「世界一」といわれる富豪になりました。

若い頃の彼の活躍は、非常に華やかでした。たとえば、20代でハリウッドの映画産業に進出してからは、自ら監督した大作映画を何本もヒットさせています。

また、航空機の名パイロットであり、1938年には世界一周の最速記録を打ち立てています。プレイボーイとしても有名で、女優・モデル、令嬢などさまざまな女性との浮名を流しました。

そして何より、航空技術の分野では野心的で創造的な事業家でした。

たとえば1940年代に、ジャンボジェットよりも巨大な700人乗りのプロペラの巨大飛行艇を試作したことは、とくに有名です。ただし、この大飛行艇は1947年のテスト飛行で1マイル飛んだだけで失敗に終わっています。

それでも、当時最先端だったヘリコプター製造の事業を開拓し、さらにミサイル製造や宇宙開発の分野でも、彼の会社は重要な実績を残しているのです。

***

そんな彼の前半生は、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『アビエイター』(2004年公開)で描かれているので、イメージを持っている方もかなりいらっしゃると思います。

しかし、『アビエイター』で描かれなかった晩年のヒューズについては、ご存じの方は多くはないはずです。

『アビエイター』のラストで、ディカプリオ演じるヒューズは、鏡に向かって「世界一の富豪になる」と自分に言い聞かせていました。

そして実際に(映画では描かれていませんが)、後のヒューズはいくつもの事業や不動産投資などを大成功させて、「世界一」といわれる富豪になったわけです。

***

しかし、彼は家族も友人もなく孤独でした。50代半ば以降は心を病み、隠れ家に引きこもって、めったに表に出なくなりました。

71歳で亡くなるまでの十数年間で、彼が最も長く暮らしたのは、自らが所有するラスベガスのホテルの最上階にあるペントハウスです。

そして、彼はそこで薬物づけになっていました。半裸状態で、何年ものあいだ散髪をしないので髪やヒゲはボーボー。

また、病気に感染することを極度に恐れてアルコールで体を頻繁に拭くので、肌(とくに手先や腕)は荒れ放題になっていました。とても人前に出られる状態ではありません(以前は格好良かったのに)。

彼のそばに近づくことができるのは、ほんの数名の使用人だけでした。

それでも彼は、自らの「事業の帝国」を支配していました。彼はヒューズ財閥の持ち株会社の唯一の株主であり、企業の絶対的なオーナーとして、電話やメモでごく少数の側近に指示を行い、資産や事業を管理していました。

***

たしかに、大富豪や権力者が、人目を避けてひき込もるのは、ヒューズのほかにも例のあることです。

しかしヒューズが特異なのは、私たちがイメージする大富豪らしい贅沢や快適、そして威厳とは無縁なことでした。

そもそも、大富豪が引きこもるのであれば、郊外や田舎の広大な敷地の邸宅に住むのが相場です。立派なペントハウスとはいえ、街中のホテル住まいというのは、本来は奇妙なことなのです。

そして、ガードマンに厳重に守られたペントハウスの暮らしは、どうみても人がうらやむようなものではありませんでした。

たとえば彼の寝室は、数メートル四方に過ぎません。そして寝室には誰も入れず、掃除もしなかったので、彼がこの部屋を晩年に引き払ったあとにスタッフが入ると、まさに「汚部屋」となっていたのでした。

彼の食事も、かなりひどいものでした。ある時期には、お気に入りの缶詰のスープばかり何か月も毎日食べている、などということもありました。これは極端な場合ですが、ヒューズは食べ物には無頓着でした。

彼の引きこもり生活における楽しみは、まずテレビでした。そのほかには、映写機で映画をみること。気に入った映画は何十回も(ときには食事もそっちのけで)くりかえしみたといいます。

***

しかし「大富豪としてはお金を使わない暮らしをした」のかというと、そうともいえません。「非常にアンバランスなお金の使い方をした」といえるでしょう。

たとえば、彼のために何人もの医学博士などによる、お抱え医師団が常時待機していたのですが、その医師たちにほとんど診療らしい診療をさせていません。病気や薬物で体がボロボロになっていたにもかかわらずです。

また、映画好きの彼は、あるテレビ放送局に「一晩中映画を放送してほしい」と要望したところ断られたので、その放送局を買収して映画ばかりを放送させた……なんてこともありました。

これは「大富豪ならでは」ともいえますが、やはりいびつなお金の使い方だと、私は思います。

「いびつなお金の使い方」といえば、「アイスクリーム事件」とでも呼ぶべき、つぎのようなエピソードもありました。

ある時期、ヒューズはサーティワン・アイスクリームのあるアイスを気に入って、毎日食べていました。ヒューズの側近たちはサーティワンの会社からそのアイスを大量購入してストックしていたのですが、そのアイスが廃盤になってしまった。ストックを確認すると、残りあとわずか。

そこでヒューズの部下は、サーティワンの会社と秘密裏に交渉して、そのアイスを復刻製造してもらったのです。そしてヒューズ1人のために最低の製造単位である1300リットル余りを購入したのでした……

また、ヒューズは何十人もの女性を「愛人」「囲い者」にしていたのですが、引きこもり生活になってからそれらの女性とは一切会っていません。しかし彼女たちにはずっとお金を支払い続けました。

***

結局、ヒューズが最も多くのお金を費やしたのは、「自分が完全に引きこもって、誰の目にも触れないようにすること」に対してでした。

絶対に秘密を守る側近や召使、ガードマン、それらのチームをチェックするシステム・組織――それこそが彼が莫大な資金や細心の注意を傾けて維持し続けた、最も重要な「所有物」でした。

また、自分に仕えた人間が仕事を辞めた後は(クビにした場合も含め)、「自分のことを口外しない」という守秘義務とひきかえに何十年ものあいだ給料を支払い続けています。

(以上、ジェームズ・フェラン『謎の大富豪 ハワード・ヒューズの最期』プレジデント社、1977年による)

***

うーん、これが世界一の大富豪のいきついた暮らしなのです……

ヒューズは事業の才能にあふれた、金儲けの天才でした。しかし、究極の「不幸な金持ち」です。そのみごとな標本として、今後も語り足り継ぐのに値すると、私は思います。

そして彼をみると、月並みですが「家族や身近な人を、そして自分を大切にしよう」「たとえ不遇や孤独でも自分を失わずにいたい」「お金を有意義に大事に使おう」などと思いますが、どうでしょうか? 

 

関連記事

防衛費予算に関してのほか、大富豪アンドリュー・カーネギーのお金の使い方(こちらは尊敬できる)について述べています。

こちらも尊敬できるお金持ち

世界における「移民」「難民」の大まかで基本的な数字

「移民」「難民」のことは、世界情勢を理解するうえで非常に重要なはずですが、私たちはそれについては(世界情勢に関するほかのこととくらべても)まったく知識が足りないように思います。

この記事では、世界における「移民」「難民」についてのごく大まかな統計の話をします。移民問題についての概説書や一般的な統計集で私が知ったことのうち「これは基礎的な数字だ」「興味深い」と思ったものについて述べます。

各国の事情や「移民は仕事を奪うのか?」みたいな具体的な社会問題については、ここでは述べていません。でも、ぼんやりと「やっぱり移民・難民の問題は大きなテーマだ」と感じるうえでの参考にはなるとは思います。

***

そもそも「移民」「難民」とは何でしょうか? 

移民とは、国連の定義では「居住国から一年以上離れて暮らす人」のことで、永住や長期在住を志向する人だけでなく、出稼ぎ的な人も含みます。

また「難民」とは、難民条約(1951年)の定義を要約すると「戦時・平時を問わず人種、宗教、国籍、政治的意見などが原因で迫害を受ける恐れがあるために他国などに逃れ、国際的保護を必要とする人びと」と定義できるでしょう。

***

現代の世界では、新興国や発展途上国から多くの人びとが欧米先進国へと流れ込む動きが活発化しています。

たとえば近年の西ヨーロッパでも、移民や難民の増加がみられます。つまり、「文明の中心」に向かって「周辺」から多くの人びとが流れ込む動きがあるわけです。より良い暮らしや安全な環境を求めてのことです。

国連の統計によれば、1990年から2020年のあいだに世界の国際移住者(おもに移民で、難民も含む)は83%増えて、およそ1.5憶人から2.8億人になっています。

その男女比率は、男性52%、女性48%で、ほぼ男女半々です。サービス業の労働力の需要増により、女性の割合が近年増えている。

「2.8憶人」は2020年の世界人口の3.6%です。私は「移民・難民が世界人口に占める割合は意外と少ない」ように感じますが、どうでしょうか? 

海外に移住するということは、やはり簡単ではないので、それも当然かもしれません。ただし現時点で「3.6%」ということは「まだまだ伸びしろがある」ように、私は思います。

なお、世界人口は1990年から2020年のあいだで47%増(53億→78億)なので、国際移住(移民・難民)の増加ペースはこれを明らかに上回っているのです。

そして、「南」(途上国・新興国)から「北」(先進国)への移住の増加が目立っています(この点についてはある概説書にそういう記述があるものの、具体的な統計がその本にはなく、私はまだ具体的な数字を参照していません)。

国際移住には「南→北」のほかに「北→北」「南→南」「北→南」もありますが、ここでは「南→北(周辺から中心へ)」の動きに、とくに注目したいと思います。

***

また「1990年から」というのは、「東西冷戦が西側(欧米の資本主義)の勝利」で終わって以降、ということを意味します。

冷戦以後の「グローバル化(地球規模の交流の活発化)」のさらなる進展とともに、欧米への移民は以前よりも多様になりました。

従来は西ヨーロッパ(西欧)であれば、移民はかつての植民地やほかの西欧諸国といった「歴史・文化的に関係が深い地域」からが占める傾向が強かったのです。

たとえばフランスの場合は「西欧以外では、旧植民地のアルジェリアやモロッコなどからの移民が多い」ということです。

しかし冷戦以後は、旧社会主義圏の東欧・ロシア、さまざまなアフリカや中東の諸国、さらに中国などからもかなりの移民がやって来るようになりました。

***

そして近年は、中東・イスラムでの戦争や政情不安によって大量の難民が発生し、そのうちの多くの人びとが西欧をめざす事態も起きています。

とくに2011年に始まったシリア内戦(独裁的なアサド政権と反政府派の戦い)で発生した難民は、空前の規模でした。2021年末までに海外に脱出したシリア難民は680万人を超えます。

それらの難民のうち大部分の人びとは、まずトルコなどの近隣国に逃れてから西欧をめざしました。そして「難民危機」といわれた2015~2016年には、大量のシリア難民のほか、アフガニスタンやイラクからの難民が西欧をめざす動きがあったのです。

これらの難民はトルコからエーゲ海を渡ってギリシャ経由でハンガリーなどの東欧へ進み、そこから西欧をめざしました。

このときの中東・イスラム世界ではシリア内戦のほか、複数の危機が深刻化していました。イラクとシリアではテロ組織「イスラム国」が台頭し、アフガニスタンではイスラム原理主義勢力タリバンが政権奪回に向けて攻勢を強めていたのです。

そのような背景があって、2015年のうちに130万人余りの難民がトルコ経由でヨーロッパへ流れ込む事態となりました。

この「難民危機」については「当時、ドイツのメルケル首相が難民の積極的受け入れを宣言したために、多くの難民が西欧(とくにドイツ)をめざして動き出した」ということが強調されたりもします。

たしかにメルケル首相の発言はかなりの影響を及ぼしたでしょうが、ベースとしては以上のような、当時の中東・イスラム情勢があったわけです。

***

そして、こうした難民の動きに対し、西欧の国ぐに(EU諸国)は、大量の受け入れには基本的に難色を示しました(ドイツは例外的だった)。

2015年以降はトルコ政府が(EUから多額の支援を得て)沿岸の警戒などを強化し、これまでにトルコが受け入れた300数十万人もの難民がヨーロッパに向かうのをどうにか食い止めています。

これについては「トルコはそんなにも多くの難民を受け入れているんだ」と、やや驚きませんか?

でもたしかにトルコのエルドアン政権は、明確な方針として、大量のシリアなどからの難民を受け入れているのです。(内藤正典『イスラームからヨーロッパをみる』岩波新書などによる)

しかし、そのようなトルコとEUの合意に基づく「防波堤」もいつまで維持できるかわからない ――それが2020年代初頭における現状です。

「人権問題」についてEU側がトルコ政府を非難することがあるのですが(多くの難民をトルコに背負わせているのに)、それに対しエルドアン大統領が「そんなことを言うなら、難民をヨーロッパに送り込むぞ」と脅したこともあります。

トルコにとっても何百万人もの難民を自国内に抱え込むことは、EUからの補助があるとはいえ、経済的にも精神的にも多大な負担です。どこまで現状のあり方を続けられるか……

そして、エーゲ海ルートのほかに従来からもあった「地中海などを密航して西欧をめざす」ケースは、2015年以降も後を絶ちません。シリアの内戦も(2022年末現在)続いている。

つまり「問題は未解決のまま、どうなるか予断を許さない状況」ということです。

***

そして、2022年2月に始まったウクライナ戦争では、1600万人もの国外避難者(「難民」よりも幅広い人が含まれる)が同年12月までに発生しました。

ただし2022年12月現在、その多くは隣国ポーランドなどの東欧にとどまったり、ウクライナに戻ったりしており、西欧に向かう人数は比較的限られる傾向があります(それでもドイツは、西欧では例外的に100万人余りの避難者を受け入れた)。

おおまかに700~800万人は一度海外に避難したあと、あえて危険な祖国に戻っているようです。

また、最も多くのウクライナ人が避難したポーランドには、2022年12月までに800万人余りのウクライナ人が押し寄せたのです。

ただしこの全てがポーランドにとどまったわけではなく、前述のとおり帰国した人、さらに他国へ出て行った人も多いわけです。

しかしそれでも800万という人数が、人口3800万人のポーランドに一度は入ってきているのです。ほんとうにとてつもないことです。それが今年(2022年)起こった。

***

なお、近年における大規模な難民の発生は、サハラ以南のアフリカ諸国(代表例として200~300万人の難民が発生している南スーダン)など、中東や東欧以外でもみられます。

たとえば東南アジアのミャンマーや南米のベネズエラでも、国内の政治情勢の影響で近年は多くの難民(数十万人規模で、ミャンマーは100万人規模)が発生しています。

しかし西欧の周辺地域(中東・東欧)では、さらに大規模に難民・避難民が発生しているので、ここではそれについておもに述べました。そして、今後も新たな「難民危機」が世界のどこかで発生することは、おおいにあり得るでしょう。

***

また、そもそも国際移民・難民の増加や多様化には、政治情勢だけでなく、グローバル化を支える通信・輸送の発達が大きく影響しています。

つまり、つぎのことが人びとの国際的な移動、とくに「南」から「北」への移動を促しているのです。

①携帯電話やインターネットが発展途上国でもかなり普及して海外の事情を知る機会が増えた
②国際的な移動手段が発達してコストも下がった

このような傾向は、少なくとも今後しばらくは「さらに強化される」と考えるのが自然でしょう。

つまり「移民・難民という現代の“民族大移動”は、これからの世界でますます大きな要素になる」ということです。

そして、移民・難民の影響から比較的距離を置いてきた日本も、このテーマにこれからは明らかに直面せざるを得なくなるのではないかと思います。

日本の移民・難民の状況については(それこそが私たちには大事なのかもしれませんが)、ここでは触れません。今回は世界の状況を、きわめておおまかに述べた次第です。

参考文献
以下のうち『現代ヨーロッパと移民問題の原点』はやや専門的。

最も参照した便利な統計集。このほか国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のウェブサイトなど参照。

関連記事

私そういちの世界史の概説書

一気にわかる世界史

お金を使うのはむずかしい・防衛予算増額のこと

防衛予算の増額については、今の日本周辺の情勢だと、一定程度はやむを得ないと、私も思います。しかし心配なのは、「増額した予算をうまく使えるか?」ということです。

アジア・太平洋戦争における日本軍は、軍事費の使い方が上手ではなかったようです。その象徴は戦艦大和のような、当時時代遅れになっていた巨艦に莫大な予算・資源を投じたことでしょう。

アジア・太平洋戦争についての研究者のなかには、「日本軍はアメリカの圧倒的な物量に負けた」「不利な状況で善戦した」という見方に異をとなえる見解もあります。吉田裕さん・森茂樹さんは共著のなかでこう述べています(以下、引用箇所の執筆分担は吉田さん)。

“…実のところは、日本軍には「弱いなりの戦い方」ができなかったというのが真相である。敵にくらべて国力がはるかに貧弱なのだから、その乏しい力をいかに効率よく、合理的に使って戦争目的を達成するかを考えなければならないのに、実際にはたださえ乏しい力をどんどん浪費してしまっている”
(『アジア・太平洋戦争』吉川弘文館、8ページ)

つまり、当時の日本軍は「予算や資源、労力の使い方がヘタだった」ということです。

その「ヘタ」な面を象徴することのひとつに、「補給の弱さ」があります。先ほどの吉田・森両氏の著書でも“ただでさえ乏しい国力の無駄づかいに終始した日本軍の最大の失敗は補給の軽視であった”と述べています(25ページ)。

***

では今の自衛隊はどうなのか? 私はそれを直接論じた専門家の論説を読んだことはないのですが、「今の自衛隊も、補給(軍事用語で兵站)に対する認識は弱いのではないか」と疑いたくなる話が、前掲の吉田・森共著にあります。

それは旧日本軍の補給部隊の出身で陸軍中将だった、田坂専一の発言です。田坂元中将は、戦後の1966年から80年かけて自衛隊のエリート将校たちが編纂した公刊の戦史『戦史叢書』(日清・日露をはじめとする明治の戦争から第二次大戦終結までの日本の戦史をまとめた本)について、補給の専門家としてつぎのように述べているのだそうです。

“…残念ながらこれらの戦史の中には、輜重(そういち注:しちょう、補給のこと)のことについては詳しく記載されていないのが実情でありまして、〔中略〕このような結果になったのも、〔中略〕近代戦に於いては、補給は一層その重要性を増したにも拘わらず、陸軍の中に精神面を重視するあまり後方補給の軽視乃至は物的戦力に対する認識の不足という底流があったからではなかろうかと存じます”(吉田・森前掲書74~75ページ)

1980年頃に完成した自衛隊の将校がまとめた戦史で、補給のことが軽視されているとのこと。

40年以上も前のこととはいえ、こういう「物資・予算のムダ使いにつながる、補給というものを軽視する精神」が今の自衛隊でも何らかの形で生きているのではないかと心配になります。今の自衛官は1980年頃までの自衛官の後輩ですから。

そして、軍事の専門家である自衛官以外の人たち、つまり政治家などの影響も心配の要素です。自民党をはじめとする現代日本の政治家に予算のムダ使いの傾向があることは、周知のことです。

***

アメリカの大富豪のアンドリュー・カーネギー(1835~1919)の言葉に「お金は、稼ぐより使うほうがむずかしい」というのがあります。

彼は裸一貫から身をおこして、製鉄業で財閥を築きました。しかし、66歳で会社を売り払い、今の価値で何兆円ものお金にかえてしまった。そして、そのお金をすべて社会事業につぎ込みました。図書館、学校、ホールの建設、平和や教育のための基金など……

その事業においてカーネギーは、常に慎重に検討・研究を重ねたうえでお金を使いました。「ヘタにお金を使えば、社会事業であってもかえって害をなす」と考え、何兆円もの資金がありながら、シビアにお金を使ったのです。

その活動のなかで「お金を使うのはむずかしい」という言葉が出てきたわけです。まさに「お金の達人・巨匠」といえる人物がそういうことを言うのですから、ほんとうにむずかしいのでしょう。

***

自衛隊の予算の増額は、社会のなかに「予算が足りない」現場が多々あるなかでのことです。たとえば保育士の配置(国家の予算配分が影響している)が十分でなかったり(最近のニュース関連)、市内の小学校でストーブや燃料を買う予算が不足して教室が寒かったりする(地元の子育て世代の人の話のまた聞き)のです。

どこかの自治体で「維持の予算がかかる」ことを理由のひとつに、「騒音がうるさい」という苦情のあった児童公園が廃止されることになった、なんてニュースも近頃ありました。

そんななかで「兆」のとてつもない単位で予算を増やすわけです。

私たちの自衛隊や、そこに関わる政治家・官僚は、ほんとうに増やした巨額の予算を有効に使えるのか? 彼らは苦労人の大富豪・カーネギーほどお金にシビアではないと思います。私はやはり心配しています。

参考文献

歴史と偉人の話が満載の『そういちカレンダー2023』をつくって販売しています

私そういちは毎年、歴史や偉人、社会などに関する記事がぎっしり詰まった、雑誌感覚の「読むカレンダー」をつくって『そういちカレンダー』という名称で販売しています(下の画像、現物はB5サイズ)。

これをトイレの壁とか、家族や仲間が立ち止まって読むようなところに貼ってもらえるといいと思います。周りの人との共通の話題や、「話のネタ」「考えるきっかけ」を得られるはずです。

2014年版から制作していて、今回で10年目(ずっとほぼ同様の仕様です)。このカレンダーづくりは、私にとって「1年のまとめ」のような活動です。記事の内容のかなりの部分は、このブログの記事を編集したもの。

イラストも含めた原稿作成、編集レイアウト、さらに印刷も商品の発送も自分でやっています。結構エネルギーを費やしております。

とくにお金になるわけでもない、要するに趣味。でもそれが10年続いている。

***

変わったカレンダーですけど、限られた人数ですが買ってくださる方がいて、毎年100数十部発行しています。

まあ、いわば(変わったかたちの)年賀状かクリスマスカードのようなもので、それを買ってくださるということです。そういうお客様に支えられて続けてきました。

購入者の中には10部単位で買って、ご自分の友達にプレゼントしている方もいます。

こういう、時間や手間のかかる「遊び」ができるのは、いろんな環境に恵まれているからこそ。今年もこのカレンダーを制作できたことに感謝。

『そういちカレンダー」は要らないという方でも、ご自身で「自分カレンダー」をつくって売ったりプレゼントしたりするのは、楽しい遊びとしておすすめです。

***

購入については、そういちへの直接注文か、メルカリで(詳しくは下記をご覧ください)。

【カレンダー仕様】 B5サイズ,全14ページ
ダブルループ製本、極厚口の上質紙(アイボリー)

【価格】1冊1100円(送料込み)→700円に値下げ(1月1日~)
10冊以上ご注文の場合、1冊1000円→600円に値下げ(1月1日~)

【購入方法①】そういちへの直接注文
下記のメールアドレスまで「①お名前②お届け先住所③カレンダー〇冊」の3点を書いたメールをお送りください。カレンダーの発行者である「そういち」のメールアドレスです。

メール送り先:so.akitaあっとgmail.com  「あっと」は@に変換

支払は、商品到着後。ご注文があってから数日ほどで商品を郵送にてお届けします。商品とともに代金振り込み先(郵便振替またはネット銀行の口座)のご案内をお送りします。

【購入方法②】メルカリでの購入
メルカリのサイトで「そういちカレンダー2023」または「偉人と歴史の話が満載 そういちカレンダー」と入力して検索すると、出てきます。

出てきた商品が販売済みになっている場合も、ほかに在庫はありますので、画面の下のほうの、「出品者(そういち総研)」をクリックしてください。「出品した商品」が複数出てきます。

【このカレンダーのコンテンツ】
①四百文字の偉人伝 古今東西の偉人を400文字程度で紹介
②名言 世界の見方が広がる・深まる言葉を集めました。
③コラム 発想法・社会批評・世界史等々
④知識 統計数値・歴史の年号・基本用語などを短く紹介
⑤各月の日付の欄に偉人の誕生日

***

(カレンダーのほかの月もご覧ください)

私そういちの著書

これは世界史の概説・入門書。アマゾンでの評価は現在19個で平均4.6と高評価です。社会人向けですが高校生にも読めます。新宿の大書店の高校生の学習参考書のコーナーに置かれているのをみかけたことも。ある予備校のサイトで、世界史入門のおすすめの本としても取り上げられていました。

一気にわかる世界史

以下は電子書籍

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)

Amazon
四百文字の偉人伝

四百文字の偉人伝

Amazon

「大国・先進国ばかり」ではないのが、サッカーのワールドカップ

オリンピックと比較したときのサッカーのワールドカップ(以下単にワールドカップ)の特徴として、「大国・先進国ばかりが強いわけではない」ということがあると思います。

いわば「サッカーにおける平等」が、限界はあるものの、かなり成立しています。

たしかにヨーロッパの先進国や、ブラジルのような南米の大国が強いということはあります。

しかし、ヨーロッパのなかでも中小国に有力な国があったり、アフリカやアジアの新興国・発展途上国が強国に一矢報いる、といったことが起きたりする。

そして、世界のなかで突出した超大国であるアメリカ合衆国が、サッカーの世界では、まったくそうではない。経済大国(GDP世界3位)の日本も、サッカーにおいては新興国にすぎない。今やアメリカに次ぐ超大国である中国は、ワールドカップのこの大会に出場さえしていないのです。

***

昨年(2021年)のオリンピック東京大会における、国別の金メダル獲得数の上位10か国はつぎのとおりです。

1位 アメリカ合衆国 39個
2位 中国 38個
3位 日本 27個
4位 イギリス 22個
5位 ROC(ロシア)20個
6位 オーストラリア 17個
7位~10位 10個
オランダ、フランス、ドイツ、イタリア

このように、先進国でかつ人口数千万(5000~6000万)以上の大国が多くを占めます。あとは、先進国とはいえなくても億単位の人口で、経済あるいは軍事でとくに力を持つ中国やロシアといった国ぐに。それから、中規模の先進国であるオーストラリアとオランダ。

つまり、オリンピックはみごとなほどに「大国・先進国が有利」ということ。

上のランキングで金メダル上位3か国(アメリカ、中国、日本)は、世界のGDP(国の経済規模を示す指標)の世界の上位3か国の順位とまったく同じです。

オリンピックは多くの種目からなる、スポーツ全般の祭典ですから、総合的に良い成績をあげるには、まさに国全体の総合力が求められます。

だから大国・先進国が有利になるのも仕方ありません。それはそれで「国家の総力戦(平和の祭典としての)」をみる楽しみがあるわけですが、「大国・先進国以外」の国の人たちにとってはあまり面白くないかもしれません。

***

サッカーのワールドカップは、オリンピックのこうしたあり方とはちがいます。サッカーという単一の競技での、いわば「一点突破」の力を競う大会だからです。

今日(11月27日)、日本が対戦するコスタリカも、そういう「一点突破」的な国だといえるでしょう。

コスタリカは中米にある人口510万(2020年、以下数字は全て2020年)の国で、1人あたりGDPは1.2万ドルです。

1人あたりGDPとは、国の経済規模を示すGDP(国内総生産)を人口で割ったもので、その国の経済発展の度合いと深く関わっています。

単純化していえば「1人あたりGDPが高い数値であるほど、経済発展がすすんでいる」ということです。もっと単純化すれば「1人あたりGDPが高い=お金持ち」「低い=お金が無い」ということ。

これに対し、日本の人口は1.26憶、1人あたりGDPは4.0万ドル。人口でみた国の規模も、経済発展の度合いも、日本がはるかに上回っています。

でも、近頃テレビなどで紹介されるところでは、コスタリカでは「スポーツといえばサッカーしかない」といえるほど、サッカーに対し一点突破的に取り組んできたのだそうです。

そしてこの大会で、コスタリカは手ごわい敵として、日本に立ちはだかっている。

でも、人口や経済のような、国としての基本データでみれば、日本からみればごく小さな国です。だがしかし、我が国のチームは十分戦えるはずではありますが、コスタリカに負けてしまうかもしれない(あと1時間ほどで試合開始。どうなるでしょうか)。

日本とコスタリカの試合は、最初に述べた「サッカーにおける平等」ということが、典型的に体現されています。

***

以下、ワールドカップ出場国のFIFAランキング(今大会前の最新)、1人あたりGDP、人口(どちらも2020年)の一覧です。ご参考までに。

人口はともかく、1人あたりGDPは、こういう一覧ではほとんど取り上げられません。なお、イングランドとウェールズは例外的に「主権国家」単位の出場ではないので、英国全体のデータです。

ワールドカップの試合をみるとき、「この国は、1人あたりGDPはこれくらいで(これくらいの経済発展度で)、このくらいの人口規模なんだ」というのを確認しておくと、人によっては興味深いはずです(「どうでもいい」という方も多いでしょうが)。

とにかく私自身が「ぜひ確認したい」と思うので、一覧表をつくった次第です。

【グループA】
開催国カタール FIFAランキング50位
1人あたりGDP5.1万ドル 人口290万人

エクアドル 44位 5600ドル 1800万人
セネガル 18位 1500ドル 1700万人
オランダ 8位 5.3万ドル 1700万人

【グループB】
イングランド 5位*英国4.1万ドル 6800万人
イラン 20位 1.1万ドル 8400万人
アメリカ合衆国 16位 6.3万ドル 3.3憶人
ウェールズ 19位*英国4.1万ドル 6800万人

【グループC】
アルゼンチン 3位 8500ドル 4500万人
サウジアラビア 51位 2.0万ドル 3500万人
メキシコ 13位 8300ドル 1.29憶人
ポーランド 26位 1.6万ドル 3800万人

【グループD】
フランス 4位 3.9万ドル 6500万人
オーストラリア 38位 5.6万ドル 2600万人
デンマーク 10位 6.1万ドル 580万人
チュニジア 30位 3300ドル 1200万人

【グループE】
スペイン 7位 2.7万ドル 4700万人
コスタリカ 31位 1.2万ドル 510万人
ドイツ 11位 4.6万ドル 8400万人
日本 24位 4.0万ドル 1.25憶人

【グループF】
ベルギー 2位 4.5万ドル 1200万人
カナダ 41位 4.4万ドル 3800万人
モロッコ 22位 3100ドル 3700万人
クロアチア 12位 1.4万ドル 410万人

【グループG】
ブラジル 1位 6800ドル 2.1憶人
セルビア 21位 7700ドル 690万人
スイス 15位 8.7万ドル 870万人
カメルーン 43位 1500ドル 2700万人

【グループH】
ポルトガル 9位 2.2万ドル 1020万人
ガーナ 61位 2200ドル 3100万人
ウルグアイ 14位 1.5万ドル 350万人
韓国 28位 3.2万ドル 5100万人

関連記事

虫プロ倒産のときに手塚治虫を救った、ある社長のこと

マンガ家・手塚治虫は、「虫プロダクション」というアニメーションスタジオを設立し、経営していました。

虫プロは、日本初の(毎週30分放映の)テレビアニメのシリーズである『鉄腕アトム』(1963~66放映)をはじめ、手塚治虫原作の作品を中心にいくつものアニメを手がけた、日本有数のアニメーションスタジオでした。

しかし、虫プロは1973年に多くの負債を抱えて倒産してしまいます。原因や経緯はいろいろありますが、要するに放漫経営的なところがあったのです。

テレビアニメの世界が抱える問題――限られた製作費で苦しい経営と過酷な労働が強いられるという構図は、業界の初期の時代からすでにありました。虫プロもそれにあてはまります。

虫プロの赤字を、手塚がマンガで稼いだお金で埋めることもありましたが、事業が大きくなれば、それではとても追いつきません。

ただしその一方、あまり知られていないことですが、虫プロのスタッフの給料は、じつは業界ではトップクラスで、世間的にも悪くなかったのです。

このことは、この記事の参考・引用文献である、中川右介『アニメ大国建国紀1963‐1973 テレビアニメを築いた先駆者たち』(イースト・プレス)で知りました。

***

負債を抱えて倒産した虫プロの経営者・オーナーである手塚のもとには、多くの債権者が押し寄せました。

手塚は、立派な自邸や預金などの自分の資産をすっかり処分して、債務の返済にあてました。そこは大変潔かったと言われています。

しかし、最後まで手放すことなく守り抜いた資産があります。それは、自分の作品のキャラクターに関する版権です。

こうしたキャラクターの権利は本来、手塚の資産のなかで最も価値があるといえるものです。

だから、債権者たちがこれを欲しがって、いろんな人にバラバラに譲渡されてしまうこともあり得たでしょう。たとえば鉄腕アトムの権利は債権者A社に、ジャングル大帝はB社に…といった具合です。あるいはアトムの権利をA社・B社等で、などということもあり得ます。

でもそうはならなかった。今現在、手塚作品のおもな遺産は(著作権だけでなくキャラクターの権利も)、手塚の残した会社や手塚の子どもたちが管理しています。

そうでなかったら、現代において手塚作品を映像化したり、グッズをつくったり展示したりすることには、いろいろな障害があったでしょう。少なくとも、断片的で粗雑な扱いになってしまったはず。

宝塚市にある手塚治虫記念館のようなものをつくるのも、きわめてむずかしかったにちがいありません。

***

手塚作品の(キャラクターなどの)権利を、今も手塚が残した会社が管理している――私もこれをあたりまえのように受けとめてきましたが、虫プロの倒産のことを考えれば、じつはこれは奇妙なことです。

だから、そこには特別な何かがあったということです。

たしかに、そういう「特別な何か」はありました。そのことを、私そういちは先日読んだ(前述の)中川右介さんの本で知りました。

じつは虫プロが倒産した際、手塚がキャラクター権を失わないように、助けてくれた恩人がいたのです。

その恩人は、大阪でベビー用品の卸売業を営む社長さんで、鉄腕アトムのキャラクター商品を会社で扱ったことから、手塚との交際が始まりました。

この社長は事業の傍ら、不良少年の更生の活動に熱心に取り組むなど、困っている人を助ける気持ちを強く持つ人でした。そんな社長の人柄に手塚も好意を寄せていました。のちにマンガでこの人をモデルにしたキャラクターを描いたりもしています。

そして虫プロが倒産すると、この社長は自分も債権者の1人なのに、何度も上京して手塚の相談に乗り、債権整理を手助けしてくれました。

***

そんななか、恐ろしい筋の人間が手塚のもとに取り立てにやってくるということがあり、手塚はあわててこの社長の大阪の会社を訪ね、助けを求めたのです。

自分はどうしたらいいのだろうか、いっそ外国にでも逃げようか…うろたえる手塚に、社長はアドバイスします。とにかくキャラクターの権利だけは手放すべきではないと。あれさえあれば、また再起できるはずだと。

そして、社長は手塚にこう提案します――キャラクターの権利を守るために、手塚が持っている権利のすべてを、いったん自分に譲渡しなさい。倒産騒ぎのほとぼりがさめたら、その権利はすべて手塚に返すから。

手塚はこの提案にしたがって、すぐに契約の書類(何百にもなる)を弁護士と相談したうえで用意させて、社長にキャラクターの権利を譲渡しました。

これは本来はやってはいけない、危険きわまりないことです。社長が悪い人間なら、権利はすべて取られてしまって終わりです。しかし、手塚は社長を信じたわけです。

そして、社長は約束どおり、のちに手塚に権利をすべて返したのでした。社長のところには、この権利譲渡のことを聞きつけた債権者が「権利を渡せ」と言ってくることが何度もありましたが、頑として応じませんでした。

***

うーん、そんなことがあったんですね。

このように、手塚作品という文化遺産を、個人としては何の得もないのに、義侠心で大事に守ってくれた人がいたのです。

そのおかげで、今の私たちはバラバラにならずにまとまったかたちで、あるいは本来のあり方を損なわないかたちで、手塚作品のいろんな面に触れることができるのです。キャラクターの権利がすべてではないにせよ、それが大事な要素であることはまちがいありません。

私そういちは手塚作品に子どもの頃から非常に親しんできたファンなので、この社長さんに感謝の気持ちを述べたくなります。

なお、この社長さん――「アップリカ葛西」の葛西健蔵さんについては、巽尚之『鉄腕アトムを救った男』という本があるそうです(中川さんの本の記述も、おもに同書による)。

今日(2022年11月3日)は文化の日で、手塚治虫(1928~1989)の誕生日でもあります。以上は、そんなに日にふさわしい記事であったかと。


ブログの著者そういちの最新刊(2024年2月5日発売)。世界史5000年余りの大きな流れをコンパクトに述べています。

関連記事

来年の手帳を買いました・13年間ずっと能率手帳

近所の書店で、来年(2023年)の手帳を買いました。

私そういちは、2011年以来毎年同じ手帳を使っています。「能率手帳」の一番昔からあるタイプのもので、1949年の発売のロングセラー。

2023年の手帳で私には13代目ということになります。まあ、この手帳はもっと長く使っている人が多くいるとは思いますが。

サイズや厚み、西暦の下2桁をあしらったきわめてシンプルな黒の表紙、クリーム色のページの紙に濃い緑色の印刷、黒の色付けがしてある小口などが気に入って、ずっと使っています。

あと「どこでも売っている」というのもいいですね。「そろそろ来年のを買おう」と思ったら「それを売っている店(大きな文具屋さんなど)」に出かけて行ったり、ネット通販で取り寄せたりせずに、すぐに買えるわけです。

写真は歴代の私の能率手帳。古いのも捨てないでとってあります。

同じ手帳が続くのは、仕事や生活で自分なりに納得した「型」があり、それを守っているということ。一応はいい傾向かと。

といっても、去年の春にそれまでの勤めの仕事を辞めて、今はだいたい家にいるので、スケジュールの欄に書く事柄は、それほどはありません。

でも、家族(妻)のスケジュールや、気になった本や情報、思いついたこと、日々の買い物なども、細い水性ボールペンの小さな字でときどき書いています。

勤めの仕事をしていた頃は、仕事中はこの手帳を肌身離さず持って使っていました。

この手帳にいろんなことを集約していたので、何かの拍子で家に置き忘れたりすると、非常に落ち着かない感じでした。今も、外出のときは必ず持ち歩きます。新しい手帳も、また1年大事に使っていきたいです。

そうそう、この手帳も値段が去年より少し上がっていました。今はほんとうに何でも上がっていますね。

関連記事 手帳に書くときのペンもずっと同じ

この「情報カード」を何枚か手帳にはさんで持ち歩いています

なつかしいFIRE(経済的独立による早期リタイア)というテーマについての経験談

「若いうちに資産形成をして、早期リタイアをしよう」という、FIRE(ファイア)といわれる考え方・ムーブメントがあります。

この記事では、FIREに関する私の経験を述べます。基本的に「FIREのすすめ」といえる内容です。

FIRE(ファイア)は、Financial Independence, Retire Earlyの略。直訳すれば「経済的独立による早期リタイア」ということか。

たしかに本屋さんでも近頃このテーマの関連本をみかけたことがあるし、テレビのワイドショー(去年7月の番組)で取り上げられていたのも覚えています(当時、番組をみながらメモをとった)。

その番組では、FIREを達成したというある男性(30代)が紹介されていました。

この人は大手企業に勤めていたのですが、給与の大部分を株などへの投資につぎ込んで、30才頃には7000万円の資産を形成して会社を辞めた。今は株式からの配当・利益をメインの収入にして暮らしている。そして、毎日自由時間を楽しんでいるのだそうです。

FIREのポイントは、貯金を取り崩して暮らすのではなく、資産を運用し続けながら、資産から生ずる運用益で生活するということです。それで、資産は目減りしないで長期にわたって維持される(はず)。

番組のコメンテーターの1人である30代の女性弁護士は、「これは、私たちの上の世代の価値観とは異なる、新しい生き方のひとつなのでは」みたいなことを言っていました。

たしかに、この女性の「上の世代」にあたる50~60代のオジさんのコメンテーターは、FIREには冷淡でした。

天気予報士の俳優さんは「人生で時間とお金と名誉のすべてを得るのはむずかしいものだ」などと、やや皮肉な笑いを浮かべつつ言っていました。

もう一人の、局の社員のコメンテーターは「数千万円の資産では安泰とはいえず、リスクが大きいのではないか」「資産よりも稼ぐ力が大事」と指摘。

番組のボードによる説明でも、経済評論家に取材して「株式の値下がりリスク」について述べていました。

要するに、オジさんたちに言わせれば「人生そんなに甘くないよ」ということです。うーんごもっとも。

でもたしかに、社会の最前線で活躍する、成功者といえるこの中年男性たちがFIREを「いいね」と素直に賞賛するとは思えません。これまで長年にわたって忙しく働いて、地位やお金を得てきた自分の人生を否定する感じになってしまいますから。

***

しかし私は、FIREについては「いいじゃない、やりたい人はめざしたらいいと思うよ!」と言いたいです。

それは、私が20年ほど前の30代の頃(2000年代初頭)、真剣にFIREをめざしていたからです。

そして、ある程度目標を達成し、40過ぎで会社を辞めて、以後本格的な就職をせず今日に至っています。ただし、私の若い頃はFIREという言葉はなく、「経済的独立(フィナンシャル・インデペンデンス)」などと言ってました。

だから、FIREというテーマは、私にとってはなつかしいものです。

以下、50代後半のオジさんによる「そんなの、オレは若い頃にもうやってたよ」的な話になります。

そういうオヤジの自慢話ともとれるかもしれせんが、じつは失敗や挫折の話でもあります。

***

私は20年余り前に1歳年下の妻と結婚したのですが、新婚当初から2人で「若いうちに経済的独立をする」という目標を共有するようになりました。

しっかり働いて、できるだけ貯蓄して、それを運用して増やして、まずは1億円くらいの資産を築こう。そうすれば、会社を辞めても生きていけるのでは、という見通しを持っていたのです。

このような「経済的独立」の考え方については、90年代末~2000年頃の当時、すでに関連書籍なども出ていました。

私たちは、共稼ぎで子どもはいませんでした(今も夫婦2人です)。私は同年代ではわりと給料をもらっていたほうで、妻も正社員でしたので、質素に暮らして貯金に励むと、結構貯めることができました。

そこで30代の数年間、2人の年収の半分ほどを貯蓄し続けました。同じ年代の平均的なサラリーマンの年収くらい貯金した年もありました。

そして、その貯蓄のほとんどは、投資信託のファンド購入(株式が投資対象)にあてました。一定の割合ではなく、思い切ってほぼ全部を投資に回したのです。

2000年代初頭は、株価は低迷し「どん底」な状態でしたが、その後上昇に転じ、私の買ったファンドも順調に値上がりして、運用益をあげることができました。

そうやって、数年で私たち夫婦には、数千万円の資産ができました。私たちの生活レベルなら、20年暮らせるくらいの額です。

***

そして40才過ぎで私は会社を辞めました。妻は、別の事情や考えもあって、一足先に会社を辞めていました。

ただ、そのままリタイア生活に入ったのかというと、そうではありません。私はその数千万円を元手に、協力者やお仲間と会社を始めてしまったのです。妻にも手伝ってもらいました。

会社を「始めてしまった」と書きましたが、この会社経営が失敗におわったので、そういう書き方です。どんな会社で、どんな顛末だったかは話の本筋とは別なので、今回は省略。

3年ほどで会社経営から撤退したとき、私は借金こそなかったもものの、資産の大半を失っていました。ほぼ、丸裸です。

ただし、いくらか蓄えも残っていて、たちまち生活に窮するという状態でもありませんでした。落ち込んだり、ふてくされたりで、私は3年あまり働かずブラブラしていました。おもに好きな本を読んだり、発表のあてもない文章を書いたりしていました。

一方で妻はパートの仕事を始め、さらに今も続けている自分の書道教室も開設しました。妻は、会社員時代から趣味で書道を習っていて、師匠の先生のすすめもあって、教えることを始めたのです。

私もずっとブラブラしているわけにもいきません。何か仕事を、と考えて模索するようになり、運よくキャリア・カウンセラーとして、ある組織でパートの職を得ることができました。

***

このカウンセラーの仕事での給与は、会社員時代の何分の一かでしたが、質素に暮らせば、なんとかなりました。

そして、1日6~7時間ほどの勤務で、残業はなく、土日は完全に休みで時間的余裕があるのが、私にはありがたいことでした。仕事の内容も、やりがいや興味深いことが多々ありました。

カウンセラーの仕事をしながら、たくさんある余暇を使って、私は読んだり書いたりを続けました。ブログも始めました(このブログ以前のものです)。ブログをみた出版社から声をかけていただき、ライフワークである世界史関連の本を出版したりもしました。

一方、妻は何年かかけて書道教室を軌道にのせることができました。ただし、それでも教室の利益はかぎられるので、短時間のパートの仕事も続けています。

あと、ファンドでの資産運用は、会社を辞めてからもずっと続けていました。そして、長期的にはそれなりの利益を生み、その運用益は、妻が物件を借りて書道教室を本格的に始めるときの原資になったともいえるでしょう。

***

そして、キャリア・カウンセラーとしての仕事を私は9年弱続けて、去年の春辞めてしまいました。

とにかく、まだ元気なうちに読んだり書いたりすることに、さらに打ち込む時間がほしいと思ったのです。今は、教室とパートで毎日フルに働いている妻の収入と、貯金を取り崩すことで暮らしています。

結局、私は悠々自適の経済的独立にはまったくたどりつけていません。

これからいくらかのあいだは、お金にならなくても好きなことをしていられるとは思いますが、また仕事をみつけないといけなくなる可能性はおおいにあります。

そして「読んだり書いたりをする」とは言っていますが、この数年新しい本も出せていません。でも書くことはたしかにできています。今日も朝から発表のあてのない原稿を書いていました(これを何とか完成させたい……)。

20年ほど前に経済的独立をめざして歩みはじめて、たどりついたのはこんな状態。老後は大丈夫だろうか……

***

うーん、これは「失敗」だったのでしょうか?

たしかに「成功」という感じではないですね。

でも、あまり好きではなかった会社での仕事をせず、破たんしないで十数年間生きていくことはできました。制約はあれど気に入った家に住んで、わりと好きなものを食べ、関心のある本をたいだい買って読むこともできた。

カウントすると、会社を辞めてからの16年のうち、その半分近い7~8年はやりたくて始めた起業の仕事をするか、まったく仕事をせず好き勝手に暮らしていました。パートのカウンセラーをしていたときも、1日6~7時間の労働です。

妻もパートの仕事は、半日ほどの勤務。あとは、自分がつくった書道教室の仕事をしているので、本格的な勤めの仕事で朝から晩までというのではありません(それでも、2つの仕事をこなすのはやはり忙しいと思います)。

つまり、私も妻も40代から50代にかけての、多くの人がいろんなものを背負って多忙な時期に、そんなにたくさん働かないで、好きなことに多くの時間を割くことができたのです。

妻にいわせれば「まあ、あんたはそうだけど」ということになるのですが。

***

こんなわがままな生活を私が送ることができたのは、30代に貯めた資産と、40才頃の会社を辞めるという選択のおかげです。その頃の蓄積や決断のおつりで、十数年生きていたのです。

ワイドショーのコメンテーターが言っていたように、数千万円くらいの資産では、一生安泰というわけにはおそらくいきません。

でも、暮らしぶりや子どもがいるかどうかなどの家族の事情にもよりますが、10年から20年くらいは大丈夫です。

働きざかりのうちの10年20年、朝から晩まで会社で働かなくてもいい、好きなことをしていられるって、すごいことです。

そして、資産ができて会社を辞めたからって、それっきりずっと何にも仕事をしない、ということもじつは少ないのではないでしょうか。

会社勤めのときとはちがうかたちでも、なんらかの仕事をみつけたり、つくり出したりしてまた働き始めることは結構あると思うのです。

そういう、新しい展開を模索するだけの時間を、数千万円の資産は与えてくれます。人生の選択肢や自由を、大幅に拡大してくれるのです。

***

FIRE(ファイア)をめざすというのは、いろんな恵まれた条件(給与のいい会社に勤めているとか)が揃っていないと、なかなかできないことです。そんなこと、まったく考えられないという暮らしの人は当然いるわけで、それが世の中の多数派でしょう。

でも、もしも幸いにも「経済的独立というのは頑張れば自分にできそうだ、できたらいいな」というのであれば、とくに若い人はめざしたらいいと思います。

それで失うものがどれだけあるか?

途中で挫折しても、何百万円か千万円単位の資産ができます。中途半端な資産形成で会社を辞めても、10年は働かないで大丈夫なのです。

10年のあいだにつぎの展開を何とかするのは、そんなに無理な話ではないでしょう。

もちろん「お金は貯めたけど、仕事は辞めない」という選択もできるわけです。すると、ある種の「余裕」のある状態で、会社勤めなどの仕事を続けることができます。

そんなわけで、FIREという目標について真剣に取り組んだことのない、実行したことのない先輩方のもっともらしいアドバイスは、あまり間に受けないほうがいいと思うのです。

でもまあ、今の私の(上記のような)状況では、説得力はあまりないでしょう。もちろん、それが常識的だと思います。

だから結局この記事は「FIREのすすめ」にはなっていないのでしょうが、それでいいのです。

 

関連記事

私そういちの世界史の概説・入門書

一気にわかる世界史

よく働き、よく学ぶ・エジソンが発明家として独立するまで

10月18日は発明王トマス・エジソン(1847~1931)の命日です。エジソンの葬儀が行われた1931年10月21日の夜、全米で彼の功績をたたえて1分間電灯を消すということが(どこまで完全に行われたかは別にして)実施されました。

エジソンは「よく働き、よく学んで不利な条件を克服し、人生を精一杯生きた人間」のひとつの極致です。「よく働き・よく学ぶ」人間の、まさに典型。

いくらかでも元気があるときなら、そういう人間の姿にふれると「自分も怠けないで(自分なりに・ささやかでも)がんばろう」という気になるものです。

でも落ち込んでいるときは「自分はダメだ」「こんなの無理」という感じになるのでしょうが……

偉人伝で最も興味深いのは、その人物が「第一人者」「大物」になるまでだと、私は思います。

偉人の歩みで私たちの参考や刺激になるのは、何よりも修業時代のことです。私たちの多くは、年齢を問わず大成とは程遠い「修行中」の身なのですから。

この記事では、エジソンの子ども時代から彼が発明家として一本立ちするまでを述べます。

エジソンの修業時代の歩みは、多くの人が概略だけでも知っておくといい「人類の共有財産」のようなものです。子ども向けの伝記や、あるいは「偉人だって、こんなにダメなところがあった!」みたいな話で「卒業」するのはもったいないと思うのです。

***

トマス・エジソンは、1847年にアメリカ・オハイオ州の小さな町に生まれました。父親は材木と穀物を扱う商人でした。

エジソンは、ほとんど学校教育を受けていません。8歳のとき、小学校を1年足らずでやめています。

これは(昔はよくあった)経済的事情によるものではなく、学校に適応できなかったのです。好奇心が強すぎて、いろんな質問で先生をひどく困らせたりました。成績もひどいものでした。

トマス少年(エジソン)の母親は、元教師でした。彼女は息子を自分で教育することにしました。けんめいに本を読み聞かせたりして、勉強を教えました。

1年ほどするとトマスは、さまざまな本を自分で読めるようになりました。中等学校向けの科学の本を与えると、本で図解されている科学実験を片端から自分で行うようになりました。やがて家の地下室を与えられ、実験ざんまいの日々を送るようになったのでした。

***

12歳のとき、トマスは鉄道の車内販売の売り子として就職しました。

彼の働く鉄道は、工業都市のデトロイトが終点でした。折り返しの待ち時間が数時間あり、それが自由に使えたので、機関車の整備の仕事を眺めたり、市内の工場を見物したり、図書館に通ったりしました。

そして、持ち前の好奇心や行動力で、学校に行かなくてもさまざまな知識を吸収していったのでした。

そんな彼を、周囲の大人も後押ししてくれました。特別なはからいで、列車の一部を自由に使わせてもらい、そこに実験器具を持ち込んだりしています。

さらに、その列車に手回しの印刷機を持ち込んで、新聞を編集発行しはじめました。自分で記事を書き、かなりの部数を売りました。これが、彼がはじめて何かをつくって「お客さん」を得た経験でした。

しかし、この新聞は地元のある有力者にとって不愉快な記事を書いたため、圧力をかけられてまもなく廃刊になってしまいました。

***

そんな中、ひとりの駅長が彼に目をかけてくれました。自分の家にしばらく滞在して電信を学び、技士の資格を取ることを勧めてくれたのです。

電信には強い興味があったので、願ってもない話でした。トマス(以後エジソンと呼ぶ)は熱心に勉強し、16歳で電信技士の資格をとりました。

その後エジソンは、臨時雇いで電信の仕事をしながら、アメリカの各地を渡り歩きました。

その遍歴は5年ほど続きました。さまざまな経験をしましたが、各地の電信技士との交流で、電信技術に対する知識や考えを深めることができたのは、とくに有意義でした。各地の図書館でたくさんの本を読みあさったりもしました。

この時期のエジソンは、武者修行的に広い世界をみたわけです。

当時の電信というのは、最新のテクノロジーでした。その世界での武者修行は、今でいえば先端的なIT企業を渡り歩いて仕事をするようなものだといえるでしょう。

***

1868年、21歳のエジソンは、東海岸にやってきました。そしてウェスタン・ユニオンという電信会社のボストン支局で、電信技師として働きはじめました。

その仕事のかたわら、マイケル・ファラデー(1791~1867)の『電気学実験研究』(1844~45刊)を古本で手に入れて読みました。

ボストンは多くの大学がある町なので、学問的な本に触れる機会が多かったはずです。エジソンは、少年時代の地下室で行ったように、その本にある実験を片端から追試していきました。

ファラデーは、1800年代前半に電磁気学を確立したイギリスの大科学者です。その著作に徹底的に学ぶことで、電気の科学の基礎を系統だって身につけました。

***

なお、このファラデーも独学で科学の基本を身につけた人です。若いころのファラデーは、製本の職人でした。そして、仕事であつかう本を読むのが大好きでした。とくに科学書はむさぼるように読みました。

そのうちファラデーは、科学者にあこがれるようになりました。しかし、高等教育を受けていない彼が科学者になるのは、ふつうはムリなことでした。それでも科学の仕事にたずさわりたいと、ある著名な科学者にたのみこんで助手にしてもらいます。

その後もいろいろありますが、ファラデーは、その助手の仕事をスタートとしてキャリアを積んで、ついには偉大な科学者になったのでした。

そのような科学者の書いた本だからこそ、エジソンのような独学者に響くものが多くあったのではないでしょうか。

たとえば、ファラデーの本には数学がほとんど出てこないのです。高等教育を受けていないファラデーにとって、数学は弱点でした。それでも、数学を使わずに、物理の世界を生き生きとイメージできる本を書きました。そこがファラデーのすばらしさでした。

エジソンも、学校を出ていなかったので、数学には弱いところがありました。だから、数学なしで科学の奥深い世界に入っていけるファラデーの本は、まさに「バイブル」だと思えたのでしょう。

ファラデーという偉大な独学者は、その著作によってエジソンという偉大な独学者を育てたのです。

***

やがてエジソンは、組織に雇われて働くよりも、フリーの発明家で生きていくことを模索しはじめました。

そして、「電気式投票記録機」という最初の自信作をつくりあげましたが、これは失敗でした。

これは議会における投票を、議員たちがボタン操作的に座席にいながら行える、という装置です。

エジソンはこれを各地方の議会が買ってくれると期待しました。しかし、どこも採用してくれませんでした。「こういう機械があると、政治家が投票のときに行う、いろんな工作(たとえば、投票をわざとゆっくり行って妨害するとか)ができなくなる」といわれてしまった。

エジソンは「発明は、お客さんが買ってくれてお金にならないとダメだ」と痛感したのでした。

***

そして、22歳のときには、自分の小さな会社をつくりました。電気技術の発明・改良を専門に行う会社です。

やがて「相場表示機」という電信の装置をつくりあげ、特許をとりました。

この発明は成功でした。かつて勤めたウェスタン・ユニオンが、5千ドルというまとまった金額で権利を買ってくれました(計算の仕方にもよりますが、今のお金に換算して1千~2千万円くらいか)。

その後、彼はウェスタン・ユニオンで、今度は機械の技術者として働くことになりました。彼を高く評価した同社の幹部に特別待遇でスカウトされたのです。

まもなくエジソンは、ある技術的改良で大きな業績をあげました。すると4万ドルものボーナスが出たのでした(今のお金で1~2億円くらいか)。

彼はこれを元手に、また会社をはじめました。1870年、23歳のときのことです。

こうして、発明家としての本格的な歩みがはじまりました。1872年には、1年間で37もの特許を取得しました。ものすごい仕事ぶりです。この時期、結婚をして子どももできました。

1876年、29歳のときには、ニューヨーク近郊のメンローパーク村に本格的な研究所をつくりました。その後の長いあいだ彼の拠点となった場所です。蓄音機、電灯などの有名な発明が、この研究所で生まれたのでした。

エジソンのぼう大な仕事ぶりは、有名でしょう。蓄音機、電灯をはじめ、映画、謄写版、蓄電池関係、アルカリ電池、電話の改良等々、いくつもの大発明があります。そして、生涯に1000余りの特許を取得したのでした。

「10日にひとつの小発明、半年にひとつの大発明」をモットーに、エジソンは仕事に励みました。発明のアイデア、調べたことや実験の詳細などについて書いたノートを、彼は生涯に約3400冊も残しています。

***

発明家のなかには、ある発明でまとまったお金を得ると、悠々自適のリタイア生活に入る人がいます。

しかし、エジソンはちがいました。発明で得たお金を、ひたすらつぎの発明や研究体制の強化につぎ込みました。そして、実験室に泊まり込んで仕事に没頭する。そんな生活を何十年も続けたのです。

エジソンは、「1日の実働は20時間。睡眠はせいぜい4時間で、ソファーや実験台の上で寝ることも多かった」と語っています。

エジソンの有名な言葉に「天才とは1%のひらめきと99%の汗(努力)のたまものである」というのがあります。

これについては解釈が分かれます。たとえば「1%の部分、つまり〈核になるひらめき〉がなければ、いくら汗をかいても何も生まれない」という意味だ、という説もある。

たしかにそれも一理あります。でも、エジソンの働きぶりをみていると、ストレートに「努力は大切」という意味だと思えてくるのですが、どうでしょうか。

つまり、「アイデアやセンスは出発点にすぎない。そこから努力をしないと、どうしようもない」ということです。

ここは、技術史・技術論研究家の志村幸雄さんが『人類への贈り物 発明の歴史をたどる』(NHK出版、NHKカルチャーラジオのテキスト)で同様のことを述べていて、共感しました。

エジソンにとって、「発明でお金が入る」ことは、「自分の発明が多くのお客さんを得た」「価値のある発明で、人びとの笑顔を生んだ」という証であり、「つぎの発明の研究資金を得る」ということでした。

そして彼は「多くの人びとの笑顔」を、猛烈なエネルギーで際限なく求め続けたのです。

そんな「発明家の限りない欲望」を、エジソンほどよくあらわしている人物はいないでしょう。

 

参考文献

マシュウ・ジョセフソン著、矢野徹・白石祐光・須山静夫訳『エジソンの生涯』(新潮社) 
エジソン伝の古典的定番。1962年刊のせいかアマゾンで画像がみつからず。

こちらは現代的な視点で書かれたエジソン伝

快人エジソン: 奇才は21世紀に甦る

快人エジソン: 奇才は21世紀に甦る

  • 作者:浜田 和幸
  • 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
Amazon

これはSF作家・星新一が後藤新平、野口英世、伊藤博文など10人の明治の偉人について述べた評伝集。「大人のための偉人伝」の古典的名作だと思います。星新一のシンプルな文体で読みやすく書かれながら、その人物の深いところまで伝わってくる感じがあります。この本に上記のジョセフソン『エジソンの生涯』を参照して書かれたエジソン伝(唯一の外国人)があります。

こちらにもジョセフソンの本などを参照して書かれた、短編のエジソン伝があります。ほかに野口英世、キュリー夫人、ヘレン・ケラーなどの子ども向け伝記の定番の人物(合わせて10人)の評伝がのっています。木原さんのこの本は、タイトルの「大人ための偉人伝」という、現代の出版界のひとつのジャンルの「元祖」といえる名著です。

関連記事 偉人をあつかった記事からいくつか

私そういちは、100人余りの偉人をそれぞれ400文字ほどで紹介する『四百文字の偉人伝』という本(電子書籍)を、出版社・ディスカヴァー・トゥエンティワンから出しています。2012年3月刊で、こういう超短編の偉人伝の本としては先駆け的なものです(ベストセラーになったその手の本よりも早い。でも残念ながら世の中にはほとんど知られていない)。キンドルアンリミテッドの会員は無料で読むことができます。

四百文字の偉人伝

四百文字の偉人伝

Amazon

日中戦争とウクライナの戦争の類似・和平交渉のむずかしさについて

先日(2022年9月15日)アップした当ブログの記事で、私は日中の戦争(満州事変も含めると1931~45)の経緯を簡単に紹介し、それが今のウクライナの戦争と似たところがある、ということを述べています。

要約するとこういうことです。

以下、侵略する国=日本、ロシア 侵略を受けた国=中国、ウクライナ。

・どちらも、「軍事大国ではあるが、経済・産業は今ひとつ」という国が、自分たちの「ブロック(支配圏)」をつくろうと始めた。

・最初は、侵略を受ける国の周辺的な地域(満州、クリミア)で侵略が始まり、その後数年を経て、中核地域あるいは国全体への侵攻へと拡大した。

・そして、侵略側は相手を過小評価して「すぐに制圧できる」とふんでいたが、予想外の激しい抵抗にあい、戦争は泥沼化していった。

・参戦はしていない覇権国側(アメリカなど)が侵略を受けた国を積極的に支援して、その支援が戦争の動向を大きく左右した。

・覇権国側による、侵略を行った側への経済制裁が積極的に行われた。

・侵略者側と侵略を受ける側のイメージを左右する、映像・画像を用いた国際的な報道が盛んにおこなわれた。そのなかで、もともとは国内外で評価が高くなかった侵略を受けた側の政権(蒋介石政権、ゼレンスキー政権)の株が一挙にあがっていった。

まあ、時代も国もちがうので、もちろんちがいはたくさんあります。しかし、やはり大きな構図は似ているところが多々あるように思います。

これは表面的に似ているというのではなく、既存の国際秩序に不満を持つ軍事大国が暴発するときの、ひとつの典型的なパターンをあらわしているのではないかと思います。

***

報道では、近頃のロシアはかなりさかんに「我々は和平・停戦の交渉に応ずる準備がある」ということを言っているようです。

一般に「戦争が泥沼化・苦戦の状況にある侵略者側の国家は、和平・停戦を望むようになる」という傾向があります。

つまり「敵を完全に制圧する」という目論見が崩れたことが自覚され、「このまま戦争が続くと敗北する恐れや、国家体制の危機も考えられるので、今のうちに有利な条件で和平をしたい」と考えるようになる、ということ。これは日中戦争でもみられたこと。

*なお、「和平」というのは「戦争をやめて平和な状態に戻す」こと全般をさします。そして、これに似た言葉で「停戦(休戦)」「講和」があります。
「停戦」は戦争の一時的な休止のことで、「講和」は戦争の最終的な終結をさします。それを決めた国家間の約束は「停戦協定」「講和(平和)条約」というのが一般的。どちらも、非日常的な政治的・法的用語といえます。
一方、「和平」はそれよりも日常的な表現で、ばくぜんと「停戦」「講和」の両方について使われることが多い。「和平交渉」という表現もよく使われる。

***

日中戦争における日本の軍部・政府も、中国(蒋介石率いる国民党政府)との和平交渉に、かなり取り組んでいます。

まず、1937年11月から行われた戦争のかなり初期の頃の和平交渉。この交渉は仲介役を務めたドイツの中国駐在大使の名をとって「トラウトマン和平工作」といいます。

この交渉が始まった頃日本軍は上海を制圧し、国民政府の首都南京を攻略中でした。日中の戦争が本格化したのは1937年7月のことで、同年11月というのは、戦争が拡大するなかで日本軍が明らかに優勢だった時期。

そこで、日本側は強硬な姿勢で中国との交渉に臨んだものの、日本側が主張する(日本が圧倒的に有利な)和平条件に中国側が難色を示し、日本側も譲歩しなかった。

結局1938年1月、日本政府は「国民政府を対手(あいて)にせず」という声明を出して、この和平交渉の打ち切りを宣言しました。

こうした「侵略者側にまだ勢いがあった、戦争の初期における和平の動き」は、どのくらい本気だったかは別にしてウクライナの戦争のときにもありました。

***

その後、1938年には日本軍は、徐州・武漢・広東を占領するなど進撃を続けます。しかし、主要都市は占領しても、日本軍は各地での抵抗にあって、広い範囲の支配を確立できず苦しむようになっていきました。

蒋介石の国民政府も1938年末からは、内陸部の重慶に首都を移して徹底抗戦の構えを崩しませんでした。その抵抗を、アメリカ・イギリス、ソ連といった列強の支援が支えました。

日本は、トラウトマン和平工作のほかにも、「有利な和平で戦争を早く終わらせる」ための摸索を行っています。

たとえば、おもに1938年後半に行なわれた「汪兆銘(おうちょうめい)工作」といわれるもの。日本側は国民党(国民政府を率いる政党)の大物幹部で「日本と早く妥協し、共産党と戦うべき」と考える汪兆銘に接近し、和平をすすめようとしたのです。

このような和平工作がいくつか行われたのですが、どれも実を結びませんでした。

なお、当時の中国では反政府勢力として毛沢東率いる中国共産党が存在し、その共産党と国民政府は日本との戦いでとりあえず協力関係にありましたが、根本では対立していました。

このほかの和平工作のひとつに、1939年末から1940年9月まで行われた「桐(きり)工作」といわれるものがあります(「桐」というのは、その事案に対し当局がつけた番号のような名前で、特に意味はありません)。

これは、蒋介石の妻で著名人としての影響力もあった宋美齢の弟・宋子良(そうしりょう)という人物に接近して和平交渉をすすめようとしたものです。

しかし、なんとその宋子良はニセモノで、じつは中国側の工作員だったのです。そのニセモノと日本側は何か月も交渉していたわけです。

なんだかドラマみたいな話ですが、そんな「詐欺」にひっかかるほど、当時の日本は焦っていたといえるでしょう。

結局、当時の国民政府は日本と妥協するつもりはありませんでした。列強からの支援を得て、そして相当な抵抗・反攻の実績もあげるようになり、「日本との戦いを勝ち抜くことが可能だ」という見通しを強めていったのです。

***

今のゼレンスキー政権も「ロシアが占領した東部をすべて奪還し、さらにクリミアも奪還する」という意志を強くしているようです。どこまでを本気で考えているかはわかりませんが、とにかく「この戦争に勝てる」という見通しを強くしている。

その一方でロシアは、これもどこまで本気かわかりませんが「和平の用意がある」と、また言い始めた。

こういう構図は、やはり日中戦争が泥沼化してからの状況と重なります。

そして、「和平交渉のむずかしさ」ということも、両者は共通しているでしょう。

侵略者側の手前勝手で強硬な「和平の条件」を、中国の国民政府が拒否したように、今のウクライナも決して受け入れないはずです。

日中戦争において、日本と中国がとくに決定的に折り合わなかったのは「日本軍の中国からの撤兵」ということでした。

日本側、とくに戦争の主体である日本陸軍は、「和平」したとしても中国への駐留をずっと続けるつもりでした。陸軍にとって、撤兵することは(それが何年後かのことであっても)、それまで犠牲を出しながら戦って得たものをすべて失うことであり、絶対に認められなかった。

一方で日本軍が居座り続けることは、中国側には絶対に認められない。これでは交渉がまとまるはずはない。

こういう構図で「和平交渉がまとまりようもない」というのは、日中戦争にかぎったことではありません。現に今のウクライナでも、同じようなことが生じている(生じつつある)といえるでしょう。

***

有利な和平を結ぶことも、戦況を大きく好転させることもできないまま国力を消耗していく――そういう状況に陥った日中戦争のときの日本は、さらに「暴走」していきます。

日中戦争をとことん戦い抜くために、東南アジアを占領して(インドネシアなどの)石油資源を手に入れようという「南進」の構想が、日本の指導者のあいだで有力になっていったのです。

東南アジア侵攻(南進)はイギリスやアメリカとの戦争につながる恐れがあるが、それもやむを得ない。

そして、日本にとってとくに恐ろしいのはアメリカなので、東南アジアを攻めるにあたり、アメリカの海軍基地(真珠湾)をあらかじめ叩いておこう――ごく大まかにいって、そんな発想・方向へすすんでいくのです。

アメリカは日本の「南進」を阻止するために、「経済制裁」を強化して圧力をかけていきます。当時の日本は石油をはじめ、多くの物資をアメリカや、イギリスの植民地からの輸入に頼っていました(それなのにアメリカ・イギリスと「戦争も辞さない」という姿勢だったのです)。

1941年4月からは、日本とアメリカのあいだで「日中の戦争」「日本の南進」「アメリカの経済制裁」などをめぐる本格的な外交交渉が始まったのですが、結局まとまらなかった。

1941年8月にアメリカは、日本への石油の輸出をストップしてしまいます(その直接のきっかけは日本が「南進」を本格化する動きをみせたことだった)。

そして1941年12月には、日本は真珠湾への奇襲攻撃を行い、それと同じタイミングで東南アジアへの侵攻を開始する……

***

これは、歴史の後知恵でみれば、日中の戦争で追い込まれた日本が、さらにアメリカにも追い込まれ、「破局」につながる最悪の選択へつきすすんでいった、ということです。

こうしてみると、今後のロシアが追い詰められた結果「世界の破局につながる最悪の選択」をとらないかと、心配になります。

だから、「無神経にロシアを追い詰めない」「“最悪の選択”はロシア自身の即時の破滅になると理解させる」ということは、アメリカや西側諸国にとって大事なのでしょう。

そこで、どこかの時点でアメリカが中心となって、半ば強引に(ウクライナの意志とは別に)「停戦」に持ち込もうとすることもあるかもしれません。

ここでは立ち入りませんが、たとえば朝鮮戦争(1950~53、韓国と北朝鮮の戦争)の停戦は「アメリカ、中国、ソ連という大国が主体となった決定」といえるものでした(ただし「このときのアメリカ・中国は直接の軍事介入を行って戦場で戦った」という点が今のウクライナの戦争と異なります)。

私には今後の展開など、とてもわかりません(専門家だってわからないでしょう)。

でも、一定の(基本的な)歴史知識から「今起こっていることの構図・性質」が、ぼんやりとですが見える感じはするのです。

 

関連記事

私そういちの世界史の入門・概説書

一気にわかる世界史